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1 傲慢と煩悶
「ちょっとおこです」
華は耳を疑った。営業課長の言葉に、である。
完全に華のミスだった。この会社に中途採用されて半年、感染症の拡大によって売り上げが落ちていることもあり、華の「貿易系でバリバリ経理をやっていた期待の新人」の肩書きを存分に発揮できていなかった。そのことが業務に対する慢心と油断を生んだ。大きな金額ではなかったとはいえ、新規客に渡さなくてはいけない伝票の処理の締切日を、勘違いしていたのである。先方から営業担当に連絡があり、課長自らが金曜の夕方に経理課に乗り込んできた。
華は社会人になってから、自分が任された仕事で、こんなミスを犯したのは初めてだった。営業課長の桂山がやってきたとき、給与の締めの作業が始まっていたので、経理課の全員が揃っていた。期待の新人は、皆の前で醜態を晒すことになった。
「松山さんが締切落としたって?」
「わ、彼女どうしちゃったの?」
背後からそんな言葉が聞こえて来て、華のプライドは相当傷ついた。何でこんな時に直接来るんだ、電話じゃだめなのか。逆恨みが桂山に向かった。しかし伝票の処理が先である。華は桂山が週明けで良いと言ったにもかかわらず、久しぶりに残業して、まだ営業課のフロアに残っていた桂山に、月曜の朝一番に処理できるようにした旨を、直接報告しにいった。
いつもにこやかな桂山なので、よくやってくれたと感心してくれると思っていたのに、難しい顔を緩めてくれなかった。それでつい、怒ってます? と訊いたのである。
「あ、おこですか……」
桂山の返事に一瞬笑いそうになった華だったが、そう答えて堪えた。桂山はこの会社のトップセールスで、同性愛者である。そのせいか非常に人当たりがいい。そして変に生真面目なのが、若干女子社員の弄りの対象になっている。そんな彼が、最近あまり使われなくなった、頭の悪い女子高生のような言葉を口にしたので、正直なところ笑えた。
「間違いにおこなんじゃないですよ、誰だって勘違いはしますから」
「はい」
「松山さん、ちょっとこの仕事軽く見ていたでしょう?」
桂山ははっきりと言った。事実だったので、羞恥のあまり華は黙って俯いた。
「そこに怒ってます、先方はいいよっておっしゃってるから始末書どうこうはいいと思いますけど」
「……申し訳ありませんでした」
華は久しぶりに他人に対して心から詫びた。頭を上げて、自分よりだいぶ背の高い桂山の顔を見ると、マスクの上の目が笑っていた。あ、もうおこじゃないらしいと華はホッとした。
桂山はもうそれ以上、華を責めるような態度を取らなかった。
「早急に処理してくれてありがとう、あなたは頭のいい人だから、何が良くなかったのかもう十分理解していると思います」
そう言われて、華の胸の内に、早春の日差しのようなものが広がった。
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