後編

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後編

   五月のことだった。伊吹を恐れず友達になってくれた田上(たがみ)と、教室で弁当を食べていると、彼がふいに尋ねてきた。 「伊吹って、ハーフなん?」 「いや……なんていうんやったかな。四分の一――クォーター?」 「おお、やっぱりそうなんや。いやあ、最初はその髪染めてるんかと思っとったんやけど、全然根元が黒くならんから……天然なんやなあ、って思って。おとんとおかんの、どっちがハーフなん?」  この高校は派手すぎる色でなければ染髪が許されているので、染めている生徒も少なくない。伊吹もそういったひとりと思われたのだろう。 「親父。親父は、俺ほど髪が茶色くないな。ちょっと茶色いけど。じいちゃんが、オランダ人なんや」 「へー。クォーターのが、劣性遺伝の特徴が出ることがある、ってほんまなんやなあ」  田上は感心したように、伊吹の髪をしげしげと眺めていた。 「じゃあ、オランダに里帰りとかするん?」 「まさか。行ったこともない。実はな、俺のばあちゃんはじいちゃんに捨てられたんや」  淡々と祖母の境遇を語ると、田上は目を見開いて、弁当を食べる手を止めていた。 「そら、ひどい話やなあ。捜さへんかったんか」 「捜す? 無理や。ばあちゃんは、女手ひとつで親父を育てて、手一杯やったやろうし。大体、名前しかわからん相手、どうやって捜すんや」 「……インターネットなら、見つかるかもしれへん」  田上は、思いついたように呟いた。 「ネットで? どうやって」 「掲示板とか、SNSで。じいさんの名前と、日本に来てた年代を書き込んだら、見つかるかもしれへん。もちろん、見つからへん可能性もあるけどな。やってみようや」  田上に誘われ、伊吹は自分でも知らないうちに頷いていた。    前から、思っていたのだ。  祖母の怒りは、本人にぶつけられることがないままねじくれ、秘められたせいで、あのような消えない火になってしまったのではないかと。  怒りの火は静かに祖母から父に伝わり、伊吹にも伝わった。  だから、祖母はきちんと祖父に怒るべきなのだと――。    放課後、田上の家に行って、ふたりでノートパソコンの画面を覗き込んだ。  田上は、あらゆる手段で捜そうとした。  SNSのアカウントを新規に作り、『祖父を捜している。○○年に仕事で日本に来ていたオランダのロドルフ・デ・フィッセルという名前の人物を知らないか』とツイッターで、インスタグラムで、フェイスブックで、呼びかけた。  人捜しのハッシュタグを付け、ふたりで顔をつきあわせて電子辞書を引きながら、英語で文面を考えた。  オランダの人捜しの英語掲示板を見つけ、そこにも投稿した。  反応があったのは、三日後――。掲示板に、書き込みがあった。 『私の近所に住んでいるおじいさんが、同じ名前で、ずいぶん前に日本で仕事をしていたと聞いた。日本語も上手で、臨時で日本語講師をしていたこともあったらしい』  その情報に、伊吹も田上も色めき立ち、『もっと情報がほしいので、是非メールで情報交換してほしい。フリーメールでも全然構わない』  と、掲示板に書き込み、取得したばかりのフリーメールアドレスを記載した。  スパムメールが来ることもあるだろうと思い、スマホには連携しなかったので、田上のパソコンを起動させないと返事が見られない。  次の日、田上の家に行ってメールを確認したがメールは来ていなかった。  落胆しながらも、翌々日に田上の家でパソコンを起動し、ブラウザでメールを開く。 「届いとう!」  田上が叫び、伊吹はパソコンの画面を凝視した。  ふたりは電子辞書を片手に、メールの文章を読み解く。 『ハイ。私はアンネマリー。掲示板のmarieよ。大学生で、近所のロドルフさんとはよく顔を合わせるわ。そちらの情報もちょうだい』 「伊吹、お前が返信書け」 「わ、わかった」  伊吹は震える手で、簡単な英文をつづった。 『返信ありがとう。アンネマリー。俺は伊吹。ロドルフの孫だ。祖父は貿易会社の仕事をしていたと聞いた。場所は神戸。あと、祖母の――ロドルフが日本で関係を持った女性の名前は、葛原むつみ。よかったら、たしかめてほしい。写真の画像を添付している。面影があるだろうか?』  伊吹はスマホで、家のアルバムからそっと持ち出してきた、祖父と祖母が写った古ぼけた写真を撮影し、それを田上の普段から使っているパソコンメールに転送した。その画像を一旦パソコンに保存してから返信メールに添付し、送付する。  これをやるだけで、一時間も過ぎていた。 「ああ、疲れた……。伊吹、お疲れ」 「おう。ありがとな、田上」 「ええよ。それより、これで見つかるとええなあ」  田上のどこまでも親切な言葉に、涙が出そうだった。    翌日、また田上の家に行った。  アンネマリーからの返信が、もう届いていた。 『当たりだった。写真の画像をロドルフさんに見せたら、びっくりしていたわ。身ごもっているとは、知らなかったらしいわ。日本に戻ってくるつもりが、会社の人事の都合で戻れなくなって、そのまま自然消滅したと思ったみたい』  怒りで、拳が震えた。  祖父にとっては、いっときの恋で、自然消滅したと勝手に思っていたというのか。  祖母は子をはらみ、苦労にまみれてずっと待っていたというのに。 『ロドルフさんは、とても反省しているわ。顔を合わせて謝りたいって。テレビ電話――スカイプ、できる? スカイプのIDはこれ。都合のよい日時を教えて』 「……田上。悪いけど、パソコン貸してくれへんか」 「ええけど……Wi-Fiがあったら、スマホでもスカイプできるはずやで」 「ばあちゃんは、もう目がようないから。大きい画面のが、ええと思って」 「わかった。日時が決まったら、持っていき」  田上は気前よく、パソコンを貸す約束をしてくれた。    土曜日の夜、スカイプをすることに決まった。  伊吹は田上の家にノートパソコンを取りにいき、家に帰ってすぐWi-Fiを設定した。  祖母の部屋に行くと、彼女は億劫そうに起き上がった。 「伊吹……。ほんまに、あのひとに会えるんか」  事前に話していたのに、祖母は懐疑的だった。 「せや」  伊吹はノートパソコンを小さな机に置き、祖母はベッドに座って伊吹が操作するのを見守る。  約束の時刻になって、スカイプをかける。  数秒のラグのあと、映像がつながった。  年老いた老人と、精悍な青年、それと赤毛の女性が写っていた。  老人がロドルフ、女性がアンネマリーとして――。  残るひとりは誰なのだろう、と伊吹がいぶかしんだところで、青年が口を開いた。 『はじめまして。僕はダミアンといいます。ロドルフさんは、日本語をかなり忘れているというので、通訳として招かれました。日本語を専攻していて、日本に留学していたこともあります』  ダミアンの日本語は、少し訛りがあるものの、流ちょうだった。 「そうですか。俺は、葛原伊吹。そして、このひとが、俺の祖母――むつみです」  伊吹が祖母を振り向くと、祖母は目を潤ませていた。 『ムツミ。すまなかった』  ロドルフが、日本語で謝ってきた。 『わたしは、君が……子供を持ったことを知らなかった。本当に、すまなかった』 「…………」  うつむく祖母の肩に、伊吹は手を置く。 「怒ったれ、ばあちゃん」  ハッとしたように、祖母は顔を上げて伊吹を見つめる。 「ずっと、怒っとったんやろ。ちゃんと、怒らな。こうして、じいちゃんがおるんやし」  きちんと怒って、ぶつけないと――いつまでも、あの火は祖母の目の奥に留まったまま。消えることはないだろう。 「せやな……伊吹。……ロドルフ。あんたは、ひどいひとや。あたしは、ずっと待っとったのに。どうして、戻ってきてくれんかったんや」  祖母が早口でまくしたてると、ロドルフは戸惑ったようだった。ダミアンが、素早くオランダ語に訳す。 『すまない』 「ほんまは悪いなんて、思っとらんのやろ」  ロドルフがまた謝ると、祖母は泣いて、しゃくりあげた。 『君の怒りはどうしたら収まる? どうすればいい? ……と、ロドルフさんが聞いています』  ダミアンに問われ、伊吹は祖母の横顔を見た。 「ばあちゃん、どうしたいんや」 「……怒りが収まることは、あらへん。どうしてもらっても、あたしの怒りは収まらへん!」  祖母がわめくと、ダミアンがまた訳した。 『ロドルフさんは、こう言っています。よかったら、オランダに来ないかと。もちろん旅費も滞在費も出すと』 「え? でも、ロドルフさんにも家族おるんやろ」  伊吹の質問に、ダミアンが首を横に振った。 『ロドルフさんの奥さんはずいぶん前に、天国に行きました。子供もいなくて、ひとり暮らしです。だから、喜んでおられますよ。子供だけでなく孫もいたなんて、と。息子さんや伊吹くんも一緒に、どうですかと』 「ばあちゃん、どうする?」 「行く。伊吹、一緒に行ってくれるか?」 「ええよ」  そうして、ふたりはオランダ行きを決意した。    田上にパソコンを返す際に、何があったかを全て説明した。  彼は自分のことのように喜んでくれたが、「お土産、期待しとうよ」と付け加えるのを忘れなかった。    そして夏休み。  オランダに行くことを母には説明して了解を取ったが、父には言わなかった。そもそもあのあと、父は一度も帰ってこなかったのだ。  伊吹は祖母と共に、オランダの首都――アムステルダム行きの飛行機に乗った。伊丹空港から発って、成田で乗り換える。  祖母はずっと体調が思わしくなかったのに、オランダ行きが決まったあと、ぐんぐん元気を取り戻していっているようだった。 (ばあちゃんは、ずっとじいちゃんのことを愛しとったんやな)  だから、あれほど激しく長い怒りになったのだ。  成田を発ち、アムステルダムを目指す飛行機のなかで、伊吹はアイマスクをして眠る祖母の横顔を見る。  飛行機のなかは、乗客が眠りやすいようにか、薄暗くなっている。  伊吹もアイマスクをして、目を閉じる。  アムステルダムは、どんな町なのだろう。初めての外国で、わくわくしているのは事実だ。  しかし、なによりも――祖母と祖父が再会する光景を見られるのが、とても待ち遠しかった。  祖母の時間は戻らない。長年の怒りが氷解するかは、わからない。  だが、きっと何か新しいものが始まり、古いものが終わるのではないだろうか。そう、伊吹は期待していた。 (了)
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