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・はじまり。
その日の放課後、教室で彼に突然キスをされた時、わたしの頭の中は霞んだように白くなった。
本当に真っ白だった。本来なら、驚きだとか、恥ずかしさだとか、怖さだとか――そういった何かしらの感情を巡らせるべき状況だったとは思う。でも、その時はそういった事を考える隙さえなかった。
わたしは部活が終わって、帰ろうとして、でも教室に忘れ物をした事に気づいて、急いでそれを取りに戻った。
そこでたまたま居合わせた彼は、何をするでもなく、ひとりでぼんやり窓の外を眺めていた。
――本当に、ただ、それだけ。
なんの事はない、普通の放課後だったのだから。
「何やってるの? 青春中?」
その横顔に声をかける。すると彼はこちらを向いて、ああ、という顔をした。
別に彼とわたしは特別親しい間柄というわけでもなかったけれど、こうして小さな会話をしたり、あいさつをしたりする程度の仲ではあった。
窓の隙間から秋の冷たい風が流れ込んできて、それが彼のシャツをふわ、と膨らませる。近づくと、夕陽に伸びた彼の影が、わたしの足先に触れた。
「おつかれさま。今、部活終わり?」
「うん。ちょっとノートを机の中に忘れちゃって、取りに来たところ。……で、そっちは? 何してるの?」
「俺もさっき部活終わって、今は彼女を待ってるところ」
「……わー。じゃあわたし、とてもお邪魔でしたねー」
棒読みで言って、それからふたりで笑い合った。
高校に入学してから、早半年。ダレダレとダレダレが付き合っているらしい、みたいな噂はいくつか聞いた事があるけれど、ここまでオープンに『付き合ってる宣言』をしているのは、今のところ彼以外にはいない。
文武両道のさわやか系イケメン(陽キャ)、というのがわたしの彼に対するイメージだけれど、こういう事を恥ずかしげもなく飄々と言ってしまえる性格は、彼の良いところでもあり、また面倒くさいところでもある。
ちなみに彼のお相手は、ふたつ隣のクラスのすごく美人な娘。
彼女と話をした事はまったくないけれど、クラス委員をやっているらしいし、きっと彼と同じく優秀なコなのだろう。
さて、とわたしは机を覗き込んで、中から課題で使うノートを取り出した。それを急いでカバンにしまって、「じゃあ、また明日」と彼に手を振る。
彼の彼女が来てしまったらなかなかに気まずいし、さっさと退散しよう、と身を翻した。
その時だった。
目の端で、彼の影が動いた。彼女が来たのだろうか、と振り向くと、彼はなぜかわたしにゆっくりと近づいて、やがて目の前で止まった。
え、と思った。
すっとその手がわたしの頬に触れる。いったい何が起こっているのか――意味が分からず彼の表情を窺う。
彼は、笑っていた。
でもそれはきっと、うれしいとか楽しいとか、そういう笑顔ではなかった。
たとえば、何か悪い事を思いついた時のような――そんな、いたずらっぽさを含ませた笑みだった。
「――え――」
彼の鼻先が、わたしの鼻先に当たる。まるで時間が止まってしまったかのような、そんな錯覚を受けた。
目を見開く。先程まで確かに窓際にいた彼が、今、ここにいる。
呼吸が止まり、わたしはただ、瞬きを繰り返す事しか出来なかった。
ゆっくりと彼が離れる。それが何秒間の事だったのか、あるいは何十秒間の事だったのか、わたしには分からない。
彼を見る。すると彼は、「ごめん。なんでもないよ」と目を細めた。
「……っ……」
よろけて、机にぶつかる。そのまま、何かの糸が切れたようにわたしは走り出した。
慌てて教室を出る。そこで誰かとぶつかるが、わたしはその人の顔も見ずに廊下を走り抜けた。
今のは? 誰だった?
彼女? まさか見られた? 分からない。
分からない。
――なんでもない?
何が。
何が?
いったい何が、なんでもないと言うのか。
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