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今年の春、社会人になったおれは、このマンションに越してきた。築2年のこのマンションは汚れがなくて綺麗で、風呂とシャワーは分かれていて、トイレもウォシュレット付きと設備もよかった。
長年、築ウン10年の実家に住んでいたので、この新しい部屋は新鮮で、ここに一人暮らしすることに胸が躍っていた。
仕事は大変だった。同期がどんどん仕事を覚えていくのに対して、おれはまったく成長せず、上司にいつも同期と比べられて叱られていた。この新しく綺麗な、ひとりの空間だけがおれの疲れを癒してくれた。
だが——。
入居したときは特に気にならなかったが、隣からたまにコンコンと音がしていた。たまに、夜中にごにょごにょとなにやら話す声も。
ここのマンションは見かけはいいものの壁が薄くて、ちょっと手や足が壁に当たっただけでも隣に響いてしまう。マンション全体が眠りにつく夜中では、話し声すら響く。
だから、隣の住民には悪意はないのだろう。普通に生活しているだけなんだ。そう思って、気にしないことにしていた。仕事が始まるまでは。出勤するたびに上司から怒られる日々になってしまうまでは。
周りと比べられるたび、同期が成果を上げるたび、ストレスは溜まっていった。いつからか隣の生活音も耳障りになり、ある日おれは——、
そう、壁を殴った。八つ当たりのつもりだった。壁をサンドバッグかなにかだと思って、力いっぱい殴りつけた。
するとサンドバッグはシンとなり、部屋は音のない世界を取り戻した。
手はとても痛かったが、それ以上に、胸がすっとした。日々感じていた劣等感やイライラといったものが、壁を殴って隣を静かにさせることで、一瞬だけ静まった。
それから、隣がなにかしら音を立てるたびに、おれは壁をドンドンと殴った。
女が静かに抵抗しても——管理会社や警察に訴えても。
管理会社からのヒアリングの電話には出なかった。夜中に壁を殴ったことでやってきた警察もフル無視した。その晩はなにもしなかったが、次の日また隣が少しでも物音を立てると、その3倍ぐらいの衝撃を返した。
「全部、仕事が悪いんだ。あのくそ上司、おれのミスじゃないのもおれのせいにしたりするんだよ、理由を聞いたらこんなミスするのはおまえぐらいしかいないからって」
どんだけ言っても信じてくれなかった。おれが悪いの一点張りだった。
「おれには友達もいないし、家族だって向こうの都合があるだろ、そうそう電話できねえよ。ストレスは溜まってく一方だったんだ」
「心中はお察しします。あなたの勤めてらっしゃる職場では、私は働きたくはありません」
話を遮らずに聞いていた男は、顔色を変えずにコメントする。
「しかし、だからといって同じことをしてどうするのですか。一番仕事ができなくて立場の弱いあなたを上司が怒るのと同じように、あなたは気の弱い女性の生活を脅かした」
それは間違いなくあなたのずるさが原因ですよ。
男は怒鳴るでもなく、やはり柔らかい口調でそう言った。
「なんでおまえみたいな、うさんくさい男に説教されなきゃいけねえんだよ」
「説教ではありません。私の感想を述べたまでです」
どれだけ凄んでも、男の態度は変わらない。まるで、柔らかい砂を殴り続けているようだ。どれだけ拳を打ち付けても、まったく手応えがない。
おれはカーペットに座る。仕事場にいるときよりも疲れているのを感じた。でも、疲労感の質が違った。
仕事から帰ったら、おれの胸は、窮屈な感じがしていた。逃げ場のない重いガスが充満して、押し潰してきているような感覚があった。
なにをしてても頭を巡るのは、仕事での自分のミス。上司の怒鳴り声。周りの憐れむような視線。
仕事に行きたくない。また怒られる。比べられる。
おれよりも弱そうなやつを見つけて、そいつを脅して自分の方が強いと思うことで、心にのしかかっていたそういう気持ちを追い出そうとしていた。
だが今は。
なぜだろうか、壁を殴って女をびびらせていたときよりもずっと、胸がすっとしていた。胸の中にあった悪いエネルギーみたいなのが、だいぶ男に吸収されていったような、そんな感じがした。
人に話すって、こんなに心を軽くするのか。
「ああ、まったく最低だよな」
おれは初めて、今までの行いを反省できた。毒ガスが出て行ったおれの心には、自分の非を認めるスペースができていた。
「おれ、どうしたらいいかな。明日ここの人にいきなり謝りにきたって、ビビらせるだけだろうし」
「あなたなら、どうされたいですか」
「おれなら……」
女の立場に立って、考えてみる。
もう同じことを繰り返さないでほしい。
当たり前のことだけど、実際そうだと思う。
謝罪の言葉よりも、次からどうするか。その行動のほうがずっと大切で、この行動があればぶっちゃけ、謝罪なんていらない。あくまで「ごめんなさい、もうしません」は礼儀として言わなきゃいけないだけで。
今まで表情がなかった男が、微かに笑った気がした。
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