本編

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本編

人間はよく魔族に喧嘩を売る。多分、もっと広く住める場所が欲しいのだろう。人間の平均寿命は短いせいか、とにかくぽんぽん数が増えるから。僕からすればちょっと眠たくて寝過ごした程度の時間で受精し、形になって産み落とされる。人間の神秘だ。 けれどそのせいか、人間は数が増えるに従って傲慢になった。魔界史(・・・)からすれば、人間はただの魔力を持たない種族に過ぎない。世界は元々一つであったのに、人間がまるで魔族全体に支配されていた、自分たちは魔族とは別種であると言わんばかりの独立を宣言したのは、僕が生まれるよりも何百年か千年ほど前の話だ。 魔族全体にしてみれば、自分たちの領地という意識もないものの所有権を主張されたところで「どうぞご勝手に?」という話だ。魔族は基本どこでだって環境に順応して生きていけるし、法治だとか封建だとかよくわからない理を作らない。人間と違って縄張り意識がなければ種族にもこだわりがない。知性はあれど思想なんて合ってないようなものだから、単純な力比べ以外で争い事を起こすほうが馬鹿らしいのだ。 力が絶対だし、スライムよりも生命力の劣る人間のように徒党を組んで保護し合わなくても生きていける。 ──というのが今までの認識だった。 現実は、魔族は戦争の度に少なからず傷つき、数を減らしていった。愚かにも僕がそのことに気づいたのは、大切な大切な人が勇者を名乗る人間によって傷つけられ倒れ伏した後のことだ。 「ああ、魔王様……!」 血と泥に塗れた魔王城の床に伏せ、咽び泣く。 既に多くの人間に蹂躙された魔王城は泥塗れの靴で駆けずり回られ、そこかしこに血が飛び臓物が転がっている。 けれど、今の僕にはそんなことどうでもよかった。 「僕のせいだ、僕が弱いから、力がないから」 うずくまる目の前には首のない死体が横たわっていた。2メートル近くある巨大と、それに見合う逞しい四肢。それら全てが冷たくなって、石のように硬い。当然そこにあるはずの首から上は、すっかりなくなってしまっていた。代わりに、夜の王を思わせる紫檀の長髪だったものが身体を囲むように散らばっている。目蓋を開けばそこにあるはずの、思索的で静かな黒い瞳は頭部ごと持ち去られてしまった。 封印するためとか再生をさせないためだと言いながら略奪者たちがそれを持って行ったのだ。 武装した人間一行は唐突に僕たちの城へ侵入すると、話し合う余地もなく不意を突いて魔王様の首を断ち切った。血走った瞳を思い出すと、怒りと恐怖で気がおかしくなりそうだ。野蛮な行い。理性を伴わない獣の行為。僕にはそれを止めることができなかった。 「う、うう……人間どもめ、許せない……ッ」 あの男たちは僕のことを気にも留めなかった。存在の認識くらいはしただろうに、王座に縋り付いて泣くばかりの僕にほんの一瞬憐む瞳を向けて、そのまま去って行った。 できることなら、そのまま一緒に逝かせてくれればよかったのに。僕の首も同じ太刀筋で断ち切ってくれればよかった。けれどそうしてはくれなかったから、僕は誰もいない玉座で泣き腫らしている。 ここには誰もいない。土足で足を踏み入れた勇者たちは口々に「ただの古ぼけた城じゃないか」「守衛があれだけなんて信じられない」「ここが本当に魔王の城なのか?」と言っているのが聞こえたが、当たり前だ。この城はかつて魔王様の忠実な下僕から献上されたものだが、あの人が好んで贅を欲したことなんてない。 本来、魔王様はとても清貧な方なのだ。強く美しい精神とそれに見合う見目をしていて、誰もが魔王様を慕っている。奴らが守衛と呼んだのはきっと、魔王様を慕うあまり自ら尽くしてくれていた魔族たちのことだろう。 まさか魔王様が討たれるなんて思わなかった。 僕だけではない。魔族は皆、魔王様の身の心配なんてしていなかった。誓って言うが魔王様に人望がないからではない。人間が魔王様に勝てるはずがないのは至極当然のことで、心配する必要がなかったからだ。自分が生きている間に『もし地球から酸素が消えてしまったら』なんて怯えて暮らしたりしないのと同じこと。 「……魔王様、どうか心配しないで。僕もすぐにあとを追いますから」 思い出すとまた悲しくなって、乾き始めていた目元を新たに濡らす。 もう、どうでもいい。どうせ弱い僕には仇討ちなんてできないし、だからといって無関係な人間たちへ報復しようという心が芽生えることもない。だって、魔王様はあんな種族にも目をかけていた。人間はか弱くて環境に順応できず簡単に衰弱してしまうから、その分強い者たちが大事にしなければならないのだと。そうして野花の周囲から雑草を取り除くように、時には水滴を降らせ栄養を与えるような甲斐甲斐しさで、魔力を持たないか弱い生き物を守ってあげた。 その結果がこれだ。 魔王様の身体を持ち上げることは叶わなかったから、代わりにざんばらに散った紫檀の髪を一房胸に抱いた。窓辺へ足を進めバルコニーの外へ出ると、血生臭く温い風がさっと頬を撫でる。吐き気を催すほど濃い血の臭いから、城を来る前の人間たちが周辺の魔物にも攻撃を仕掛けていたのだとすぐにわかった。見下ろせば庭のところどころに可愛がっていた魔物たちの死骸が転がっている。あの子たちは犬や猫と変わらない、ただ人間が可愛がる子よりも身体が大きいだけの生き物なのに。 「あれが勇者だなんて、笑わせる」 その言葉を最後に僕はコンクリートから片脚を浮かせた。ふわりとした一瞬のあと急激な浮遊感を味わいながら、重力に従って身体が落ちる。僕の身体は硬く冷たい土に叩きつけられる。 ──はずだった。 「おい! 何をしているッ!」 「……ッ、!?」 ドッと重い横殴りの衝撃に腰のあたりから襲われ、貧弱な身体は簡単に吹っ飛ばされた。 バルコニーのコンクリートに叩きつけられただけでこんなに痛いなんて。今度は投身以外の方法で死のう、なんて思いながら慌てて身を起こすと、腰に小さなもみじの手がまとわりついているのが見えた。 「ライカ、お前はか弱いのだからこの高さから飛び降りれば死んでしまうぞ」 「?、??、……ま、おう、様……」 紫檀の黒髪に思索的で静かな黒い瞳。僕の元から去ってしまった彼は生前と全く相違ない微笑みを見せた。 「の、子供……?」 ただし、見たことのない子供の姿で。 「き、君……だれ? え? どこから入って……」 「私の身体はずっとあった。いつか形だけでも子供ができればお前が喜ぶかもしれないと身体だけ作っていたのだが、まさかこれが役立つとはな」 「子供? え? 魔王様、の?」 「いや、私は……」 ちあう(違う)、と口が動く子供の頬を両手で挟みじっと顔を覗き込む。髪は短くなっているものの、夜の王を思わせる紫檀の黒髪は先ほどまで胸に抱いていたものと全く同じものだ。切れ長の瞳は丸みを帯びて凛々しさより愛嬌を感じさせるものに変化したが、虹彩の中に見て取れる静謐さと思慮深さは変わりない。 まさに生き写し。魔王様そのもの。 その瞬間、希望の途絶えた心が沸き立つのがわかった。絶望しかなかった世界に光が差す。頭の中にファンファーレが鳴り響き、祝福と歓喜で身体が打ち震えた。 「子供だ! 間違いない! 君は僕と魔王様の子供なんだね!」 「…………は? ライカ聞いてくれ、私は」 「ああ……あの人の子供だ……! 僕が大切に育てなきゃ!」 「むぐっ」 興奮した勢いのまま、ぎゅうと強い力で抱き締める。胸の上の温もりが小さな声で「……悪くない」と呟いた。 ■ 魔王様の生き写しの子供は自らをニアと名乗り、僕のことをライカと呼んだ。本当は母と呼んでほしかったが、ニアが冷たい瞳で「誰が母だ」と言うものだから呼ばれたことはない。 「ニア、ニア。朝だよ起きて。ご飯食べよう」 「おはようライカ、通常の魔族は夜行性だから毎朝起こさなくていい」 「うん、でも成長するにはいっぱい食べていっぱい寝ることって人間の飼育本に書かれていたから」 「ライカ、本の知識を鵜呑みにしてはいけないしそれは人間の飼育方法だと自ら言ったな?」 ニアの成長は目まぐるしく、出逢った当初はもみじのような手をした子供であったのに数週間で人間年齢の12歳ほどまで成長した。人間に詳しくない僕がどうして具体的な年齢でわかるかというと、人間の生態がわかる本を入手したからだ。 生き物の飼育本がほしいと連絡を入れたあとすぐに本を届けてくれた仲間は、城に到着してようやく魔王様の身に何か起きたのだと把握したらしい。城の惨劇を前にして人間たちを八つ裂きにするのだと息巻いていたが、ニアを目にすると驚きのあまり怒りが引っ込んだようだった。 「魔王様!? そのお姿は一体……」 「ニアは魔王様じゃないよ。魔王様と僕の子供なんだ」 「こ、子供?」 「そう。魔王様が僕に残してくれた愛の結晶なんだよ」 「正気かライカ、この方はどう見ても」 「そこのお前ちょっとこちらに来い」 ニアは彼を物陰に引っ張り込むと何か話し込んでいたようだが、僕は彼がニアの面倒を見てくれている間に汚された城内の掃除をしていたから詳しくは知らない。しばらくして部屋に戻ると何故か疲れ切った顔をした彼に「お前……頑張れよ……」と力なく言われ、首を傾げたのだった。 それから何度か城内には魔王様の配下であり僕にとっては仲間である魔族が足を運んだが、その多くは僕とニアの顔を交互に見て「え、ええ……」と呻いたあと何も言わなくなる。きっと魔王様が種を残したことに驚いて声も出ないのだろう。 「ライカのやつ、魔族は個体の増え方に血縁とか関係ないって忘れたのか?」 「ほらあいつ淫魔だから……そこらへん普通の魔族とは認識が違うんじゃないのか?」 「魔族の上位種は器の移し替えができるから実質不死身って本当だったんだ」 「魔王様も味を占めてるな、あれは。育てられる気満々だぞ」 ぼそぼそとした仲間たちの会話なんて勿論舞い上がる僕の耳に入るはずがなく。代わりに魔王様が口癖のように言う「だからお前はポンコツなんだ」と言葉が聞こえて、思わず目の前の子を抱き締めてしまった。 「亡き父親の真似をするなんて、なんて労しく健気なんだ……! そうやって母を慰めようとしてくれてるんだね」 「誰が母だ、誰が」 「勿論、僕だよ。……違うの?」 魔王様は僕のことを大変目に掛けてくださったけれど、僕だけが大切ではなかったのかもしれない。彼の傍に侍るのは僕だけで、あの人はそれでいいと言ってくれたけれど……それが嘘でも本当でも、技量の未熟な僕には真実を暴く術はなかった。魔王様の言うことを信じるしかなかったのだ。 だったら最初から疑うことなく信じていたほうがいい。 僕の問い掛けを気まずく思ったのか、もしくは真っ直ぐ見つめ返した僕の赤みがかった金の瞳に怯んだようにも見えた。ニアは少しの間沈黙を作ったあと、一つ咳払いをする。魔王様の癖だ。この子の場合は重厚なゴホン、という音ではなくけふん、と軽い音がしただけだったけれど。 「そうだ、魔族の王ニーアムはただ一人、ヘジライカだけを大事にしている。……仮に子供ができたとして、その親がライカ以外ということは万に一つもあり得ない」 「え、えへへ……そっかぁ」 この子は子供だ。わかっているのに、こうして魔王様そっくりの顔で言われるとあの人に口説かれているのを思い出してどきどきしてしまう。 ぽぽぽと赤くなった頬を誤魔化すために抱き締めて、顔を見ないようにした。ニアはこれがお気に入りらしく、抱き締めて胸に顔を埋めるととても静かになるのだ。 やっぱりまだ子供だから母親の胸が恋しいのだろうか。でも、本には母親の胸から体液を吸って食事をするのは本当に小さな生まれたばかりの子供だけだって書かれていたのに。 魔王様と番って以来雌としての役割しか与えられていない僕だけれど、元々人間の雌を堕落させる悪魔だ。魔王様に身体を作り替えられてすっかりお尻が丸くなったりお腹周りの筋肉が落ちてぺったりとした、雄としては色気のない体型になってしまった。それなのに、人間の雌が好きそうな力強い雄の体型をしていた名残で胸ばかりが大きい。 「胸から魔力供給できるかなぁ。淫魔だからできるだろうけど、僕元々サキュバスじゃなくてインキュバスだし……うーん」 「何を胸を揉みながら唸っている。欲求不満か?」 「む、違うよ。ニアの食事にもっと効率のいい方法ないかと思って」 魔族の成長に必要な栄養は食べ物ではなく魔力だ。命の源そのものである。受け渡しの方法は簡単で、手でも足でもどこでもいいから身体と身体が触れ合っていればいい。 僕たち魔族は勝手に生まれて勝手に成長するし、その過程で弱い個体は死んでいく。ニアのことは絶対に失いたくなかったから人間の育成方法を真似して食事を与えることにしたのだが、これが正解だったようだ。そんなわけで急成長を遂げたニアは最近伸び悩んでいる。今は13歳ほどだろうか。 「ニア、いっぱい食べてお父さんみたいに大きくなるんだよ」 ニアを膝の上に乗せて向かい合い、身体を抱きしめてキスをする。触れ合う部位は粘膜接触だとより効率的で、体液そのものは濃い魔力を含んでいるからだ。今のところニアの食事は僕の唾液で経口摂取ということになる。 ニアの小さな口の中に舌を突っ込むと、くちくちと音を立てて彼がそれを吸う。何度も舌と舌を絡ませては軽く食み、まだ隆起のない喉が上下するのを指で確かめる。何度目かの嚥下を繰り返して唇が離れた。二人の間に銀色の糸がつうっと伸びる。 「ライカ、食事はもういい。吸われ過ぎるとまた倒れるぞ」 「んえ……で、でもまだ、お腹いっぱいじゃないでしょ……?」 僕は魔力の貯蔵量に自信があるが、ニアもなかなかの大飯食らいだった。昨夜は一時的な魔力不足を起こして一日ベッドの上で過ごす羽目になったし、その間ニアがあまりにも死にそうな顔で僕のそばを離れなかった記憶が途切れ途切れにある。とても申し訳ない気分だし、もうあんな顔はさせたくなかった。でも同じくらい、この子にひもじい思いはさせたくない。 「無理はするな。別に人間が摂取するような食事からでも魔力は摂れるのだから」 「だってとても非効率的でしょ。食事に頼っていてはいつ大人になれるかわからないよ」 「元の大きさに戻るには今の魔力供給でも既に足りないが、ふむ……どうするか」 顔を離そうとするニアの頭を抱き込み、胸へと埋めさせる。 「だから考えたんだけど……ちょ、ちょっと胸吸ってみない?」 「……は?」 「もっと効率のいい摂取方法があるはずなんだけど、唾液以外の体液って種類が限られてるし、下から出すものはニアの口に入れたくないし」 しどろもどろに話を続ける僕をニアは呆けた顔で見上げていたが、もう一度「は?」と呟いたあとまなじりを吊り上げて僕の顔を掴んだ。 「痛たただ!!」 「お前いつから雌になった。この身体は孕めるのか?」 「ち、違うし無理だよ……!」 「だったら吸えとはどういうことだ」 「あっん♡」 きゅっと胸の先端を摘まれると思わず甘えた声が出る。ニアは若干の興奮と苛つきが一緒くたになったような顔になって固まってしまった。その表情、ムラッとしたときの魔王様にそっくりだね……。 「ご、ごめん変な声聞かせちゃった」 「この身体では発散することもできないというのに、お前というやつは……ッ」 「んんッ♡」 ぐにぐにと容赦なく胸を掴まれ、痛みから思わず腰が浮く。バチン!と音を立てて臀部が叩かれると背中が仰反り椅子から転がるように落ちてしまった。 「相変わらず快楽に弱い……まさか他の男にもこんな様子じゃなかっただろうな」 「ち、違うもん、僕は魔王様のものだよ」 こんなことになるのはニアが魔王様にそっくりだからだ。 魔王様に開発された身体が性の快楽を思い出し、理性がとろとろに蕩けそうになるのを必死に耐える。淫魔は自分が人間に孕ませた子供も平気で摘まみ食いするけれど、人間は自分の子供に手を出すのは異常者なんだって。人間だけじゃなく、他の魔族たちも子供に手は出さないのだと聞いた。 だからいくら生態的に快楽に流されがちな僕でも、ニアに手を出す訳にはいかない。今の僕を魔王様が知ったらきっと軽蔑されてしまう。たとえもう逢えることがないとしても、あの人に嫌われることを僕は絶対にしたくない。 はーはーと勝手に上がってしまう呼吸を整えて身を起こそうとするが、上手く力が入らない。椅子の座板に手をついてどうにか身体を起こすとニアが冷たい顔で見下ろしていた。 「こんなところでは何もできない。ベッドへ移動するぞ」 膝裏と背中にニアの短い腕が回されて力が込められる。一瞬身体が持ち上がったが、そのまま立ち上がることなく床へ下ろされてしまった。 「ぷ、ふふふっ……」 「ぐっぐぬぬ、わ、笑うな……! なぜお前の身体がこんなに重いんだ……!?」 「ニアにはまだ無理だよー」 魔王様はよく僕のことをこうやって運んでくれたっけ。どうして知っているのかわからないけれど、ニアの行動や言動は魔王様にとてもよく似ている。見目自体生き写しというほどそっくりだが、喋らせれば本人そのものだ。 けれど魔王様本人よりずっと幼い精神年齢らしく、今も持ち上げられなかったのが余程屈辱だったのか地団駄を踏んで悔しがっている。 そんな彼を見ていると、早く魔王様のようになってほしいという自分の願いがどれほど身勝手かと思い知らされるのだ。 「ごめんね、早く大きくなってほしいなんて僕のエゴだ。もっとずっとゆっくり成長すればいい。君が健やかに日々を過ごしてくれれば、それに勝る歓びはないのだから」 そっと頬を撫で額に唇を落とす。あまり子供扱いすると少しは嫌がられるかと思ったが、ニアは何も言わなかった。ただ少しだけうっとりとした瞳をして、僕の胸に顔を擦り寄せる。 きっと幸福に形があるとすればこういうものをそう呼ぶのだろう。魔族にはない、人間がする生き物の営み。魔王様は人間のこういうところを慈しんでいたと、ふと思い出した。 ■ ところで、僕は人間の食事というものをしたことがない。森に成っている果物は花のように鮮やかな見た目や香りを楽しむものだと思っていたし、川の魚も鳥やネズミのようにペットとして可愛がる生き物だと思っていた。どうやら人間はああいうものを切ったり煮たり焼いたりして、味をつけて皿に盛り付けることで『料理』と呼ばれる形に変えるらしい。 僕にも一応美味しいか不味いか、新鮮か古いかを分別する程度の味覚は備わっているが、その程度だ。わかることといえば、美味しいものを食べて育った人間の雌は美味しいってことくらい。 なので僕がニアの食事を用意するというのは、僕が想像する以上に難しいことだった。 「今日のご飯はお肉と葉っぱでーす」 大ぶりな深皿に干し肉と紫色をした葉っぱを煮込んだものを出す。ニアの口の端がひくりと動いたが、それ以降表情を変えることなくスープが唇へと運ばれた。 「ねえニア、今日のご飯は美味しい? 僕、お肉は煮込むより焼いたほうが美味しいと思うんだ」 「大丈夫だライカ、美味しい。干し肉は塩分濃度を上げることで長期保存を可能にする食べ物だからスープのような煮込みに向いているし、燻らせて作るものだからこれを更に焼くと硬くて食べられたものではなくなるからやめるように。絶対に、やめるんだ」 「う、うん」 でも、もう三週間はニアはスープ以外のものを口にしていない。 始めこそ僕はニアに本の挿絵のような料理を振る舞おうと頑張ったが、まず味も材料も知らないものを作るというのはとても難しいことだった。挿絵には白身魚のソテーと書かれているものも、僕はこの白身魚が何のことなのか見当もつかない。平べったく四角い形で川を泳ぐ生き物を知らないから、海の生き物なのだと思ったくらいだ。 ニアはなぜか子供なのに物知りで、魚を切ってこの形にするのだと言った。そんな手間を掛けずに、頭のついたまま焼けばいいのに。そう考えて思った通りに実行したが、お皿に乗せた魚を前にニアはとても難しい顔をして固まってしまった。後から知ったことだが、魚は鱗を取ったり鮮度がとても重要だったり、初心者の僕が手を出すには不向きな食材だったらしい。ちゃんと本の通り内臓を取って血が出なくなるまで洗ったのに、それだけでは不十分だったようだ。 本を届けてくれた仲間に頼んで干し肉を持ってきてもらったから、以降はずっと干し肉と森で取れた植物を煮て出している。 「この木の実って外は赤いのに中は白いんだね。僕知らなかった」 「林檎は成熟すると葉緑素が分解されるからな。この林檎が赤いのはアントシアンという色素が出て沈殿するからそう見えるのだ」 「?、?? ……りんご、甘くて美味しいね!」 「お前にこの話はまだ難しかったか」 ニアは難しいことをよく知っている。けれど、頭ばかりの子に育たないか少し心配だ。食後のデザートとして林檎をシャクシャク咀嚼しながらニアの成長ぶりを観察してみるが、全く、一ミリも変動が感じられない。 「ねえニア、最近夜更かしばかりしていない? ちゃんと寝なくちゃ立派に成長できないよ」 「すまない許せ、一度読んだだけで知識が頭に入るのが楽しくてな。一晩くらい寝なくともどこも痛まないし、若い身体がこうもよいものだとは思わなかった」 「え、まさか昨日寝てないのか!?」 僕が驚きの声を上げるとしまった、という顔をしたニアが目を逸らす。 「ニ、ア?」 「まあ待て、今日はまだ読みたい本が溜まっているんだ」 「そんなこと言ってこの間も寝なかったでしょ! 駄目です! もう決めた、今日は僕が寝かしつけるから!」 思えばニアはしっかりした子だからと自主性に任せて先に寝てしまってのがいけなかった気がする。見た目年齢は13歳くらいでも、生き物歴は2ヶ月かそこらだ。常識とは何か教えるのは親の役目だって、本にもそう書いてあった。 「そうと決まれば早速寝る準備しないと」 「は? おい待てまだ陽が落ちたばかりだぞ?」 「陽が暮れたら真っ暗になるまですぐだよ。ほらお風呂入るよー」 じたばたと暴れるニアを抱えてお風呂場に向かう。 やっぱり、彼はまだ僕に抱え切れるくらいのほんの小さな子供だ。魔王様はよく僕のことを「人間の子供のようだ」と笑っていたけれど、人間の子供は僕よりずっと小さな身体をしているというのをニアに出逢って知った。僕は顔立ちこそ人間の子供と相違ないが、身体つきは大人のものだから。というか、それって淫魔の特徴だし。 脱衣室で服のボタンに手を掛けると「自分で脱げる」と手を振り払われてしまったから、代わりに自分の服を脱ぐ。勿論ニアが外に出られないように扉の前に立ったままだ。 「? おい、まさか一緒に入るのか?」 「そうだよ? 今日はベッドに入るまでニアのこと離さないから」 手早く全てを脱ぎ去ってしまった僕と違い、ニアはまだボタンに手をかけたまま「いやそれは……」「できるのか? この身体で」「むしろチャンスか」とボソボソ呟いている。 「何してるの? ほら脱いで」 「うわっ」 ズボンを脱がせる際には少し抵抗されたが、最終的に何か納得したようだった。「これはこれで」と呟いたあと、ニアは随分と甘えた態度で僕の胸に頭を預けてくる。 「ライカ、思えば私は誰かに甘えるような経験がないからお前とどう接すればよいのかわからない部分もあった。今日はお前が時折口にする母のように(・・・・・)、甘えさせてもらってもよいだろうか」 正直、ニアの素直な甘え方は僕の心に突き刺さった。これが母性というものなのかもしれない。思わずお互い裸なのも構うことなく胸へと抱き込み「存分に甘えなさい!」と叫ぶと、ニアは身を固くしたあと「……容易すぎる」と小さな声で呟いたのだった。
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