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「答えは出たみたいですね」
おれは頷いた。
「なんか、自分の立場になって考えるってこと、してなかったな」
「いいことも悪いことも、まずは自分がされたらどう思うか、って考えてみるのがよろしいかと」
「でも、自分基準ってあてになるのかな」
「されて嫌なこと嬉しいことって、おおかた同じでしょう」男はテーブルを挟んで向かいに座った。「しかし、自分がその行為を受けることにならないと、わからない方も多い」
「まあきっと、余裕がないんだよ。情けない話だよな」おれが苦笑いして言うと、男は、白々しいという目を向けた。おまえが言うな、と顔に書いてある。
「やめろやめろ、刺さる」
「ところで、嬉しいこと、についてはなにもおっしゃいませんでしたね」
あ、たしかに。
男は、やっぱり、というふうに頷く。
「よっぽど追い詰められているようですね」
気分が晴れていないときって、プラスのこととマイナスなことが同時に並べられていると、マイナスにばっかり目がいく。
にしても、なにを改めて言い出すんだろう。
「相手のことを顧みられる余裕ができるように、プラスのことにも目が向けられるように、あなたに提案があります」
男はそう言うと、姿勢を正した。
「ウチで働きませんか? 決して悪いようにはいたしません」
え?
予想外の言葉に、おれは固まる。男は片手を頬に当て、わかりやすくため息をつく。
「大変なのですよ。なにもかもひとりでやるのは」立ち上がり、デスクの上のチラシを持ってきた。「このチラシをデザインするのも私。家のポストに入れるのも私。依頼を受けるのも私。宿の手配も私。当然、やり返しの代行を行うのも私です」
「はあ」
「幸い手持ちがかなり潤沢ですので、事務所もありますが」へえ。だからこのマンションの住民用の宿を押さえられたんだ(にしてもめちゃくちゃ金持ちだな)。「そろそろ労働力も欲しいと思っていたところでして」
なにも答えないおれに、男はにっこり笑って加えた。
「人間関係は良好ですよ。私しかいませんゆえ」
「分かった」
あとから考えると、「悪いようにはしない」の具体的な説明もなかったし、特に説得力のあることはなにも言われていなかった。でも納得したように頷いたのは、一刻も早くあの職場——主にあの上司——から離れたかったからだろう。「よろしくお願いします」
明日さっそく会社に電話かけて、辞めるって言ってやる。さらばだ、くそ上司。
「ありがとうございます」男は頭を下げたあと、右手を差し出した。「よろしくお願いします」
おれも手を差し出して、握手する。案外温かい手だった。
「早速ですが、お手伝い願えませんか?」給料は出します。「ご依頼者様からは、部屋の使用許可をいただいておりますが、使用後の清掃を約束してありますゆえ」
そう言って、新しい上司は立ち上がると、クローゼットにしまわれていた掃除機(これら掃除道具は男のもの。で、クローゼットにしまう許可は取ってあるらしい)を取り出した。つられて立ち上がるおれに、廊下と玄関の掃除を指示。そして掃除機がけを始めた。
おれもたった今入社した職場での初仕事を始めるべく、クローゼットからモップを出して、廊下に出た。
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