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給湯室攻防戦
いち はじめ
A夫は猜疑心の強い男で、何かに連れ、人が自分のことを噂しているのではないかと気にしていた。そして一度疑いだすと簡単にはあきらめない粘着質の気質も持ち合わせていた。そういう性格だから、社内の者は、なるべく彼とは、仕事以外で関わり合いを持たないようにしていた。
その日コーヒーを飲もうと、彼が給湯室に入ったところ、三人の女性社員が、噂話に花を咲かせていたところであった。三人は、入ってきた人物がA夫であることを認めるや否や、ピタリと話を止めてしまった。まあ勤務時間中に給湯室で無駄話をしているのだから、誰が入ってきても同じ態度をとったであろうが、A夫に対してこれはまずい対応であった。
A夫は、明らかな作り笑いで彼女たちに話し掛けた。
「随分楽しそうだね、何を話していたの?」
彼女たちは、「別に」と言ってその場から逃れようとしたが、一旦猜疑心に火が付いたA夫がすんなりそれを認めるはずもなく、追撃を始めた。
「ねえ、何を話していたのか教えてよ。どうせ誰かの噂話なんでしょう」
A夫は、給湯室の入り口を塞ぐような形で立っている。肝っ玉は小さいが図体は無駄にでかいのだ。
「い、いいえ、違いますよ。A夫さんに話す価値もない程のたわいもない話で……」
三人の中で、一番若いB美がすかさず打ち消しにかかったが、その慌てぶりは逆効果であった。
「それはおかしいな。もしそうなら、僕がここに入ってきた時に、慌てて話を止める訳ないじゃない。もしかして僕の事話してた?」
キツネ目と揶揄される彼の目が一層細くなった。
「いえいえ本当です。A夫さんのことなんか誰が話すもんですか、ねえ、先輩」
いつも言葉に思慮が足らず、周囲と不要な軋轢を起こすC江が、お局様と言われるD子に話を振った。振られたD子は、またこの子は不用意な発言をして、と思ったが後の祭り。
「だからホントですって。私たちも暇じゃないんで、そこ通してくれませんか」
暇じゃないとはどの口が言う、と言いたいところだが、お局様は、もはやこの局面は強行突破しかないと悟ったのだ。だがしかし、若手社員ならその圧力に簡単に屈服したであろうが、A夫は来年には二十五年勤続の表彰を受ける身である、その程度の圧力はものともしない。
「僕は心が広いだよ、怒らないから教えてよ」
「だからホントですって」
「その慌て様は、おかしいでしょ。怒らないからさあ」
「違いますって」
「なんだよ、ホントと言ったり、違うと言ったり矛盾だらけじゃないか」
「ええ~、無茶苦茶です。文脈理解してます?」
この後、数回同じような攻防戦が給湯室の入り口で繰り広げられた。
そして、ついに堪忍袋の緒がブチ切れたA夫は、こう怒鳴った。
「怒らないから教えろと言ってんだろうが」
(了)
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