三回忌

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「深織(みおり)ちゃんも、こっちきて一緒に飲もうよ」  この赤い顔をした年配の男性は、親戚のうちの誰だったか。思い出す努力もせず深織は愛想笑いと無言の会釈を残して、男の酔っ払い共の巣窟と化した広間を後にした。  廊下に出た深織は、家屋の中で広間とは反対側に位置する台所に向かって進んだ。カチンカチンと音を鳴らしながら、盆に載せたビールの空き瓶と汚れた皿を運んでいると、物置部屋の板戸が目に入った。  繰り返された建て増しのせいで、不自然に複数箇所折れ曲がった北の廊下。その途中にある寒く暗く、湿った狭い物置。深織は自立する前、実家であるこの建物で暮らしていた時には、なるべくその場所に視線を向けないよう気を付けて生活していた。  しかし今日は、久し振りの帰省とあって油断した。うっかりその存在を意識の内側に置いてしまい、胸をぞわぞわさせられることになった。ただでさえ、今日は祖父の三回忌。家と結びついた嫌な記憶が甦りやすいというのに。  世間で聞く「おじいちゃん」とは、大抵孫に甘い生き物らしいが、深織の家では違った。深織の祖父は、孫の躾に厳しい人だった。特に、姉妹の中でもおおらかな性格だった深織はあまり行儀に頓着する方でもなく、頻繁に祖父の逆鱗に触れてしまっていた。  祖父は幼い深織が意地を張り謝罪も反省もしない時には、最後の手段として 末の孫娘を北の物置部屋に閉じ込めた。戸の隙間からほんの少しの明かりがちらつくだけの、闇の空間。湿った古い埃の臭い。ネズミかムカデかゴキブリか、自分以外の何かの気配。飲み食いもできず一人べそべそと数時間泣いた後、深夜に祖母が戸を開けてくれた時には、彼女がこの世の何より尊く慈悲深い存在に見えたものだった。  しかし、その祖母の降臨という奇跡体験をもってしても、深織が暗闇で感じた絶望と恐怖が完全に拭い去られるということはなかった。深織は大人になった今でも、狭い場所や暗闇が苦手だ。  そうやって引き摺っている割には、自分が何故そのような目に遭わされたのかの記憶は、妙に薄い。多分、自分が悪い子供だったのだろう。祖父はあくまで正しく深織を反省させる為に、ただその為だけに物置に孫娘を閉じ込めたのだ。  そうは思ってはみても、どうしても感謝の気持ちは湧いてこず、それどころか亡くなって二年経っても祖父へは恨みばかりがつのってくる。  「おじいちゃん、まだ小さい子供にあそこまでしなくてもよかったんじゃない?」。本来は故人があの世で安らかでいられるよう願うべき仏壇の前でも、深織の頭にはそんな祖父への問いかけがよぎってしまう。  深織がもやもやとした気持ちを抱えつつ戻って来た台所とそこに続く畳敷きの部屋には、広間と違い喪服の女性たちばかりが居た。皆、小さな塊になって楽し気にそれぞれの話に花を咲かせていたが、シャツの白がない分、深織の視界はより暗くなった。 「むこう、どうだった?」  深織は使用済みの皿を盆からシンクに移しつつ、既に遥か遠い場所の様に感じられる広間の様子を、エプロンで手を拭う母に伝えた。 「そろそろ締めっぽかった。もうビールもつまみもいらないんじゃない?それより、芳夫(よしお)おじさん座布団枕にうたた寝しちゃってたけど、毛布持って行ってあげた方がいいかな?」 「それなら私が持っていくわ。あなたは何か食べておいたら?」  母が慌ただしく台所を後にするのを横目に、深織は盆を食卓の端に置き、椅子に腰を下した。今は普段、父と母の二人しか使わないだろうに、それにしては大き過ぎる食卓。しかし、こうして親戚中の人間が集まる時などには、その真価を十二分に発揮する。  寿司桶の中に残った寿司を眺めていると、向かいの席に座る大叔母が深織に話し掛けてきた。 「深織ちゃん、お茶入れようか?それともビールがいい?」 「あ、お茶で」  ペットボトルの緑茶か出がらしを出されるのかと思いきや、大叔母は新しく茶葉を急須に入れ、そこに電気ポットの湯を注いだ。 「ねぇ、これ見てよ」  大叔母の隣に座っていた次姉が、ノートパソコンの画面を妹に向けてきた。彼女は小一時間前から、パソコン内に放置された画像データの整理を任されていた。 「このおじいちゃんの顔、私たちが子供の頃とは全然違うよね」  画面に大映しになっていたのは最晩年の祖父の姿で、曾孫を膝に乗せ穏やかに笑っていた。 「ほら、こっちがあんたが小学校に入学した時、みんなで家の前で撮ったの。すっごい顰め面じゃない?そんなにカメラに撮られたくないのかっていうね」  切り替えられた後の画面には、家の玄関前に並ぶ三世代一家七人の姿があった。父と母と姉妹三人、そして祖父と祖母。祖母は祖父とは対照的に、顔にやさしい微笑みを湛えていた。 「ほんと、おじいちゃん変わったよね。おばあちゃんが亡くなってからだっけ?元気がなくなって、大人しくなっちゃったのかな?」 「兄さんは元々は、穏やかでのんびりした人だったわよ」  祖父の妹である大叔母が深織に湯呑を渡しつつ、会話に加わった。 「むしろ、兄さんが変わったのは義姉さんと結婚した後」 「それならおじいちゃん、私たちが子供の頃まで無理してたのかもね。子供や孫をきちんと躾けたかったから、厳しくしてたのかも」 「兄さん、そんな立派な人ではないわよ」  深織の横で、うつらつらしている姪を膝に乗せていた長姉の優等生的な推測は、大叔母に即座に否定された。 「もちろん、悪い人ではなかったけどね。でもそうねぇ、とても単純な人よ」 「ただいまー」  盆と正月しか聞かない長兄の声を聞いた千賀子(ちかこ)は、駆け足で玄関に向かった。  大好きな十五歳年上の兄との、久々の再会。その嬉しさもあったがそれよりも、「紹介したい人がいる」と帰省前に知らせられていて、その件に対しての好奇心が八歳の千賀子を走らせた。玄関に一番乗りした千賀子に、「廊下を走っちゃ駄目だろう」と珍しく兄は妹に注意してきた。 「静代(しずよ)さん、一番下の妹の千賀子」  兄の横に立つ女性は、前に兄が好きだと言っていた細面で目鼻の彫りの深い女優とは似ても似つかない、丸顔のしかし優しい笑顔の女性だった。 「はじめまして。静代です。どうぞよろしく、千賀子さん」  初対面の女性にさん付けで呼ばれ、くすぐったい気持ちになった千賀子はもじもじと俯いた。 「ほら千賀子、ちゃんと挨拶」 「…千賀子です。はじめまして」  遅れて父と母がやってくると、千賀子はすかさず彼らの後ろに隠れた。  大人同士の挨拶が終わった後、姉妹の部屋に姉が静代を連れて来た。姉が兄の婚約者に聞きたいことなんて、端から決まっていた。 「兄さんとの馴れ初めは?やっぱり、兄さんから静代さんを好きになったんですか?」  中学生の姉は、恋愛関係の話に興味津々。妹の千賀子も姉の影響でませたところがあったので、静代の答えにはしっかり耳を澄ませた。 「そうね。そういうことにはなるかしら」 「えぇーっ、職場内恋愛ですよね?やっぱり、毎日顔合わせててだんだん好きになったって流れで?」 「ううん。働いてる部署は全然違うの。だから、社員食堂で同じテーブルに着いたのも、本当に偶然で。允雄(まさお)さん、混んでて他に席がないからって偶々空いてた私の前の席に座っただけなのよ」 「えっ?じゃあ、その一度の出会いで一目惚れだったんですか?」 「そうだったみたい」  静代はパーマのかかった肩までの髪を耳にかけた。 「兄さん、そんな情熱的なところあったんだ」 「私も交際を申し込まれて、正直最初は驚いたわ。きっと最悪な印象しか持たれてないと思ってたから」 「へ…」  二人の横でこっそり手土産の菓子を取ろうとしていた千賀子の手が、一旦止まった。 「あの日は允雄さん、忙しかったのか資料を読みながら食事をしていたの。行儀が悪いなって思いながら見ていたのだけど、他人だし黙ってたわ。でも、彼がお箸でお皿を手前に寄せた途端、黙っていられなくなって。つい、社内食堂でお説教始めちゃったのよね」 「へ…え…」  姉の顔からときめきの色が消え、その変わりに、彼女の頭の上に疑問符がぷわぷわと揺れた。千賀子もまた、兄が静代のどこを気に入ったのか、その場ではわからず仕舞いだった。 「ちかちゃん、ちょっといい?」  便所から自分の部屋へと戻る途中の廊下で、千賀子は客用の寝室にいる母に呼び止められた。 「お布団敷くの手伝ってくれる?」  日当たりは良いが、布団を敷くとそれだけで一杯になってしまう狭い部屋の中、千賀子は母と二人で敷布団にシーツを掛けた。その後、枕を持ってくるの忘れていた母は掛け布団をカバーに入れるという大役を千賀子に任せ、部屋を出て行った。  一人残された千賀子は、客の布団に座るのも悪くて、床の間に腰掛け、カバーの中に隠れた布団の角を探る作業に集中していた。 「何やってるの?」  静代の声が聞こえて、これは褒めてもらえる場面ではないかと千賀子は思った。客である自分の布団を小学生の女子が整えているのだ、少なくともお礼は確実に言ってくるだろう。  千賀子は口元を緩め、襖の開いた方を見た。そこにあったのは、般若の……いや、丸顔であるから、阿修羅の顔だった。 「床の間は、座っていい場所じゃないでしょう?どうしてあなた、そこいるのっ!」  声の大きさは自体は、それ程でもなかったのかもしれない。しかし静代の声は畳を伝って足の裏とおしりの下から響き渡り、千賀子の身体を芯から震わせた。  ここからすぐに、どかなければ。千賀子はそう思いすぐに立ち上がろうとしたが、膝がガクガク震えちっとも力が入らなかった。 「…何かあった?」  廊下から顔を覗かせた兄を、静代が振り返った。静代の視線が逸れてからようやく、空気が千賀子の肺に流れ込んだ。すこしの間、息をすることも忘れていた。 「静代さん…」  千賀子と同じく阿修羅の顔を見てしまったのだろう、兄の声は震えていた。 「允雄さん。あなたの妹さんが、床の間に座り込んでいたものだから」 「え…ああ、ごめん。……ちか!」  兄は静代の横を小さく体をかがめて通り過ぎ、千賀子の前まで来た。 「ほら、そんなとこにいつまでも居ないで!」  兄はなんとか立たせてやったものの、それでも上手く歩けないでいる妹を支え部屋から出ようとした。再び静代の横を通り過ぎたところで、兄は耳元で小声でぼそりと呟かれた。 「妹さんの躾が、なってないんじゃないかしら」  呟きを耳にした兄妹は、揃ってびくりと体を揺らした。  静代が寝室の襖を閉めた後、兄妹が並んで廊下をいくらか進んだところで、兄は妹と目を合わせることなく、口を尖らせて言った。 「だめだよ。静代さんを怒らせていいのは俺だけなんだから」 「その次の年には二人は結婚して、若夫婦は実家に住むことになったんだけど、それからしばらくは凄かったわよ。私や姉はもちろん、父や母まで度々普段は仏の顔の義姉さんに鬼の形相で怒られて。まぁ、うちは元々あんまり行儀とか気にしない家だったから、それも悪かったんだろうけど」 「嘘……おばあちゃんが怒ったところなんて、私一度も見たことなかったよ?」 「私たちも最初のうちだけよ。すぐに兄さんが義姉さんが怒る前に私たちを注意するようになってね。それからは兄さん、人が変わったようにいつもピリピリしてたわ」  昔話を一通り話し終えたらしい大叔母は、両手で湯呑を持ち中の緑茶を静かに啜った。 「じゃあ、うちらもおじいちゃんに怒られてた時って、おばあちゃんがキレる寸前だったのかな?」  言って、次姉は姉と妹の反応を窺った。それを受けて、深織は祖父が怒っていた時の祖母の態度を思い出そうとした。しかし祖父の険しい表情ばかりが大映しに浮かんでしまい、それは叶わなかった。 「私はなんか、ちょっと納得」  反応の悪い姉妹からの返答を待たずに、次姉は祖父の姿が映ったディスプレイを見ながら言った。 「えーっ?!」 「だってさ、外に出かけた時とかはおじいちゃん、結構やさしかったし自由にさせてくれてたもん。今思えば外だからじゃなくて、おばあちゃんの目がなかったからだったのかも。お菓子とか玩具とか買ってくれた時も、おばあちゃんには絶対知られないようにって、それだけはしつこく言われたし」 「私にはそんなことなかったよ」 「お姉ちゃんが子供の時には、まだおじいちゃん働いてて孫の面倒なんて見てなかったじゃん。ねぇ深織、おじいちゃん、外だと全然違ったよね」 「…え」  祖父と出かけた記憶は深織にもあった。しかし、そんなに態度が違っただろうか。 「憶えてない」  子供の頃の深織はいつでもどこでも、祖父の姿を見る度いつ怒られるのだろうかと緊張していた。よって、祖父の態度の変化を観察する余裕などなかった。 「あんたって、薄情だね。あんた、おじいちゃんのお気に入りで、一番こっそり色々買ってもらってたじゃん」 「ふふ。深織ちゃんは義姉さん似だから」  深織は自分の頬を触った。中学の修学旅行の時に「なんかお前に似てね?」 と、同級生の男子が阿弥陀如来像を指差しながら揶揄ってきた、自分ではあまり気に入っていない、その顔に。 「要するに、おじいちゃんはお嫁さんと自分の家族が上手くいくよう、汚れ役を買って出てたってことですか?」  さっきから深織と同様あまり納得できていない表情の長姉が、すっかり眠りに落ちてしまった姪を抱え直しながら大叔母に聞いた。 「私の母はそんなこと言ってたけど、私はちょっと違うと思ってたのよね。十五歳も年上の兄をこう言うのもなんだけど、たいして裏も表もない単純な人だったから」 「じゃあ、千賀子さんは、お祖父ちゃんはどうして私たちに厳しかったと思ってるの?」  深織の大叔母への質問の口調には小さな棘がいくらか混じったが、相手に気にした様子はなかった。 「独り占めしたかったんじゃないかしら。義姉さんを、というか、義姉さんの怒った顔を」 「それって……」  姉妹三人は顔を見合わせた。 「普通、独り占めしたいっていったら、『笑顔』とかじゃない?」  次姉はなんとか、祖父の名誉の為に直接的な表現を避けた。 「そうね。だけど、義姉さんは大抵誰にでも笑顔だったから。それに、義姉さんの怒った顔はあらゆる意味で凄絶なところがあったし、だから兄さんも惹かれて……あら、これじゃ兄さんがまるでどうかしてる人だったってことになっちゃうわね」  大叔母は姉妹が避けた地雷きれいに踏み潰し、カラカラと笑った。 「だから、気にしなくていいのよ。兄さんも多分、自分の都合であなたたちに厳しくしたんだろうし。自分が薄情だなんて思うことないわ」  なんだ、それを言いたかったのか。ようやく深織が気が付いたところで、大叔母は寿司桶に取り残されていたかっぱ巻きに、箸をつけた。
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