30:ひとりぼっち

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30:ひとりぼっち

 俺は自然と笑っていたようだ。猫には表情はあまりない。  対して人間はいろんな顔の動きを持っている。人間はその時の気持ちによって表情がころころ変わるのだ。  俺も猫だったのに、人間みたいに顔が動く。  俺はそれが面白くて体だけでなく顔も動かした。  そんな事をして、俺がしばらく遊んでいたが俺はすぐに次の目的に想いを馳せた。  今、俺は人間だ。  それはきっと、かみさまがまた俺を人間にしてくれたのだ。昨日、俺が言った事を、かみさまはやっぱりちゃんと聞いてくれていた。 「俺、今ならしろともしゃべれる」  口にした瞬間、それはとても体中の毛がブワブワなる事だと気付いた。  しろとしゃべれるだけではない。アカだって、もう俺を無視しないだろう。もしかしたら、りょうりだってできるかもしれない。 「うわぁ」  俺は両手をぐーのままぶんぶん手を振ると「よし」と水面に映る俺を見てもう一度口を開いた。 「俺はキジトラ。人間の、キジトラ」  その瞬間、俺の中の猫の俺が人間の俺になった。キジトラという名の人間の俺。見て、聞いて、実感した、俺の新しい姿。名前のお陰で俺の形がスッと俺の中に流れ込んでくるようだった。  きちんと縁取りされて、もうブレない。 「どうぞ、よろしくお願いします」  水面に映る俺に向かって、俺は人間のように頭を下げた。  俺は変な猫から、変な人間になりました。  形さえ定まれば動く事なんて、立つ事なんて簡単だ。  俺がどれほどの長い間、人間の中で、人間を観察しながら生きて来たと思ってる。  俺はゆっくり二本脚で立ちあがるとゆっくりとバランスを取った。    視界が高い。それが面白い。そして、ゆっくり足を前に出す。  みぎ、ひだり、みぎ、ひだり、みぎ、ひだり。  みぎひだりみぎひだりみぎひだりみぎひだり。  俺は小走りになりながら、ぴょんと飛び上がった。  きっともし俺が今猫なら尻尾はピーンと立っているに違いない。  そして俺の顔は笑っている。  にこにこだ。  俺は渡瀬神社の四角い箱の前に立つと、いつもと違って細かく動く指で石を拾い上げ箱の中に投げ入れた。そして、猫の時には出来なかった紐を揺らすのもしてみる。  がらん、がらん、なんていう鈍い音が頭の上から鳴り響く。  両手を離して、思い切り叩きつける。  パチン、パチン、なんて音が俺の手から鳴り響く。  そして、人間みたいに目を瞑ってブツブツ言う。 「おはよう、かみさま。俺の名前はキジトラです。猫じゃなくて、人間のキジトラです。俺の事、人間にしてくれて、ありがとう」  かみさまからは何も食べ物をもらったわけではないけれど、俺の口からは自然と“ありがとう”が漏れた。上手く、できただろうか。人間がやるみたいに。  うん。きっと、上手くできた。  頭の中の俺の動きと、いつも見てた人間の動きが一緒だったから、多分大丈夫。俺は瞑っていた目をパチリと開くと、クルリと渡瀬神社に背を向けた。  太陽はまだ上の方まで来ていないけれど、しろに会いに行こう。今の俺は人間だからしろとお話できる。  キジトラだって言ったらしろは驚くだろうか。  そう、俺が自然と笑顔になりながら手をグーにしていると、またしても俺の耳が何かの音を拾った。  ざっ、ざっ、ざっ。  それは昨日と同じ、人間が走る音。渡瀬神社の階段を上る音。きっとアカだ。昨日と全く同じ音だから。俺はさっそく胸をワクワクさせながらこちらに来るであろう人間の姿を思い浮かべた。 「っは、っは、っは」  階段を駆け上がって来た人間、それはやっぱりアカだった。  俺は嬉しくて、早く人間になれた事を伝えたくて、アカの顔を見た瞬間声をかけようと口を開いた。  けど。 「っ!」  アカは俺の姿をチラリと見ると、たとえようもないくらい眉間に皺を寄せて怖い顔をした。昨日の顔も怖かったけれど、それとまはた違った怖さ。  これは、なんといえばいいのだろうか、そう、これは。 「…………」  知らない者を見る、不審な目。  警戒の目。  俺のよく知る目だ。俺が他の猫に見られる、馴染みのある目。  俺はワクワクしていた心が、急にきゅううと締めつけられるような気持ちになると、何も声を出せず、ただ空気だけが口から吐き出された。  アカはそんな俺を不審気に俺を見ていたが、すぐに何かを思い出したように俺から目を逸らし、俺の脇を通り過ぎて行った。 「兄貴!居ますか!兄貴!」  あにき。  その声は俺ではなく、もう誰も居ない筈の渡瀬神社の軒下を覗き込んでいる。  そこには誰も居ないよ。だって兄貴は俺だもの。  猫でなくて、人間になったんだよ。アカ。  そう言いたいのに、言葉が出ない。  俺は必死に俺を呼ぶアカの姿を後ろからジッと見ていた。しかし、アカが立ちあがって、また俺の方を振り返ろうとした。 「いやだ」  俺は、思わずそう呟くとアカが振り返る前に渡瀬神社の階段を逃げるように下りた。後ろから「テメェ待ちやがれ!」と叫ぶアカの声が響き渡る。  でも、俺は待たなかった。  初めての人間の体だったけれど、本能とは凄いもので、俺は初めてにして二本脚で全力で走ったのだ。  動かない筈の胸のトクントクンが俺の左胸のところで激しく鳴り響く。  久しぶりに聞いたそれは、懐かしいと言うより怖かった。  俺は変な猫になった。  変な猫になってから、他の猫達から恐がられるようになった。どの猫も近寄ってこなくなった。  さっきアカがしたような目で俺を見るようになった。  今、俺は変な人間だ。  猫が人間になったなんて知られたら、また俺は猫の時みたいになる。  また、みんなから嫌われて、一人になる。  変な人間なんて知られたら駄目だ。  だめだ、だめだ、だめだ、だめだ。 「俺はふつうの人間、普通の人間。みんなと同じ」  普通の人間にならないと また俺は一人ぼっちになる!
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