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「ちょっ……待ってっ!」
彼女の手の力が一層強くなる。わたしはそれを振り払って、大きく後ずさった。
心臓が、大きな音を立てて跳ねる。「待って。……待ってよ」わたしは繰り返しそう言いながら、唾を飲み込んだ。
「本当に、誤解なんだよ」
「何が誤解なの?」
「わたしは……わたしにも、良く分からないんだよ。本当なんだよ。わたし、あの日教室に忘れ物をして、それで……本当にそれだけなのに、突然あんな事になって……」
「何それ。突然あんな事? そんな説明で納得出来ると思う?」
「でも、本当なんだよ。彼に訊いてよ。わたしだって、本当に、良く分からなくて……」
「嘘つかないでよっ!!!」
わたしは、肩を震わせた。辺りの空気が弾けるように広がって、重くわたしに伸しかかってくる。
いったいどうして、なんでこんな事になってしまったのか。
わたしは泣きそうになったけれど、それでも唇をぎゅっと噛んで、こみ上げてくるものを抑えた。
「嘘! 嘘!! 嘘!!! 突然あんな事になった? はあ!? そんな嘘が通ると思ってんの!? ふたりっきりなのを良い事に、あんたが彼に言い寄ったんでしょ!? わたしと彼が付き合ってる事だって知ってたハズなのに!! それなのに!!!」
「そんな事してないよっ! あれは、彼の方から突然っ……!」
「へえ!? はあ!? じゃあ何? なんの前触れもなく、彼がいきなりあんたに詰め寄ったって事? わたしの目の前で? 見せつけるように? ……何それ? ねえ、なんなのそれっ!? 全っっ然わけ分かんないよっっっ!!! 全部!!!! 全部全部説明してよっっっっっ!!!!!」
彼女の目は充血している。怒りで震えるその身体は、まるで何かに取り憑かれているかのように――ぶるぶると、小刻みに蠢いていた。
――でも、これは嘘じゃない。本当に、嘘じゃない。わたしはその言葉を繰り返す事しか出来なかった。
だって、そうだろう。それが彼女の興奮をおさめる事につながるとはとても思えなかったけれど、でも、それが事実なのだから。それが真実なのだから。
同時に、わたしは彼の事が、憎くてたまらなくなった。
彼がなぜ彼女の前であんな事をしたのか。どうして彼女に、こんな酷い事をしたのか。
どうしてわたしを巻き込んだのか。どうしてわたしがこんな目に遭わなければならないのか。
その小さな怒りは、わたしの中でふつふつとわき上がり、やがて身体中を這い始める。
彼女は相変わらず、ずっとわたしに罵倒を浴びせ続けている。
わたしの言葉なんて、全然聞こうともしてくれない。
もうやめてよ。
もう、嫌だよ。
お願いだから、もう、やめ――
「……て――?」
――それは。
本当に、突然の事だった。
ぷしゅっという、聞いた事もないようなオト。
その音と同時に、彼女は怒鳴るのをぴたりと止めた。
今度は、ぶしゅっ、という、さらに大きな音が鳴る。その瞬間、わたしの顔に、身体に、周囲に、大量の液体が飛び散った。
――雨?
ではないみたい。
だってこれは、紅いし、あたたかい。
手が震える。その指先で、自分の頬を触る。ぬるりとした真っ赤なそれは、まるで纏わり付くように、わたしの全身を覆っていた。
何、これ。
なんなの、これ。
目を動かして、彼女を見る。彼女は――彼女もまた、わたしと同じように、現状何が起こっているのか分からないというふうに、顔をきょろきょろと動かしていた。
――でも。それは長くは続かなかった。
わたしと彼女は、ゆっくりと顔を動かして、彼女のお腹に視線を移す。
それを見た瞬間、彼女は断末魔のような叫び声を上げて、やがてぴくりとも動かなくなった。
彼女のお腹から何本も突き出した、鋭い爪のようなモノ。
それがわたしの目の前でごりごりと動き、彼女の身体を鮮血で染め上げている。
1本。また1本。
1匹。また1匹。
彼女の腹を突き破って出てくるそれらは、大きさ約10センチ程度の、蜘蛛のような、あるいは蟹のような、ナニか。
数匹、十数匹のそれらを見ながら――わたしはぺたんとその場に座り込んだ。
胃の中のモノが逆流し、こみ上げ、その場で吐き出してしまう。
きい、ききい、という鳴き声。
それらは彼女の亡骸を廻りを歩き回り、そして彼女を貪り喰べ始める。
わたしの身体は、石のように動かない。まるで、思考という名の糸が切れてしまったかのように。
そこから逃げる事も、叫ぶ事も出来ず、ただ震える喉で呼吸を続け、その光景を見守る事しか出来なかった。
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