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1 取り引きとキス
吐き気がするほど欲しいあの男は、既に誰かのものだった。
「新田先生、その指輪は?」
「ああ、これはね」
結婚指輪だよ、と新田が告げれば、指輪の銀色が応えるようにぎらりと光る。
猛禽類の目みたいで、ぞくりとした。
でもそれはきっと、俺の中に邪な気持ちがあるからだ。
「新田先生、結婚、したんだ」
俺の声が震えたのを、新田は気づいただろう。なぜなら、俺と新田は体の関係を持ったことがあるから。
たった一度切りだったけれど、俺にとっては大事な思い出だった。なのに。
「ああ、結婚した」
新田は目を逸らすことなく、はっきりと答える。
優しい先生として人気の新田が、見たこともないほど冷たい目をして。
「だから……」
俺とのことはなかったことにしてほしいなどと続けそうな新田の言葉を掻き消すように、俺は遮った。
「俺は新田先生とのこと忘れたりしないし、諦めたりなんかしない」
「藤野、それは」
「体だけでもいいし、それが駄目ならキスだけでもいい。俺は先生との関係を終わりになんかしたくない」
先生との関係。俺は自分で言いながらも、それが何なのか分からなかった。
体の関係を持ったのはただの一度切りだし、それ以来はキスさえしていない。
ただ、放課後に新田がいる化学準備室に来て、些細な雑談をするだけ。一緒に飲み物を飲んでいたから、茶飲み友達?
でも、俺にとってはその時間が、何よりも大切だった。
新田の目が値踏みするように俺を見る。あっさり断られるのを覚悟していたが、考えさせる余地があることに安堵した。
「藤野、君は地獄を見ることになる。それでもいいのか」
「先生と地獄を見られるならば、本望です」
はっきりと返せば、新田が手を伸ばしてきた。
くしゃくしゃっと頭を撫でられて目を細めると、顎を持ち上げられ、口付けが降ってくる。
そっと触れるだけのキスは優しいものだったが、俺には「これ以上は近づくな」と言われているように感じられた。
「週に一回、ここでキスをする。それ以上はしない」
「はい」
もう一度ぽんと頭を撫でたかと思うと、新田は「もう帰りなさい」と言ってデスクの方へ向きを変える。
「さようなら」
背中に縋りつきたい気持ちを堪え、化学準備室を出る。
すると、廊下の壁に背中を預けながら立っている安西朝と目が合い、ぎくりとした。
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