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空気が輝いて見えるほどの、尊い日常の一瞬。
律希はやっと、今自分が抱いている感情の正体を自覚した。俯いて、肩にかけていたショルダーバッグの紐を、右手でぎゅっと握り締める。
あの時、リスクと引き換えに、この兄妹を守ったこと。極限状態で下したあの決断が守ったのは、2人の命だけではない。
続く日常、この輝かしい日々。もし、あの時決断を違えていたら、これが、未来の存続の代償とされていたのである。
それに思い至った時に、律希が感じたのは、安堵以上に恐怖だった。例え今、目の前にこの光景がはっきりと存在するとしても、自分の判断がそれを左右したという事実は恐ろしい。
「僕が……僕がもし、間違っていたら……」
律希は震える声でそう呟く。
温かい陽気なのに、背筋がつっと冷たくなった。
「……一ノ瀬さん?」
すると、隣の紗奈が、心配げにこちらを見上げた。彼女は、しばらくそのまま黙って律希を見つめていたが、ゆっくり彼の心情を把握する。そしてふいに、律希の左手を自分の右手で包み込むようにして繋いだ。
「大丈夫ですよ、安心して下さい。一ノ瀬さんは間違えてない。だから、ほら……」
紗奈は、残った左手で前を指す。そこには、袋に入れたパンを子供たちに配るさやかと、笑顔で一人の男の子の頭をくしゃっと撫でる優斗が居た。
「よーく見て下さいね。目に焼き付けるように、じーっと。そうすれば……ね? この景色が、消える可能性は万に一つも無かったんだって。そう思えてきませんか?」
律希は、紗奈の手の温もりを頼りに、もう一度顔を上げる。言われた通り、目の前の景色に集中すると、その輝く日常の一コマは、よりはっきりとこちらに迫ってきた。
この営みは、人智を超えたところで保障されている……そんな気が、確かにした。
紗奈は、さらに強く律希の手を握りなおす。そして、ささやくようにこう言った。
「ほら、もう怖くないでしょう? この世界は、今も昔も、ちゃんと存在してる。それは、数学の答えみたいに、間違えようがないものなんです」
その時、優斗に頭をぐしゃぐしゃにされていた男の子が、「あーっ!」と声を上げた。
「東コーチ! そろそろグラウンドに戻らないと、二ッ谷FCが来ちゃうよ。もう12時40分だもん。パン食べて、試合前にもう一回練習しなきゃ」
「あー、そうだな! 他のチームメンバーも腹空かせて待ってるし……よし。また走って戻ろっか」
優斗がそう答えて、子供たちに号令をかける。一斉に、来た方角へと走り出す彼らの背中に、さやかが、
「試合、頑張ってねー!」
と声をかける。
その光景を微笑ましく見ながら、紗奈はまた無邪気に言う。
「コーチって、言ってましたね! 優斗君は確か、サッカー選手になりたいって言ってたけど……今は、コーチになったんだ」
「天職だと思うよ。優斗、すごく楽しそうだった。子供たちにも懐かれてたし……」
そう言いながら、律希は、自分の胸に温かさが広がっていくのを感じた。
もし、たとえ、だとしても。
そんな仮定は、もういらない。ここには、はっきりとした形を示す「幸せ」があるのだから。
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