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覚醒して最初に覚えた感覚は、違和感。
いつもとはなにかが違う、という感じが強くする。
強いて言語化するならば、世界になんらかの劇的な変化が起きた、というような。
フランツ・カフカの『変身』に登場するザムザ青年は、気がかりな夢から覚めたあとで自分が毒虫に変わっていることに気がついたけど、僕は夢を見なかった。少なくとも、記憶に残るような鮮明で印象深い夢は。もちろん、毒虫に変身していたわけでもない。手を見て、胸と腹を見下ろして、掛け布団を蹴り飛ばして下半身までこの目で確認したから、それは揺るぎない事実だ。
速やかに着替えを済ませ、机の上のスマホを手にとる。世界に起きた劇的な変化とやらの詳細を把握しておきたかったのではない。アカウントを取得しているSNSにアクセスし、フォローしているユーザーの昨夜から今朝にかけての動静を確認するという、毎朝の日課をこなそうと思っただけだ。
SNSのアプリを開くと、現在インターネットに接続されていない、という表示が出た。Wi-Fiの調子が悪くなることはたまにあるので、驚きや苛立ちは特にない。いつものように、別ルートからネットの接続を試みた。しかし、どういうわけか繋がらない。
「……おかしいな」
首を捻ったけど、そのときはまだ、「なんらかの劇的な変化」が起きたと本気で信じたわけではなかった。今まで一度も発生したことがない、しかし平凡な高校生の僕でも自力で解決可能な、なんらかの問題が発生しただけ。そう信じきっていた。
まあ、たまにはこんなこともあるだろう。心の中でつぶやき、朝食をとるべく一階に下りる。
ダイニングには、両親も、妹の真由瑠も不在だった。いるはずの人がいないだけで、空間はどこか寒々しく感じられる。
同時に、違和感も覚えた。朝が弱い真由瑠はともかく、仕事がある両親が僕よりも起床が遅いなんて。
そういえば、今は何時なのだろう。
リビングのアナログ式の掛け時計を見上げると、止まっている。短針も長針も真上を指した状態で、琥珀に封じこめられた昆虫のように微動だにしない。
背筋を悪寒が駆け上がり、全身に鳥肌が立った。
時計は今年買い換えたばかりだから、故障だとは考えにくい。壊れたのだとしても、二十四時間の中で最もきりがいい時間に動かなくなったというのは、偶然にしてはできすぎだし、ひどく意味深だ。
インターネットも使い物にならなくなったことを考え合わせると、とても嫌な予感がする。
まるで、世界になんらかの劇的な変化が起きたような――。
「……落ち着け」
落ち着け。落ち着け。落ち着け。
深呼吸を何度かくり返し、下りたばかりの階段を上がる。足が震えているせいで、一段目にかけた右足を踏み外してしまい、脛をぶつけた。痛むその箇所をさすりながら、なおも自らに言い聞かせる。
落ち着け。落ち着くんだ、高柳秀真。世界になんらかの劇的な変化が起きた? そんなこと、あるわけないじゃないか。アニメやゲームやマンガじゃあるまいし。僕が生きているのは、荒唐無稽で刺激的なフィクションの世界ではなく、平凡でつまらない現実世界だ。予告もなく、一瞬にして激変するなんて、そんな非現実的なことが……。
慎重に歩を運ぶことを余儀なくされたせいで、二階に辿り着くまでにひどく時間がかかってしまった。少し足を速めて妹の自室に直行する。
「真由瑠!」
ドアをノックしながら大声で呼びかける。
「真由瑠! 愚図愚図してると遅刻するぞ! 真由瑠!」
返事はない。気配も感じられない。
右手を動かすのをやめ、鈍色に光るドアノブに視線を落とす。
真由瑠の部屋のドアの鍵は壊れている。詳しい理由は把握していない。今春に中学一年生になったばかりの妹は、腕力はないけどがさつな性格だから、きっとドアを乱暴に開け閉めして壊したのだろう。
『早く直してよ。一秒でも早く。中学生の女子の部屋のドアの鍵が壊れてるって、とんでもないことだよ。別にやましいものを隠し持っているとかじゃないけど、言いたいことは分かるでしょ?』
真由瑠の要請に、父親は業者に頼るのではなく、ホームセンターで購入した工具を使って自力で直そうとした。しかし、素人の技術と知識では思うようにいかず、その結果が現在のドアノブの状態だった。
仕事の遅さを真由瑠から非難されながらも、父親があくまでも独力で解決を図ろうとしているのは、頼りになるところを娘に見せたいからだ。母親も似たようなものだ。格好をつけないかわりに、過剰なまでの愛情を娘に注いでいる。
父親も、母親も、真由瑠のことが大好きだ。
……僕とは違って。
たとえば壊れたのが僕の部屋のドアだったとしたら、原因が誰かの過失であれ経年劣化であれ、両親は僕の責任を厳しく問うたはずだ。父親は道具を買ってまで自力で直すことに固執するのではなく、さっさと業者に電話をしただろう。支払い代金は、僕の乏しい貯金の中から捻出することになったはずだ。次にまた壊すようなことがあれば、叱責や罰金どころではない大げさな罰を僕に――。
そこまで考えたところで、はたと我に返る。
今はそんなことを考えている場合ではない。真由瑠だ。真由瑠の現状がどうなっているのかを、この目でたしかめなければ。
「真由瑠! 入るぞ!」
不愉快な想念を吹き飛ばすように大声を張り上げ、ノブを回してドアを全開にする。
ベッドはもぬけの殻だった。掛け布団は持ち主の胸のように真っ平らで、小柄な真由瑠といえども、中に潜むのは物理的に不可能。
どこかへ出かけたのだろうか? いや、そんなはずはない。真由瑠のこれまでの生活パターンと、朝に弱いことを考えれば、その可能性は限りなくゼロに近いはず。
じゃあ、どうなった? どこへ行ったというんだ?
……まさか、消えた?
これが、世界に起きた劇的な変化だとでもいうのか?
全身から脂汗が噴き出した。衝動的に絶叫を張り上げなかったのは、奇跡としか言いようがない。居ても立ってもいられず、同じ階にある両親の寝室へと走る。
「父さん! 母さん!」
ハンマーを打ちつけるように拳でドアを連打する。
「真由瑠が消えた! 起こそうと思って部屋のドアを開けたら、ベッドからいなくなってる! やばいって! 父さん! 母さん!」
父親は神経質な性格だから、僕自身、夜間に不要な物音を立てて叱られたことが何度もある。母親は父親ほどではないけど、決して鈍感ではない。加えて、二人とも真由瑠に対しては甘い。
その両親が、強い力で何度も寝室のドアを叩かれ、真由瑠の危機を知らされたというのに、まったくの無反応。
「父さん! 母さん!」
ドアに血がうっすらと付着しているのに気がつき、ノックをやめる。強く叩きすぎたせいで、右手の皮が擦り剥けたのだ。
音がやんだことで、呼吸の荒さを遅まきながら自覚した。息を整え、心を落ち着かせる意味から、その場でゆっくりと十を数える。改めて室内の様子を窺ったけど、やはり人がいる気配は感じられない。
ドアに背を向け、階段を下りる。右拳の傷は放っておく。血が滴るほどの大怪我ではないし、処置を施すだけの心のゆとりもない。
……なんだよ、これ。
これはいったい、なんなんだ。
まさか、本当に、「世界になんらかの劇的な変化が起きた」のか?
家族がいなくなったということは、人類が滅亡した? 世界が終焉を迎えた? ……僕はまだ生きているのに?
いったい、なにが起きているというんだ?
ジーンズのポケットから、いそぎがちにスマホを取り出す。直後、インターネットは現在不通だと気がつく。
舌打ちをしようとしたけど、できなかった。
無性に泣きたい気持ちになった。
それでも、歯を食いしばって感情をぐっとこらえた。深呼吸をして、階段を駆け下りる。なにかをしていないと、頭がおかしくなってしまいそうだった。
自宅を出て真っ先に、天を仰いだ。
憎らしいまでの快晴だ。五月下旬の朝ではあるものの、肌寒さは感じない。
いつもどおりの、いつもとは違う朝。
県道へと続く細道を道なりに進む。家を出て三分ほどが経っただろうか。犬の散歩やジョギングをする人たちと擦れ違うことも多い道だけど、今のところ誰とも出会わない。それどころか、民家の前を通っても、屋内で人が活動している気配は感じられない。朝にはつきものの鳥のさえずりが聞こえてこないから、世界は怖いくらいに静かだ。
人気がいないのは、たまたまに過ぎない。両親と真由瑠はなにか用事があって、朝早くから三人で出かけているだけ。両親は真由瑠贔屓だから、僕のことを軽視して、メッセージを残すひと手間を怠けたのだ。
世界が終わってしまった? そんな馬鹿げたことが起こるはずがない。
県道は交通量が多く、朝から多くの自動車が行き来している。県道に出さえすれば、真実が明らかになる。世界の終わりが僕のくだらない妄想だと、きっと証明してくれる。
そう信じながらも、目的地へ向かう足取りは重い。まるで二十キロもある鉄製の枷を足首に装着されているみたいだ。アスファルトの地面を踏みしめるたびに、体が小さなダメージを受けている。おまけに、軽い腹痛にまで苛まれはじめた。
これらの症状と感覚がなにを意味するのかは、考えたくもない。
だから、ただ足を交互に動かす。心を完全にまっさらにするのは無理でも、できるだけ空になるように心がけて、深閑とした道を道なりに進む。
九十度近いカーブを曲がり、県道に出る。
ああ、と思った。
片側二車線の道路を通行している自動車は、一台もない。歩道を通行している人間、走行している自転車、どちらも見当たらない。
さらには、信号が点っていない。車両用信号も、歩行者用信号も。それにとどまらず、コンビニの明かりまで。
本当は、もっと早い段階で分かっていた。カーブを曲がりきるまで県道の様子は見えなくても、音は聞こえる。カーブを歩いている最中、僕の耳は自動車の走行音を一切感知しなかった。
両脚が震えはじめた。厳密には、今までも微かに震えていたのだけど、歩くのに支障がない程度の微弱な振動に過ぎなかった。しかし、もはや一歩も歩けない。
世界が終わった。
みんな消えてしまった。
ただし、僕を除いて。
……なんなんだ。
なんなんだよ、この前代未聞の異常事態は。
「なんらかの劇的な変化が起きた」気がしたのはたしかだ。たしかだけど、それが正解って、紛れもない現実って、有り得ないだろ。
なんで、こんなことになったんだ?
みんなが消えてしまうなんて。世界が終わってしまうなんて。
僕にとって、この世界はひどくつまらないものだった。家族のことは、はっきり言って嫌いだった。愛してはいなかった。
だけど、滅びろと願ったことはない。消えろと念じたことはない。世界はひどくつまらないけど、僕が生きていかなければいけない場所。みんなのことは嫌いだし、愛してもいないけど、付き合っていかなければならないもの。そう認識していた。
それなのに、こんなことになるなんて。
路上の一点に立ち尽くしたまま、どれくらいの時間が流れたのだろう。
両脚の震えがようやく収まった。そのあいだ、通行人も、通行車両も、まったく目にしなかった。
混乱と動揺は完全には収まっていない。ただ、長い時間一点に佇みつづけたことで、分かったことが一つある。
この場に留まりつづけても、事態は一向に解決しない。それどころか、心に安心をもたらす情報に接するチャンスすら得られない。
ならば、とるべき行動は一つしかない。
「……よし」
自分を励ますように小さく声に出し、僕は歩き出した。
歩行自体に差し支えはないものの、足に充分な力をこめることが難しく、地面を踏みしめるたびに体が左右に揺れる。飲酒経験はまだないけど、酔っ払うとこんなふうになるのかもしれない。
全然楽しくない。苦しいだけだ。不味くて、悪酔いするだけの酒を、僕は飲まされた。
誰でもいい。誰だって構わないから、一秒でも早く、僕を悪夢から解放してくれ。
僕はこの世界を諦めきれなかった。愛することができない、嫌々ながらも付き合うしかない人々で溢れた、ひどくつまらない世界のままでも構わないから、存続してほしい。そう願わずにはいられなかった。
世界がまだ終わっていない証拠。この地球上で呼吸をしている誰か。それを得るためには、その人と出会うためには、どこへ足を運べばいいだろう?
自宅に戻っても、家族と再会できるとは思えない。「家族が消えた」という事実を再認識させられる恐怖は、一縷の希望にすがりたい気持ちを上回っていた。だから自宅は、行き先の候補から速やかに除外した。
僕は今、去年の今ごろに完成した長い橋を渡っている。渋滞緩和を目的に新造された橋らしいけど、僕はその直接の恩恵は受けていない。渡るのもこれが初めてだ。
両親の話によると、朝夕の交通量はかなり多いらしいのだけど、現在は一台も通っていない。時間帯を考えれば、高校に登校する学生たちを見かけてもおかしくないはずなのに、自転車も人の姿も視界には映らない。
やはり、世界は終わってしまったのだ。
否応にもそう感じさせる、寂しい風景の中を、たった一人歩く。橋の上だから風が強く、それが寂しい気分を加速させる。寂しさが募れば募るほど、惨めな気持ちになっていく。「高校に人がいるか否かをたしかめる」という目的を持っていなかったならば、突然奇声を上げながら頭をかきむしり、欄干を乗り越えて川に飛びこんでいたかもしれない。
橋の半ばに差しかかったあたりで、ふと思い立ち、欄干に体を寄せて川を覗きこんだ。川床の石の凹凸が見えるほど、水の透明度は高い。状況が違っていたならば、街中を流れているにしては水質がきれいなことに、呑気に感心していたかもしれない。しかし、入念に観察しても泳いでいる魚は一匹も見つけられず、失望と落胆が胸を塗りつぶした。
まだ朝で水温が冷たいから、岩陰に身を潜めているのだ。そう自分に言い聞かせたけど、虚しさがこみ上げただけだった。欄干から体を引き離し、強くなりはじめた風の中を歩き出す。
橋を渡りきり、さらに五分ほど歩くと、僕が籍を置いている県立高校に到着した。
正門のスライド式の門扉は、開いていた。
敷地内に足を踏み入れた僕は、明らかに緊張していた。普段は朝早く登校することはないし、放課後のチャイムが鳴り次第速やかに帰宅する。人気のない学校の敷地内を歩くのはこれが初めてだ。
運動部員たちが不在のグラウンドは、空虚な静寂に支配されている。時間帯を考えれば、いずれかの部活に所属する生徒が朝練をしているはずなのに、誰もいない。
絶望感に押しつぶされて、たびたび足が止まりそうになる。そのたびに懸命に気力を振り絞り、僕は歩きつづけた。
校舎の出入口の戸は開いていた。
中に入ろうとした瞬間、全身が硬直する。
精神的にも肉体的にも過度の緊張を強いられるような、背筋が冷たくなるような、そんな空気が蔓延しているのが肌に感じられる。身を置く時間が長引けば長引くほど、建物の奥へ進めば進むほどプレッシャーが高まっていきそうな、そんな雰囲気だ。
校舎には決して足を踏み入れてはならない。そう誰かから警告された気がした。
体を百八十度回し、校舎から遠ざかる。異様な雰囲気から離れれば離れるほど、呼吸が楽になっていく。
昨日まではなんの変哲もない校舎だった空間が、いつ、どのようにして、どんなふうに変わったのかは知る由もない。ただ、距離をとるという選択は正しかったと、自信を持って断言できる。
しかし。
校舎が駄目となると、僕はどこへ向かえばいいのだろう? どこへ行けば、世界が終わっていない証拠や、生き残りの人間に出会えるのだろう?
新旧二棟の校舎のあいだ、なにもない空漠としたスペースの中央で足を止め、沈思黙考する。やがて浮上した選択肢は、
「……体育館」
今春に東北地方で発生した大震災にまつわる記憶が思い出される。学校の体育館が避難所として解放され、多数の市民が肩を寄せ合っている光景を、僕はテレビのニュースで何度も見た。
この町は災害に見舞われたのかもしれない。避難指示が出されたけど、なんらかの理由で僕だけが逃げ遅れてしまい、僕以外の住人はみな高校の体育館で身を寄せ合っている。世界が終わったわけでも、人類が滅亡したわけでもないけど、大規模な災害が発生し、多数の死傷者が出るなどして、この国は未曽有の大混乱に陥っている。――混乱している頭が導き出したにしては、現実味がある予想ではないだろうか?
矛盾点や疑問点がないわけではない。しかし、今は細かいことにいちいち気を割くのではなく、真実をたしかめるための行動を起こすべきだ。僕は来た道を引き返した。
正門を出ると、片側一車線の舗装道路が左右に走っている。横断した先にあるのは、教職員用の駐車場。ただし、停まっている車は一台もない。
殺風景な空間を奥に向かって進むと、二階建ての体育館に行き着く。建物と同時期に造られたはずなのに、老朽化が激しい階段を上る。響く靴音は、心なしか普段よりも甲高い。緊張を否応にも高める音質だけど、足は止めない。体育館の中に人はいるのか、いないのか。一刻も早く、真実が知りたい。僕が望む真実、望まない真実、どちらであったとしても。
二階の出入口、閉ざされた戸の前まで来た。
中から物音は聞こえてこないし、人が活動する気配も感じられない。ただ、戸は分厚いので、希望はまだ残っている。
階段を上っている最中は、人がいてもいなくても、どちららでもいいから早く真実が知りたいと思ったが、あれは嘘だ。とんでもない大嘘だ。
誰でもいい。誰だって構わないから、戸を開いた先の空間にいてほしい。ただそれだけで、世界がどうなってしまったのだとしても、僕は生きていける。
取っ手に手をかける。戸が重たいからといって、中途半端に開けて、隙間から垣間見えた光景に失望したくない。「せーの」のかけ声とともに一気に全開にする。それがいい。そうするべきだ。
両手の指先に力をこめる。両脚の震えが完全に鎮静した。息を深く吸いこみ、長く吐き出す。最低限、心が整った。
せー、のっ。
可能な限り素早く、大きく、重厚な戸を開け放つ。
仄暗かった。埃っぽかった。この暗さでは中の様子がよく分からない。そもそも、体育館は埃っぽさとは無縁だったはずだ。二重の意味から目を凝らした。
八畳ほどの一室だ。壁も床も天井も褐色の木で構成されている。古めかしい箪笥と、小さな木製の本棚が置かれている。床は足の踏み場もないほど物が散らばっていて、雑然としているというよりも、汚い。マンガ雑誌、スナック菓子の空き袋、脱ぎ捨てられた水色のキャミソール。
部屋の中央へと視線を移動させて、息を呑んだ。
敷き布団が敷かれていて、その上に少女が仰向けに横たわっている。
一糸まとわぬ姿で、右手のみを腹の上にのせて大の字になる、という姿勢。僕と同年代だろうか。耳がやっと隠れるくらいの長さの黒髪で、目鼻立ちは推測される年齢よりもいくぶん幼い。安らかな表情と、規則的に上下するボリュームたっぷりの胸から、眠っているのだと分かる。
体育館の戸を開けたら、なんで汚い部屋があるんだ?
この子は、なんでこんなところで寝ているんだ?
この子は、いったい何者なんだ?
いくつものクエスチョンマークが頭の中を埋め尽くしたけど、すぐに泡のように弾けて消えた。そして、こう思った。
ああ、人だ。
おもむろに、閉ざされていた両の瞼がぱっちりと開いた。大きなあくびをしながら、魅惑的な肉体を見せつけるように四肢を伸ばす。全身のかすかな振動に連動し、小刻みに震える豊かな膨らみから、僕は目を離せない。
少女は緩慢な動作で上体を起こす。僕はちょうど彼女の真正面に佇んでいる。目が合った瞬間、微弱な電流が体を駆け抜けた。少女は呆気にとられたように口を半分開けた。その表情のまま二・三秒ほど固まり、薄桃色の唇を動かした。
「あなたは――」
声を聞いた瞬間、僕の体は自動的に動き出していた。
少女に猛然と駆け寄り、抱きついた。
「えっ? えっ? ちょっと……」
人肌の温もりと、柔らかさと、匂いを感じて、僕の両の瞳から熱い液体が溢れ出した。
知らなかった。人間の体温が、肌の感触が、体臭が、こんなにも尊くて、こんなにも愛おしいものだったなんて。
こみ上げてくる感情に、少女の背中へと回した両腕の力を強める。今、頬に感じている柔らかな感触は、胸の膨らみだろう。我を忘れるあまり失念していたけど、彼女は裸だった。
少女は抵抗こそ示さないけど、赤の他人に抱きつかれたのが嬉しいわけではないはずだ。羞恥の念や不快感よりも、困惑が圧倒的に強いせいで、結果的に無抵抗なだけ。そんなことは百も承知だ。
でも、もう少し、もう少しだけ、このままでいたい。
愛おしさのあまり、首を小さく左右に振り、ふくよかな膨らみに頬をこすりつける。何度も、何度も、僕はそうした。
くり返すうちに、髪の毛になにかが触れた。少女が僕の頭を撫でてくれているのだと、少し遅れて理解する。
頬ずりをするのをやめて、愛撫に身を委ねた。
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