終末の二人

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 その場所を目的地に選んだのは、僕にとって馴染みがあるからであって、人生を劇的に好転させる出来事に出会う期待が動機だったわけではない。  しかし、その期待がまったくないと言ってしまえば、真っ赤な嘘になる。  見覚えがあるような、ないような景色が、時速七十キロほどで窓外を流れていく。  現在とは打って変わって、大昔は家族との仲は良好だった。週末になるたびに、自家用車に乗って家族四人で、県内を中心に様々な場所へ遊びに出かけた。そのさいに見た景色を、約十年の歳月を経て、僕はこの目に映しているのかもしれない。  たかが一か月のブランクとはいえ、僕をいじめていた人間が待つ教室にいきなり出向くのは、怪我が完治したばかりのスポーツ選手が試合にフル出場するようなもの。無謀以外のなにものでもない。ましてや僕は、ただ学校に行っていなかっただけではなく、自室からろくすっぽ出ていなかったのだから。  まずは体と心を慣らす必要がある。では、ウォーミングアップとして、あるいは予行演習として、相応しい場所はどこだろう?  検討の結果、僕は父方の祖父母の家まで行くことにした。僕が今朝まで見ていた、安藤千帆をヒロインとする、長く鮮明でリアルな夢、その舞台となった場所へと。  一か月ぶりに姿を現した僕を見て、朝食をとっていた三人は一様に呆気にとられていた。歪にかじられたバタートーストや、白い湯気が立ち昇るコーヒーカップを虚空に停止させ、見開いた瞳で僕を凝視した。彼らの黒目に宿っている感情は、深い戸惑い。恐怖の色は孕んでいなかったけど、なにかの拍子にその感情が萌芽し、急成長しそうな、そんな気配は感じられた。 「母さん。父さん。なんなら真由瑠でもいいよ。悪いんだけど、往復のバス代、僕に貸してくれない? 行きたい場所があるんだ」  発した声はひどく掠れていて、誰の耳にも聞きとりにくいものとなった。人とまともにしゃべるのは一か月ぶり。緊張は当然あったし、声帯を長らくまともに使っていなかったのだから、無理もない。明瞭な発音を意識して、再度要求を述べた。 「行きたい場所があるから、バス代を貸して。どうしても必要なんだ」  事情を詳しく説明する義務を放棄し、要求のみをくり返すという行為が、三人の心を動かしたのだと思う。抱いたのは、恐怖か、薄気味悪さか、それともある種の憐れみか。知る由もないし、興味もないことだ。  金を出してくれたのは父親だった。五千円札が一枚。財布から抜き出し、僕の手に握らせ、それで終わりだった。「これで足りるのか」とも、「必ず返すように」とも、「どこへ行くつもりなんだ」とも言わなかった。  一秒でも早くこの場から消えてほしい、という雰囲気をひしひしと感じた。三人は落ちこぼれの僕を言葉で責め苛むのが日課だから、態度を軟化させたと言えるかもしれない。 「ありがとう」と父親に言うべきか否か。迷ったけど、なにも言葉をかけてこなかったのだから、その必要はないと判断。黙って五千円札をジーンズのポケットに押しこみ、ダイニングをあとにした。一挙手一投足を目で追ってくるのが少し鬱陶しかったけど、にらみつけるとか、苦言を呈するなどの、つまらない反撃は控えた。  バスの運賃も、祖父母宅の最寄りの停留所も、バスの発着時刻も、スマホで調べれば事足りた。  家の外に出るにあたって、心理的な抵抗は不思議となかった。バス代を得るというミッションをクリアしたことで、気持ちがいくらか大胆になっていたのかもしれない。  道中で通行人とすれ違ったときや、駅前で大勢の人々の間隙を縫って歩いたときは、さすがに少し緊張した。しかし、症状がそれ以上悪化することはなかった。誰も僕を嘲笑ったり、侮蔑したり、疎ましがったりしなかったからだ。僕が不登校に陥ってひきこもりに追いこまれたのは、悪意を持った人間と接したからであって、悪意を持たない人間とであれば共存できる。そう理解した瞬間、無意識に肩にこもっていた力が抜け、心がだいぶ楽になった。  バスは定刻に停留所に到着した。乗客は十人弱といったところ。満員からは遠く、それでいて少なすぎない混雑具合は、今の僕には最適な人口密度に思える。  昔日の遠足のバスの車中のような、はしゃいだ気分からは遠い。無理矢理に近づこうと試みたとしても、決して到達できないだろう。それでも、車窓越しに景色を眺める余裕、乗り降りする乗客に注目する余裕、車内アナウンスに耳を傾ける余裕――心のゆとりはずいぶんあった。  来るべき到着のときを、楽しみに思うのでも、不安に感じるのでもなく、ただ座席に座って揺られていた。  やがてバスは大毛島に入った。  しばらく道を走ると、右手に砂浜が広がっているのが見えた。夢で見たものよりも狭かったけど、漂着物などはあまり落ちていないようだ。陽光を受けて輝く海面の美しい青と、砂浜の白のコントラストの見事さ、それだけは夢と寸分違わない。  砂浜が見えたということは、父方の祖父母宅はもうすぐということだ。  釣り銭が出ないように運賃を用意しなければならない、というルールの存在は事前に把握していたが、降車する二つ前の停留所を通過するまで失念していた。両替機を利用して慌ただしく小銭の用意をしているうちに、バスは目的の停留所に停車した。過不足なく運賃を支払い、バスを降りる。下車したのは僕だけだった。  バスが走り去ると、道の向こうにバス停の標識が見えた。壁と屋根に守られたベンチが設置されているのは夢と同じだけど、壁も屋根もベンチも鮮やかな空色に塗られている。現実世界の時間は進むもので、多くの人から必要とされているものは見捨てられないものなのだ。そんな、当たり前といえば当たり前のことを思う。  横断歩道に信号機は備わっていない。断続的な車の流れが途絶えたタイミングを見計らい、道を渡る。  ベンチに腰を下ろす。視線は自ずと前方へ向かった。マンションの敷地を囲う石垣があり、根本では砂浜から飛んできた砂が白い丘を作っている。壁と屋根とベンチには色が塗られたけど、石垣に積もる砂は変わらない。近いはずなのに遠く聞こえる波音との相乗効果で、なんだか感傷的な気持ちになってしまった。  この停留所は千帆とキスを交わす寸前までいった、思い出の場所の一つだ。それなのに、なぜだろう、僕の心には漣すら立たない。同じく思い出の場所である砂浜を、歩いてみようという気にもなれない。千帆が非実在の存在だと認識していないのと、しているのとでは、こんなにも気持ちに差が出るものなのかと、呆然としてしまう。千帆に申しわけないような気もする。あんなにも時間をかけて、あんなにも綿密に作りこんだくせに、一度冷めるとこんなにも素っ気なくなるなんて。  自己嫌悪の念が心を暗く陰らせる。罪滅ぼしに、千帆との思い出を反芻したいと思ったけど、心はどうやら気乗りがしていないらしい。なにもすることがないのであれば、粘り強く取り組んでみたかもしれない。しかし、僕には行くべき場所がある。  逃げている? 多分、それが正しいのだろう。  だとしても、行かなければ。 「さて、と」  腰を上げ、汚れてもいない尻を両手で払い、左右を確認した上で道を横断する。  停留所から祖父母宅までは徒歩約五分。夢の世界でも現実の世界でも、その事実に変わりはない。  予定どおり、五分ほど歩くと目的地に辿り着いた。  祖父母宅は跡形もなかった。母屋も、離れも。敷地一面に白っぽい砂地が広がっているだけだ。  そう、更地。  僕の父方の祖母は、四年前に末期の胃がんが原因で亡くなった。妻に先立たれた祖父は、僕の両親からの支援を受けつつ、住み慣れた家で一人暮らしを続けていたけど、今年の正月明けに肺炎を患って帰らぬ人となった。主が不在となった古めかしい木造住宅は、離れともども取り壊された。それが今年の四月、僕が不登校に陥り、自室にひきこもるようになって間もないころの話となる。  白くだだっ広い空間を前にして、僕は脱力感を伴った虚しさを感じている。  この感情の源泉はなんなんだ?  思い出が詰まった家が跡形もなくなってしまったから。そう説明すれば、それが正しい気もする。  しかし、僕はそもそも、父方の祖父母とはそれほど親密だったわけではなく、思い出といってもたかが知れている。それに、祖父母宅で家族と揉め、一人だけバスに乗って我が家に帰るという、トラウマを抱えてもいる。今となってはトラブルが起きるに至った経緯すらも記憶していないけど、それでもトラウマであることに変わりはない。  変わらない石垣の砂や、変わってしまった停留所の壁と屋根とベンチを見たときに抱いた感傷、それを引きずったからこその虚しさだ。そう説明すれば、それが正しい気もする。  しかし、その解釈はいささか単純すぎる気がする。真相はもう少し複雑なのでは? 根拠というほどのものはないけど、そう思えてならない。  それでは、僕がひきこもっているあいだに、不可逆的で決定的な変化が起きたのがショックだったのだろうか?  祖父母宅を取り壊す方針は、ひきこもる以前から知らされていた。この説も間違っているのでは、と思ったけど、いや違う、とすぐに考えが変わった。  自分の力ではどうにもならないことが起こった。それこそが鍵なのだ。  自分の世界にひきこもっていれば、「自分の力ではどうにもならないこと」を体験しなくても済む。しかし、現実世界で生きている限り、そうはいかない。思いどおりにならないことばかりと言っても過言ではない。  今朝、自室から出て家族の前に顔を出した時点で、僕はその道を歩む運命が決定づけられた。道中で待ち受けている、「自分の力ではどうにもならないこと」に対する不安と恐れ。そして、僕の力ではそれを乗り越えるのは至難の業だ、という認識。  だってそうだろう? いじめを受けて、学校に行けなくなって、自室にひきこもった軟弱極まる自分に、困難を乗り越えいていくだけの力があるか? あるはずがない。  ようするに、それが虚しさの正体なのだ。  一歩を踏み出したばかりであるがゆえに、弱気に駆られているだけ? そうは思えない。越えなければならない関門がたった一つで、相対しなければならない時期が事前に分かっていたならば、どうにか対処できたかもしれない。しかし、困難というものは本質的に、前兆も予告もなく、寄せては返す波のように攻撃を仕掛けてくる。僕の力では、無様に打ちのめされる事態を免れるなんて、無理だ。絶対に無理だ。  僕は、自室にひきこもったまま、空想を友だちに寿命を消費していたほうが、遥かに幸せだったのでは? 「――あの」  突然声をかけられたので、自分のものではないかのように肩が大きく跳ねた。声がしたのは、後方。若い女性の声だ。  振り向いて、驚愕が体を刺し貫いた。 「千帆? 君は、安藤千帆さん?」 「安藤? いえ、違います。私は山本ですが……」  山本と名乗った女性は目を白黒させている。僕は山本さんを食い入るように見つめる。五秒も要さずに、彼女の発言は正しいと心の芯から理解した。  ぱっちりとした瞳が特徴的な、少し幼さが感じられる目鼻立ちは、たしかに千帆とそっくりだ。しかし、それ以外は似てもにつかない。茶色がかった黒髪は腰までの長さがあり、毛先にはウェーブがかかっている。服装は派手な花柄のワンピース。年齢は二十代前半だろうか。あどけさなさを残す顔立ちを差し引いても、大人の女性、という印象を強く受ける。いい意味で子どもらしい千帆とは対極に位置するといってもいい。  山本さんは僕に歩み寄ってきた。更地の前に長々と突っ立っているかと思ったら、いきなり聞いたことのない女性の名前を口にする……。不審者以外の何者でもない僕に、彼女は自ら物理的な距離を縮めるという対応をとった。それは多分、僕が青白い顔をした痩身の少年――ようするに、万が一の事態が起きても容易に我が身を守れそうな人間だったから、なのだろう。 「どうされました? 私は高柳さんの隣の家に住んでいるんですけど、庭で洗濯物を干していたら、あなたの姿が見えたんです。長いあいだ同じ場所に立っているようなので、どうしたのかな、と思って声をかけたのですが」  髪の毛を耳にかけ、顔を覗きこみながら問うてくる。  僕は山本さんの顔を直視できない。他人と口をきくのは、家族を除けば一か月ぶりだ。その相手が若い異性、それも千帆を連想させる人だなんて。  緊張はすさまじいものがあった。しかし、ただでさえ不審がられているのに、これ以上まずい対応をとるわけにはいかない。  昨日までひきこもりだったのに、部屋から出られたではないか。こんな遠い場所まで一人で来られたではないか。案ずるな。自信を持て。勇気を振り絞れ。お前ならできる。男を見せろ、高柳秀真よ。 「なにか困りごとでもあるんですか? 顔色があまりよくないような……」 「いえ、体調は大丈夫です。すみません」  掠れているのが気になるものの、山本さんにも聞きとれる声を発せられた。謝罪の一言は余計だったような気もするけど、不自然というほどでもないだろう。客観的に採点した限りでは、及第点の対応をとれた。そう自覚したことで、ほんの少し緊張が和らいだ。 「僕は、その……。更地になる前は、ここに木造の家が建っていたと思うんですけど」 「高柳さんのお宅ですよね。私は先月の終わりにこの島に越してきたばかりなので、詳しくは知らないんですけど、高齢の男性が一人暮らしをしていたという話は聞いています。……もしかして、高柳さんの家族のかたですか?」 「はい。その高齢の男性というのは、僕の父方の祖父です。事情があって、この家には長らく訪れていなかったし、取り壊されたあとの様子は一度も見たことがなかったので、時間ができた機会に見に来たんです」 「ああ、そうでしたか」  山本さんの表情が大きく和らぎ、微笑に限りなく近づいた。警戒心を緩めてくれたことで、顔を直視する余裕がやっとできた。山本さんのほほ笑みはとても穏やかで、大輪を惜しげもなく開花させるような千帆の笑みとは正反対だ。  ……そうだよな。彼女が千帆自身だとか、千帆のモデルとなった人物だなんて、そんな荒唐無稽な非現実は有り得ない。  現実はこんなものだ。よくも悪くもこんなものだ。  千帆との思い出を無理に忘れる必要はない。恥じることなく胸に仕舞っておこう。ただし、囚われてはいけない。前へ、前へ。あくまでも前へ進まなければ。 「目的は叶ったし、バスの時間の都合もあるので、僕はそろそろ帰ります。ご心配をおかけして、すみませんでした」 「いえ、とんでもないです。……あの」 「はい?」 「事情はよく分からないんですけど、めげないでくださいね」 「え……?」 「あっ、すみません。佇んでいる後ろ姿とか、話をしているときの表情とかを見る限り、なにか難しい問題に直面しているのかな、という気がしたので。だから、その、無責任な言いかたになってしまうんですけど――」  山本さんは白い歯をこぼした。そのほほ笑む顔は、出会ってから一番、千帆にそっくりだ。 「応援しています。頑張ってください」  一陣の薫風が吹き抜けた。  山本さんは軽くお辞儀をし、僕に背を向けて去っていく。その背中から、僕は視線を外せない。  胸の奥で熱いものが脈打っている。  見知らぬ初対面の人間、しかも少なからず不審な行動をとっていた人間に、「頑張って」という言葉を贈る人がこの世界には存在する――。  発見したその事実は、僕にとって光以外のなにものでもなかった。  現実に対する恐怖や不安が消えたわけではない。しかし、以前は存在しなかった希望が、胸の内側で同居している。  つらくなったときは、明るくて温かな光を見よう。ままならない現実から目を背けて、輝かしい過去の一瞬を思い返し、満足がいくまで堪能する。そんな時間がたまにはあってもいい。ただし、必ず帰ってくること。現実逃避をしたとしても、空想だけに慰めを求めていた暗黒時代のように、浸りっぱなしは断固として慎むべきだ。  空想の中だけではなく、現実世界にも、僕にエールをくれた人がいる。この事実を失念してしまわなければ、きっとなんとかなる。何度失敗しても、何度挫けそうになっても、きっと立ち上がって歩きつづけられる。  自分の力ではどうにもならないことなんて、この世界には嫌気が差すほど転がっている。  だったら、自分以外の人間の力も借りながら、気負わずに歩んでいけばいい。 「――よしっ」  更地に背を向け、僕は静かに、それでいて力強く歩き出した。  誰かに呼ばれた気がして、足を止めて天を仰いだ。文字どおり雲一つない青の真ん中で、永遠の象徴のように太陽が輝いている。
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