怒らない町

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 もしかしたらブータンかどこかに知らず迷い込んだのか、開発は進んでいないが幸福度は世界屈指の国に、俺はいつのまにか辿り着いてしまったのだろうか。  そんなことを思いながらも旅人は、住民たちのそんな柔和な雰囲気に勇気づけられて、近くを歩いていた一人の農民らしき中年男性に話しかけた。 「あの、日本から旅をしてきているんですけど、今晩、どこか泊まれるところはないでしょうか。」  旅人の話す拙い英語は伝わったようで、男性は笑顔で彼にうなずき、意外なほど流ちょうな英語でこう言った。 「それならうちに泊まればいい、ご飯もうちの家族と食べてくれたらいいよ。」  なんて、なんて俺は幸運なんだ。旅人は心の中で飛びあがった。  そして彼はそのまま住民の男性についていき、一宿一飯の恩義にあずかったのだった。                ーーー 「大きな町へのバスがこの町に来るのは数日後になるから、それまでここでゆっくりしていたらいいよ」  農民の男のそんな優しい言葉に、旅人は甘えることにした。  数日間ここにいたって、休暇の終わりにはまだ間に合う。この町は皆穏やかだし、実に居心地がいい。  それに。  旅人はいつしか農民の家族のなかで、ある一人の姿を無意識に目で追いかけるようになっていた。  それはその家の娘。年齢のほどはよく分からないが、きっと二十歳くらいだろうか。長い黒髪を束ねたポニーテールと黒い大きな瞳、それと白い肌とのコントラストが、はっと見る者の気を惹く。  そして旅人の視線に気づくと、娘はきまって無垢な笑顔を彼に向けた。  すると彼の心にはいつも、なにやらさわさわとした感情が泡立った。                ーーー  そんなある日の夜のことだった。 「この町の住民の皆さんは、どうしてこんなに幸福そうで、穏やかなんです」  旅人は農民にこんな質問をした。  すると農民は、遠い眼をしながらゆっくりと話し始めたのだ。                ーーー 「あれはもう何年も前のことになりますが」 「この町は、今でこそ寂れていますけど、当時はもっと近代的な建物が立ち並んでいて、小さいながらとても栄えた町でした」  旅人はそうかとうなずいた。そういえば、街中には薄汚れてはいたけれど、妙に都会じみた建物がいくつも見えた気がする。 「それはこの町で育ったひとりの天才科学者が発明した、ある革新的な技術のおかげでした。ほら、人間の思考や感情というのは実は脳の電気信号にすぎないという話があるでしょう?」 「その電気信号から生活に使える、電気のようなエネルギーを取り出すということで、まあ素人の私には詳しくは分かりませんが、とにかくそういう技術を開発したんです」  農民の話によれば、そうやって開発された技術を活用するにあたってまず目を付けられたのは、人の「怒り」の感情だったとのこと。  確かに感情やら思索やらなにやら脳内で発生するものの中では、一番エネルギーがありそうな、なにか強い感じはする。  「瞬間湯沸かし器」と言われるおじさん達がいるけれど、本当に、怒るエネルギーで湯が沸かせるようになったというわけか。  そう考えるとちょっとギャグみたいな雰囲気もするけれど、この町の人たちにとっては至極大真面目な話。  なにせ、これは超がつくほどのクリーンエネルギー、人の感情からエネルギーを取り出せるものなら、石油やなんやの化石燃料はおろか、風力や太陽光すらいらない。  いや太陽光は必要か、怒りのエネルギー源である人が元気に暮らせるためには太陽光が必要、あとはバランスのとれたごはんと睡眠、まあそれくらいのものだ。
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