怒らない町

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「我々は幸せそうな顔をして生きているが、別に心から幸せなわけじゃない。ただそうしなきゃ、怒りたいことがあったって必死で隠さなきゃ、お前さんみたいに捕まって売り飛ばされちまう。ただ、それだけなのさ……」  その日の夕食に薬でも盛られていたのだろうか、旅人の視界は徐々に漆黒に染まっていった。                ーーー  9月1日、ある日本の中学校で、一人の教師が夏季休暇から戻らなかった。  どうやら旅行先で、行方不明になったということだった。  同僚の教師も、生徒も、口々に心配しあった。  しかしその目は誰も心配はしていなかった。彼らの、彼女らの心配は確かに口から発せられたけれど、決してそれ以上のものではなかった。  実は誰もが少し安心していた。暗黙の和を乱すやつがいなくなってくれたと。  失踪した教師は、確かに時々怒った。大きな声をだした。  いけないことが起こっていると思った時、彼は生徒にも、あるいは同僚や上司にも、物申した。  しかしそのせいで彼は浮いていた。  何が起きても、誰もが穏やかに口をつぐんだ。それが現在の、新しい世界のルールだった。  こうして世の中は、どんなあいまいな微笑みだろうと、とにかく微笑みで満たされる美しい世界へと、今日もまた進んでゆく。  どんな時であっても怒りの感情を表に出しては生きていけないのは、きっと彼の国の、あの小さな町の話ばかりではない。 (完)
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