第九話 月琴の音色を届けて

1/1
70人が本棚に入れています
本棚に追加
/18ページ

第九話 月琴の音色を届けて

 その日は、朝からドーン、ドーンと太鼓の音が響いていた。  宮城で、大きな会議が行われる合図である。  令国各地に赴任している武官たちが登城して、任地の様子を皇帝に報告するのだ。  会議の後、万保の東側にある宮・蛍林宮で、園遊会が催されることになっていた。美しい庭園を擁するこの宮は、季節ごとの行事や、屋外での食事会に使われる。  皇帝や妃たちも、このような行事の時は宮城を出て、蛍林宮に輿で移動する。  万保の北東部分の外壁は、二重の壁になっている。その内側は、甬道(ようどう)と呼ばれる通路になっていた。  皇帝などの要人は、ここを通ることで都の人々に姿を見られることなく、宮城から蛍林宮まで移動できる。  その、甬道にほど近い坊里(くかく)の一角に、老舗の料亭があった。   夫婦でやっている小さな料亭だが、細やかな気遣いが素晴らしいと有名で、官吏たちもよく利用している。  銘軒は主人に案内され、予約しておいた二階の部屋に通された。  酒と肴を頼むと、彼は主人に言う。 「楽人を一人、呼んである。花琳(かりん)という名だ。来たら通してくれ」  主人は愛想良く了承し、下がっていった。  やがて、主人は楽人を案内してきた。  紅色の華やかな襦裙(じゅくん)に、濃いめの化粧を施した彼女は、とても美しい。凝った髪型に、簪や耳環をつけ、爪を染めた手で月琴を抱えている。  楽人が部屋に入り、主人が階下に去るのを確認してから、銘軒は声をかけた。 「化けたもんだな」 「鈴玉に手伝ってもらいました」  楽人は、笑みを浮かべる。 『花琳』は、雹華の変装した姿だった。 「見ろ」  銘軒は、格子窓の方を手で示した。  甬道に面した、二階の角部屋だ。二方向とも格子窓が開け放たれていて、欄干越しに庭が見えている。  庭の外、囲いと道を一本挟んで甬道があるが、ただの壁にしか見えない。高さ的に、中を通る人々ももちろん、見えないだろう。  銘軒は、雹華にこのように説明していた。 「昼前に、主上を始めとする皇帝家の方々が、甬道の中をお通りになる。このあたりには道に屋根もついていないから、月琴を弾けば、その音色はお耳に届くだろう。一曲だけでもお聞かせしたいという、あんたの望みは叶う」  そして、最も音が届きやすいと思われる料亭を一室、借りてくれたのだ。  追放された雹華が知り合いと出くわすと、後々面倒なので、銘軒は彼女を楽人に化けさせたのである。 「宮城の楽人なら、私も後宮で何度も見たことがあるのですが、妓楼の楽人はお化粧の仕方が違うのですね。旦那様が馨馨さんに会わせて下さったので、とても参考になりました」  雹華は艶やかな唇で礼を言う。 「本当に、ありがとうございます。これで、思い切ることができそうです」 「元妃が妓女に化けるなど、嫌がるかと思ったが。本気で、お聞かせしたいんだな」  腕組みをしながら銘軒が言うと、雹華は静かにうなずいた。 「はい。旦那様の下さったこの機会、大切に使わせていただきます」 (弾こう。壁の向こうに届くように。あの曲を)  窓のそばの椅子に座ると、雹華は袋から(ばち)を取り出した。  細長い鼈甲(べっこう)のそれにも、糸巻の紐飾りと同じ赤の、短い房飾りがついている。  銘軒はしばらく格子窓のそばに立ち、外を眺めていたが、遠く太鼓の音が響くのを耳にして言った。 「そろそろ、甬道に入られる時間だ」  そして頭を引っ込めると、彼女を見張るように、部屋の反対側の椅子に陣取る。  雹華は、ふわりと撥を構えた。  旋律が流れ始めた。  細く、しかし柔らかな音色が、ゆらりと広がる。  最初はゆっくりだった旋律が、きらきらと速さを増してかき鳴らされ始めた。しかしなお、静かで、包み込むような印象だ。 (まるで、遠い山脈を眺めながら馬で大平原を走っていく……そんな曲だ)  銘軒は思いながら、耳を傾けていた。  繰り返し、繰り返し。  同じ曲を、雹華は何度も集中して弾いていた。  ふっ、と空気が動いたかと思うと、銘軒が立ち上がって彼女に近づいた。今までずっと気配がなかったが、彼は動かずに聞いていたのだ。  雹華は手を止めないまま、彼を見つめる。  窓辺に立ち、様子をうかがっていた銘軒は、やがて振り向いた。 「蛍林宮の方で楽曲が始まった。園遊会が始まったようだ」  雹華は、もう一度弾こうとしていた手を留め、小さくため息をついた。 「……届いたでしょうか」 「たぶんな」  銘軒がうなずくと、雹華は思わず彼を見上げて微笑んだ。 「ありがとうございました。ずっと、胸に何かつっかえているような気持ちだったのが、楽になりました。旦那様のおかげです」  そして、月琴を脇に置いて立ち上がり、両手の平を胸に向けて頭を下げる。 「私の不徳でご迷惑をおかけしてしまいましたが、改めてお願いいたします。どうか、おそばに置いて下さいませ」 「お、おう。それは別に、変わらないが」  ぼそっと言った銘軒に、雹華はもう一度、礼を言った。 「ありがとうございます。嬉しい……」  銘軒は目を逸らしながら聞いてくる。 「さっきの曲、俺は知らない曲だった。有名なのか?」 「いいえ」  雹華は首を横に振り、多くは語らなかった。  ただ、曲名だけ告げる。 「『鵬程(ほうてい)万里』、という曲です」  鵬というのは、想像上の大きな鳥だ。たった一度の羽ばたきで、九万里を飛ぶと言われている。 「『はるか遠い道のり』……か」  銘軒はつぶやき、そして気を取り直したように言った。 「……用が済んだなら、出るぞ。ああ、あんた酒飲めるんだったな、残ってるから飲め」 「け、結構ですっ! あの時は特別というか!」  雹華があわてて言うと、ふ、と銘軒が口の端で笑う。 (冗談……?)  少しどきどきしながら、雹華もつい微笑んだ。  銘軒は格子窓を閉め、そして言う。 「さて、俺はもう出る」 「はい。私も片づけたら、ご主人にご挨拶して裏口から出ます」  客の銘軒と、呼ばれた楽人の『花琳』は、別の出入り口を使うのだ。  彼は先に、部屋を出ていった。 (旦那様は、主上のためにと思って助けて下さったけれど……無理に押さえつけるような方法でなく、こうして私の納得の行く方法をと考えて下さった)  階段を下りていく足音を聞きながら、雹華は撥を撥袋に入れ、月琴と一緒に包む。 (少し怖いけれど、優しい方。信じていただけるように、頑張ろう)   階下から、銘軒の声が聞こえてくる。 「騒がせたな」 「いえいえ、わたくしも音色を楽しませていただきました。風流ですな」  主人の、愛想のいい声が答えた。  雹華が部屋を出て、階段を降りかけた時──  ──不意に、玄関の方からガチャガチャと音がした。 (鎧の音? 兵士が入ってきた……)  雹華は何となく、足を止めて待った。 「銘軒殿ではないですか」  聞き覚えのある男の声がした。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!