転職前夜

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転職前夜  気分が良いなあ。三年半働いた会社だったがお別れだ。 「辞めさせてもらいます。もう来月から出社しません」  課長に、この一言をぶつける絶妙のタイミングだった。三日に一度は、理不尽なキレ方をするヤツで、今日も顧客のクレームを新人の女の子に押し付けた挙句、発注キャンセルとなったことで、怒鳴り散らしていたところだった。  新人のマキちゃんは、課長の前に長いこと立たされていて、後ろ姿の肩がカタカタ震えていた。上にはヘイコラ、下にはキビシク、上手くいけば自分の手柄、失敗したら部下のせい。    この瞬間だ。 「辞めさせてもらいます。もう来月から出社しません」  これまで、何回もシュミレーションし、空想した言葉を、ついに俺は放った。ここ半年、ひそかに転職活動していた最終選考結果が昨日の夜届いていた。若い社長が起業して立ち上げた新しい会社では、プロジェクトリーダーとなる。昔ながらのの年功序列、若いスタッフの頑張りで多くの窓際族を養っている今の会社とは大違いだ。 席からすっくと立ち、課長の前にスタスタと歩み寄り、声高らかに。まるで、荘厳なマーチが俺のバックコーラスに鳴り響いているかのような力強さ。カッコいい俺。 「な、なにを急に。今、キミ急に辞められたら困るだろ」  課長が動揺している。ざまあみろだ。人間、とことん動揺した時は、ホント、目を白黒させたり、口をパクパクするもんだなあ。 「来月までに仕事の引継ぎはキッチリやっていきますんで」  かたずをのんで見ていたオフィス中の社員をゆっくり見回した。 「イロハ商事の担当はヤマダ君に、A B C流通の担当はマキちゃん、チャレンジしてみるか」 「何を勝手なことを!」 「顧客の状況をもっとも把握して信頼されてるのは俺ですからね。明日以降、それぞれの会社に同伴して引継ぎますよ」  課長の口が何か言いたさそうにプルプル震えたが、言葉は出てこない。ざまあみろ。  転職までの一か月は天国だった。課長は不機嫌そうな顔をしているが何も言わず、そっぽを向いている。一方、これまであまり話したこともなかった他の部署の社員が話しかけてくることもあった。今や俺はブラック課長をとっちめた英雄みたいなもんだ。 最終日、会社から少し離れた居酒屋で、仕事を引き継いだヤマダ君とマキちゃんが送別会を開いてくれた。 「カンパーイ、おめでとうございます!」 「カンパーイ、イロイロ教えていただいてありがとうございましたあ!」 いいねえ。今や俺の崇拝者と化したヤマダ君とマキちゃんがどんどん酒を注いでくれる。どんどん持ち上げてくれる。 「先輩のおかげで、引継ぎも上手くいって助かりました。イロハ商事、来月以降の発注を増やしてくれるそうです。」 「それは、ヤマダ君の頑張りあってのモノだよ。」 俺は寛容に答える。 プルプルプル、、、ズボンのポケットのスマホが震えた。画面に、転職先の社長の名前が表示された。 「お、明日からのボスだ。ちょっと失礼。」 立ち上がって外に出ようとする俺にヤマダ君とマキちゃんが言った。 「新時代の騎手と雑誌にも載ってた社長さんですよね!」 「すごーい。トップからの直電!」 店の外で電話に出た。早口の社長の声が聞こえた。 「あのさ、ネットニュース見た?」 「いや、何の?」 「ウチさ、潰れるから」 「え、何を言っているんですか?」 「だからさ、ウチ、今期の資金調達できなくて。とりあえず一回潰すわって話」  社長の早口の言葉が耳の中をグルグル渦巻く。 「ど、どういうことですか。」  言葉が上ずる。 「どういうもこういうも、そういうコトだ。まあ、この業界ではよくあることなんで。ほんじゃあ」 電話が切られてプープーという音を聞き続けた。俺は目を白黒させ、口をパクパクさせているのだろうか。 立ちすくむ俺の背中に柔らかい何かがまとわりついた。白くて細い二本の手が後ろから俺を絡めるように抱きしめた。背中の真ん中あたりに感じる生温かい唇から出た言葉が耳に伝わる。 「ヤマダさんは先に帰っちゃいましたよ。ねえ、先輩、もっと一緒にいたいなあ」 マキちゃん、、、、どうする、俺。    
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