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家に帰ると、母はちょうど仕事に行くところだった。
「あぁ、おかえり咲。ごめんね、お母さんもう出ないと」
ばたばたと、地味なスーツから派手なワンピースに着替えている。
母は昼間は事務員、夜はキャバクラで働いている。生活のためなのはわかるけれど、今日みたいに田中にバカにされた日なんかは、それがちょっと嫌になる。
はあ、とため息をついた。
「お母さん、なんか学校で使うらしいから母子手帳出しといてくれない?」
私は机の上に置かれたバナナをもそもそと食べながら言う。お金がないからごめんね、と昔からおやつはバナナだった。
「母子手帳?たしかサイドボードの引き出しの中にあるはずだから、探してちょうだい」
慌ただしく口紅を引き、私の返事も聞かずに母は家を飛び出していった。
バナナの皮をシンクの三角コーナーに投げ捨てる。手を洗って、サイドボードの引き出しをゆっくりと開けた。
冊子を作ることは正直面倒だったが、これを口実に母子手帳を見ることができるし、父親の話が聞ける。それだけは少し興味があった。
母子手帳は一番上にしまわれていた。少し色褪せたそれを手に取り、表紙を捲る。
母親の欄には『三山早苗』と母の名前が書いてある。そして父親の欄には『立花要一』、見知らぬ男の名前が書いてあった。
「誰だよ、立花要一って」
宮島に連れて行ってくれた父、あの人が立花要一ということだろうか。
他に何か書いていないか、とページをさらに捲る。
成長の記録、というページにたどり着いた。
『咲4ヶ月、生まれて初めて要一さんと会う。いつもはニコニコ笑うのに、緊張しているのかあまり笑わない。要一さんは可愛い可愛いと咲を褒め称える……』
『咲2歳、要一さんのことを「ぱぱ」と呼ぶ。要一さんはすごく嬉しそう。私のことは「かーちゃ」なのになぜ要一さんはパパなんだろう……』
『咲の3歳の誕生日、要一さんが3ヶ月ぶりに会いに来てくれる。人見知りが激しいのに、要一さんには人見知りしない。昔から会ってるからかな?ケーキを買ってもらって嬉しそう。人気のアニメの魔法少女?のステッキをプレゼントでもらって、ずっと使っている。すぐに電池が無くなっちゃいそう……』
『咲4歳、宮島へ行く。この歳なら少しは思い出に残るだろうからって要一さんが連れて行ってくれた。ポシェットを買ってもらってすごく嬉しそう。私をそっちのけで要一さんと手を繋いで歩いている……』
どうやら宮島に連れて行ってくれた『お父さん』は立花要一で間違い無いらしい。それ以降私に会いに来た記憶はないけど、と思ってページを捲る。だが、記録はそこで途絶えていて知りようがなかった。
ぱらぱらぱら、とページを捲っていると、はらりと足元に何かが落ちる。
拾い上げると、それは例の宮島に行った時の写真だった。私と母と立花要一が鳥居を背景に映っている。よく母が物憂げに見つめている写真だ。
写真を母子手帳に挟み、もう一度ため息をついた。母が帰ってきてから聞くしかなさそうだ。
母が帰ってくるのは真夜中。今のうちに寝ておこう、と布団にもぐりこんだ。
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