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第九話 月琴の音色を届けて
その日は、朝からドーン、ドーンと太鼓の音が響いていた。
宮城で、大きな会議が行われる合図である。
令国各地に赴任している武官たちが登城して、任地の様子を皇帝に報告するのだ。
会議の後、万保の東側にある宮・蛍林宮で、園遊会が催されることになっていた。美しい庭園を擁するこの宮は、季節ごとの行事や、屋外での食事会に使われる。
皇帝や妃たちも、このような行事の時は宮城を出て、蛍林宮に輿で移動する。
万保の北東部分の外壁は、二重の壁になっている。その内側は、甬道と呼ばれる通路になっていた。
皇帝などの要人は、ここを通ることで都の人々に姿を見られることなく、宮城から蛍林宮まで移動できる。
その、甬道にほど近い坊里の一角に、老舗の料亭があった。
夫婦でやっている小さな料亭だが、細やかな気遣いが素晴らしいと有名で、官吏たちもよく利用している。
銘軒は主人に案内され、予約しておいた二階の部屋に通された。
酒と肴を頼むと、彼は主人に言う。
「楽人を一人、呼んである。花琳という名だ。来たら通してくれ」
主人は愛想良く了承し、下がっていった。
やがて、主人は楽人を案内してきた。
紅色の華やかな襦裙に、濃いめの化粧を施した彼女は、とても美しい。凝った髪型に、簪や耳環をつけ、爪を染めた手で月琴を抱えている。
楽人が部屋に入り、主人が階下に去るのを確認してから、銘軒は声をかけた。
「化けたもんだな」
「鈴玉に手伝ってもらいました」
楽人は、笑みを浮かべる。
『花琳』は、雹華の変装した姿だった。
「見ろ」
銘軒は、格子窓の方を手で示した。
甬道に面した、二階の角部屋だ。二方向とも格子窓が開け放たれていて、欄干越しに庭が見えている。
庭の外、囲いと道を一本挟んで甬道があるが、ただの壁にしか見えない。高さ的に、中を通る人々ももちろん、見えないだろう。
銘軒は、雹華にこのように説明していた。
「昼前に、主上を始めとする皇帝家の方々が、甬道の中をお通りになる。このあたりには道に屋根もついていないから、月琴を弾けば、その音色はお耳に届くだろう。一曲だけでもお聞かせしたいという、あんたの望みは叶う」
そして、最も音が届きやすいと思われる料亭を一室、借りてくれたのだ。
追放された雹華が知り合いと出くわすと、後々面倒なので、銘軒は彼女を楽人に化けさせたのである。
「宮城の楽人なら、私も後宮で何度も見たことがあるのですが、妓楼の楽人はお化粧の仕方が違うのですね。旦那様が馨馨さんに会わせて下さったので、とても参考になりました」
雹華は艶やかな唇で礼を言う。
「本当に、ありがとうございます。これで、思い切ることができそうです」
「元妃が妓女に化けるなど、嫌がるかと思ったが。本気で、お聞かせしたいんだな」
腕組みをしながら銘軒が言うと、雹華は静かにうなずいた。
「はい。旦那様の下さったこの機会、大切に使わせていただきます」
(弾こう。壁の向こうに届くように。あの曲を)
窓のそばの椅子に座ると、雹華は袋から撥を取り出した。
細長い鼈甲のそれにも、糸巻の紐飾りと同じ赤の、短い房飾りがついている。
銘軒はしばらく格子窓のそばに立ち、外を眺めていたが、遠く太鼓の音が響くのを耳にして言った。
「そろそろ、甬道に入られる時間だ」
そして頭を引っ込めると、彼女を見張るように、部屋の反対側の椅子に陣取る。
雹華は、ふわりと撥を構えた。
旋律が流れ始めた。
細く、しかし柔らかな音色が、ゆらりと広がる。
最初はゆっくりだった旋律が、きらきらと速さを増してかき鳴らされ始めた。しかしなお、静かで、包み込むような印象だ。
(まるで、遠い山脈を眺めながら馬で大平原を走っていく……そんな曲だ)
銘軒は思いながら、耳を傾けていた。
繰り返し、繰り返し。
同じ曲を、雹華は何度も集中して弾いていた。
ふっ、と空気が動いたかと思うと、銘軒が立ち上がって彼女に近づいた。今までずっと気配がなかったが、彼は動かずに聞いていたのだ。
雹華は手を止めないまま、彼を見つめる。
窓辺に立ち、様子をうかがっていた銘軒は、やがて振り向いた。
「蛍林宮の方で楽曲が始まった。園遊会が始まったようだ」
雹華は、もう一度弾こうとしていた手を留め、小さくため息をついた。
「……届いたでしょうか」
「たぶんな」
銘軒がうなずくと、雹華は思わず彼を見上げて微笑んだ。
「ありがとうございました。ずっと、胸に何かつっかえているような気持ちだったのが、楽になりました。旦那様のおかげです」
そして、月琴を脇に置いて立ち上がり、両手の平を胸に向けて頭を下げる。
「私の不徳でご迷惑をおかけしてしまいましたが、改めてお願いいたします。どうか、おそばに置いて下さいませ」
「お、おう。それは別に、変わらないが」
ぼそっと言った銘軒に、雹華はもう一度、礼を言った。
「ありがとうございます。嬉しい……」
銘軒は目を逸らしながら聞いてくる。
「さっきの曲、俺は知らない曲だった。有名なのか?」
「いいえ」
雹華は首を横に振り、多くは語らなかった。
ただ、曲名だけ告げる。
「『鵬程万里』、という曲です」
鵬というのは、想像上の大きな鳥だ。たった一度の羽ばたきで、九万里を飛ぶと言われている。
「『はるか遠い道のり』……か」
銘軒はつぶやき、そして気を取り直したように言った。
「……用が済んだなら、出るぞ。ああ、あんた酒飲めるんだったな、残ってるから飲め」
「け、結構ですっ! あの時は特別というか!」
雹華があわてて言うと、ふ、と銘軒が口の端で笑う。
(冗談……?)
少しどきどきしながら、雹華もつい微笑んだ。
銘軒は格子窓を閉め、そして言う。
「さて、俺はもう出る」
「はい。私も片づけたら、ご主人にご挨拶して裏口から出ます」
客の銘軒と、呼ばれた楽人の『花琳』は、別の出入り口を使うのだ。
彼は先に、部屋を出ていった。
(旦那様は、主上のためにと思って助けて下さったけれど……無理に押さえつけるような方法でなく、こうして私の納得の行く方法をと考えて下さった)
階段を下りていく足音を聞きながら、雹華は撥を撥袋に入れ、月琴と一緒に包む。
(少し怖いけれど、優しい方。信じていただけるように、頑張ろう)
階下から、銘軒の声が聞こえてくる。
「騒がせたな」
「いえいえ、わたくしも音色を楽しませていただきました。風流ですな」
主人の、愛想のいい声が答えた。
雹華が部屋を出て、階段を降りかけた時──
──不意に、玄関の方からガチャガチャと音がした。
(鎧の音? 兵士が入ってきた……)
雹華は何となく、足を止めて待った。
「銘軒殿ではないですか」
聞き覚えのある男の声がした。
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