同居

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 私たちにとって大きな感情は大好物だ。喜びは一つ一つが大きくなることは少ないが、相互作用でより大きくより大きくとなっていくことが多い。怒りならそれは噴火のように爆発的でとてもいいものだ。難点はすぐに小さくなってしまうことか。けれど最初から小さいことは少ない。悲しみも喜びと似たようなものだろう。相互作用で大きくなっていく。楽しみは、これはどれと似ていると言いにくいものだ。相互作用で大きくなることもある。しかし最初から大きいこともある。持続性は人によるけれど大きな瞬間というものはあるので爆発的と考えることもできるだろう。では怒りと似ているのだろうか。  では恐れはどうだろう。恐れは私たちによって引き起こされ、私たちの動き次第で大きく育てることができる。ただ結局はその形の恐れを持つものは限られてしまうのだが。確かに私たちの好物を安定供給するためにはそれを育てることがいいのではないだろうかと思われている。だからこそ同じ場所で生活する私たちの仲間が多いのだ。  だから私たちもここにいる。この部屋そのものには縁もゆかりもないがここの人はちゃんとこわがってくれる。いくらやってもその恐れが小さくなることはない。きっとこの人が引っ越すならばそのままついていくのであろう。そのくらい私たちはこの人を気に入っている。  けれど今日帰ってきてからのこの人はなんだかいつもと違う感情が見える気がする。多分それが恐れを小さくしている原因だ。なくなっていないあたりがこの人らしいしなくなったら困るのだけれどもね。 「おい、お前ら! これ以上この部屋にいるなら家賃払え! 払えないなら出ていけ!」  震えながらの声。近所迷惑を気にしつつもできるだけ大きい声なのだろうなと思わせる声。怒っているのかなあ、恐れの感情が大きいから怒りもあるような気がするけれどあまり感じられない。怒りってもっと大きくて強い感情だったと思うのだけれど。困ったなあと考える。私たちにできることは部屋で怪奇現象を起こして借り手がつかない状態にすることで家賃を下げることくらい。けれどそれはこの人が借りる前の状態でないと意味がない。そもそもこの人がそういう部屋を借りるわけがないのでその手は使えない。  今私たちはこの人についていくことはない。それはこの人がここを自分の家と考えているからで、その内外に出て我慢の限界がきてそのまま帰ってこなかったら私たちにできることは人海戦術のようなものだけ。だから引っ越しという普通の手段をとる程度の余裕はあってほしい。けれどこのままだとどうなるか。  ああそうだ、羅生門だ。懐かしいね。私たちの一部はそのころからいるから。私たちの得意分野でもあるしね。
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