ガチギレリハーサル

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「怒る練習をさせてもらっていいかな」  社会の谷先生が照れくさそうに言った。授業の号令が済んだ直後のことで、江本俊哉(えもとしゅんや)はストラップを眺めていた。 「え、どういうこと、どういうこと」  クラスでも立場が強い女子たちが可笑しそうにした。陽気な男子たちも「え、なになに」と騒ぎ始める。そして特別に陽気でも陰気でもない俊哉も、ストラップから谷先生の方に目を移していた。 「ごめんねいきなり。でもこのクラスにしか頼めないことなんだ」 「何かあったんですか先生」クラスの誰かがそう発した。  谷先生は「うん、実は……」と伏し目がちになる。 「隣の4組がうるさすぎて授業どころじゃないんだ。でも他の先生に聞いてみれば、どうやら僕の授業の時だけみたいで……。僕が怒れない人間とわかって、好き勝手やられてるんだよ。だからさすがにガツンと言わなくちゃと思って」  クラスのみんなが「あー」と頷いた。俊哉もそういうことかと納得していた。  たしかに谷先生は普段から穏やかで怒っている姿は見たこともないし、また想像もつかなかった。本人も怒れないと自覚しているくらいである。それで俊哉のクラス相手に練習をしたいと言ったのだろう。 「このクラスは真面目だから他より授業が進んでいて余裕があるんだ。君たちの勉強の時間を奪うことにはなるんだけど、僕の練習に付き合ってくれないかな」  谷先生は教卓に手をついて頭を下げた。 「全然いいですよ。ね、みんなもいいよね?」 「うん。なんかおもしろそうだし」 「協力するよ先生!」  谷先生が頭を上げる。「みんな……」そう言った彼の目が眼鏡越しに潤んでいた。 「ありがとう。でも練習といってもリハーサルかな。既に僕の頭の中ではだいたいのシナリオはできているから、みんな何となく最後までついてきてくれれば」  シナリオという単語が一瞬引っ掛かったが、そういえば演劇部の顧問だったことを俊哉は思い出した。谷先生自身も学生時代は演劇部だったはずである。 「じゃあ早速リハ始めたいんだけど、みんな喋っててくれるかな。それに僕が怒るっていうシーンから始まるから」  完全に演劇モードだなと思いながら、俊哉は隣の友人に話しかけた。  徐々に教室が騒がしなってくる。谷先生は社会の教科書を朗読していた。そういう設定なのだろう。  そして喧噪がさらに激しくなってきた時、俊哉の心臓が大きく跳ね上がった。あまりの音に、最初谷先生が黒板を叩いた音だとはすぐに気づかなかった。
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