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31:がいこくじん
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
そうやって、どれくらい走っただろうか。
俺は初めての二本足での走りに、頭がクラクラするようだった。
ゼェゼェと息が上がる。こんな感覚は久しぶりだ。
たくさん足を動かしたような気がするのに、周りの景色は猫の足で軽く走った時よりも遅い。人間の足が遅い事は知っていたが、まさかここまでとは。
俺は背後からアカの声や気配を感じなくなったのを確認すると、ピタリとその足を止めた。
しかし、いつもは走った後にピタリと体を止めても綺麗にバランスを取れるのに、今日はそのまま勢いよく前へつんのめってしまった。
あぁ、いつもは尻尾で体の動きや勢いを調整していたんだ。
けれど今は尻尾はない。それに、二本足だから体の上の方の重さが、そのまま前の方へ流れてしまったんだ。
俺は固い地面で膝や手を強打しながら、頭の片隅でそんな事を考えていた。
猫のつもりで体を動かすと、多分大きな失敗をする。
怪我をしてしまうだろう。というか、今既にとても体中が痛い。
俺はズキリズキリと痛みを催す膝小僧をうつ伏せになったまま見つめると「はぁ」と自然と口から溜息が洩れるのを感じた。
猫の時は溜息をつくだけで人間に近付けたような気がしてワクワクしていたが、いざ人間になって溜息をついてみると、それはどうしようもなく俺の気分をしょんぼりとさせた。
まさか、アカからあんな目で俺を見てくるなんて。
まだ再会して時間は経っていないが、あんなに俺を慕ってくれていたアカからあんな目を向けられるなんて、思い出すだけで胸がずきずきする。
アカのあの顔は俺の心を溜息でいっぱいにするのだ。
「……アカ、俺の事へんなやつだって思ったかな」
俺はポツリと呟いた。
俺は人間になりたいと思っていた。そして、今、俺は本当に人間になれた。
だから、俺は浮かれていたのだ。人間になればアカやしろとおしゃべりできると本気で思っていたから。
けれど、それはとても浅はかな考えだったと、今になってようやく気付いた。
普通に考えればわかる事だったのだ。人間の姿の俺が「猫のキジトラだよ」なんて言って誰が信じるだろうか。
きっと、みんな変な奴だと思うに違いない。それに、もし信じたとして皆が俺を気味悪がらない筈がない。みんな、さっきのアカみたいな顔をして俺を見るに決まっている。
猫の時だってそうだったじゃないか。
死なない変な猫になって、みんな俺に近寄らなくなって、嫌われるようになった。
けど、俺は人間の中で人間に交わりながら生きていたから、同族に嫌われても気にしないようにしていた。
俺は人間の中で生きるんだ、そう思ってなんとかやりすごしていた。本当は、ちょっと、いや、けっこう胸がずきずきしたのだけれど。
けれど、今はどうだろう。
今度は俺は“変な人間”になってしまった。
それがアカやしろにバレたら、今度こそ俺は人間からも嫌われるに違いない。
そしたら、今度は俺は誰にごはんを貰えばいい。誰にすりすりしたらいい。
また一人ぼっち、それは絶対にいやだ。
「……いたい」
俺は少しだけ血の滲む手のひらを見ながら、ゆっくりと体を起こそうとしたその時。
俺の頭上に影ができた。
「外国の人だー!外国の人が道路で寝てるー!」
「っは?」
突然、俺に向かって人間の子供特有の、高くて、うるさくて、キンキンした声が響いて来た。
がいこくのひとはなんだろう?
俺が目をパチパチさせながら顔を上げると、そこにはやはり人間の子供がいた。子供と言ってもアカやシロが大きめの子供なら、これは小さい方の子供だ。
アカやシロは子供は子供でも大人になりかけの子供。
目の前のこれは、まだまだしばらく子供の子供。
そして、多分オスの子供。
子供は背中に黒い四角の入れモノをしょって、倒れる俺の前に座り込んで来た。頭には黄色いかぶりものをしている。
「がいこくのひとって?」
「うわっ、日本語喋った!外国の人じゃなかった!」
子供はそう言って、何がおかしいのかケラケラ笑うと倒れる俺に向かって手を伸ばしてきた。差し出された手に、俺は一体どうしたらよいのかわからず、しばらくその手を見つめていた。
そんな俺に子供は、更に俺に一歩近づいてきて「ほら、だいじょうぶか?」と笑う。
俺はとっさに伸ばされた手に自分の手をのばすと、俺よりも大分小さなその手が俺の手を引っ張った。
俺はその力に吸い寄せられるように、ズキズキ痛む足で前に踏み出した。
「ありがとう」
「どーいたしましてー!」
何も貰ったわけじゃないのに俺の口から自然と漏れた“ありがとう”。
けれど、どうやら使い方は間違っていないらしい。
ありがとうは何か貰った時や、してもらった時に自然と出る言葉。
そして、“どういたしまして”はありがとうを言って貰った時に返す言葉。
俺の中でありがとうに関する意味が増えて行く。
「お前、髪の毛が変な色だし、目も変な色だから、がいこくのひとかと思ったぜー」
「俺、へん?がいこくのひとって何?」
俺はオスの子供の言う“変”という言葉に慌てて自分の髪の毛に触れると、子供は笑いながら「変へんへーん!」と笑う。
どうしよう、俺はもう気の色も目の色も“変”なのだろうか。
そうだとしたら、どうにかしないと。
そう、俺が一人でオロオロしていると子供はにこにこ笑いながら「外国の人っていうのはー」と話し始めた。
「日本人じゃない人のことだよ!」
日本人?
そういえば、昨日アカも似たような事を言っていた。
日本語とか英語とか。一体それは何なのだろう。
俺は「がいこくのひと」なのだろうか。それは変なのだろうか。
「日本人って?」
「お前大人の癖にそんなことも知らないのかよー!それに大人のくせに仕事もしないでこんなとこに居るなんて、お前ニートだな!」
「にーと?にーとって?」
子供の口から次々飛び出す知らない言葉の数々に、俺は混乱し始めていた。
俺はがいこくのひとで、にーとなのか。それとも、にーとでがいがいこくのひとなのか。
わけがわからなくなってきた。
知らぬ間に太陽は少しずつ上の方へ上って行く。俺の混乱もどんどん上の方に上って行く。
「わかった!おれがニートのにーちゃんの為に、学校サボっていろいろ教えてやるよ!こっちきな!」
「っう、うん!」
子供はまたしても俺の手を掴むと、すぐ近くにある公園に俺を引っ張った。
ここは人間の子供が遊ぶところだ。俺は今からこの子供と遊ぶのだろうか。
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