終末の二人

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 視界を遮断する、温度のない膜の中で、声を聞いた。耳を凝らしていないと無音に同化してしまいそうな、淡い、淡い声。  僕は聴覚を研ぎ澄ませる。声は遅々とした速度ながらも着実に鮮明さを増していき、やがて一定のクリアさを獲得した。どうやら僕の名前を呼んでいるらしい。  呼ばれているのだから、応えたい。いや、応えなければ。  試みに「おーい」と呼びかけてみた。声は膜に弾き返され、僕のもとまでそっくりそのまま戻ってきた。  声を跳ね返す。周りは見えない。膜が全ての元凶なのだ、と悟る。  声と視界を完全にシャットアウトするほどの物質を、僕一人の力でどうにかできるのだろうか?  上手くいくとは思えなかったけど、声が聞こえなくなってしまう恐怖に背中を押された。思考しているあいだに、声は消えそうな淡さに退行している。灯火を消すわけにはいかない。  膜は、弾性と強度を併せ持つ特殊なゴムのような性質だ、と僕は理解していた。ならば、無理矢理引きちぎって風穴を開ければいい。  右手を伸ばすと、思ったよりもずっと柔らかな感触が五指と掌に伝わった。その柔らかさたるや、損傷させるのに罪悪感を覚えるほどだ。  それでも僕は、膜の外に出たかった。出なければならないと強く思った。  指先に力をこめると、膜が手から逃げていく感覚が伝わってきた。まったく予想していなかった反応だ。  取り逃がしてしまったら、二度と掴めないかもしれない。永遠に膜の外に出られなくなるかもしれない。渾身の力でたぐり寄せた。  手応えはなく、破裂音も立たなかった。しかし、膜は破れた。膜の外に広がる景色が視界に飛びこんできた。  アップで映し出されたのは、呆気にとられたような千帆の顔。  僕の右手は、なにか柔らかいものを掴んでいる。  手元に視線を落とすと、キャミソール越しに胸を鷲掴みしている。のみならず、左腕を千帆の背中に回し、自らへと引き寄せる体勢をとっている。  寝ぼけていたせいで、起こしに来てくれた千帆に蛮行を働いたのだ、と状況を理解する。  僕の片腕と片手に捕らえられた千帆は、目覚めた僕が最初に見たのと同じ表情で僕を見ている。至近距離から見つめ合う形ではあったけど、羞恥の念はこみ上げてこない。目の覚めるような体験をしたにもかかわらず、頭の芯がまだ眠りから脱しきれていないのだ。  寝ぼけているふりをして、千帆に欲望をぶつけようか、という考えが脳裏を掠めた。  しかし、理性的な、あまりにも理性的なもう一人の僕は、その案に猛烈に反対の意を表明した。浅ましい考えは捨てて、可能な限り紳士的な対応をとって、汚名を返上しろ。苛立ったように、高圧的に、そう命じた。  千帆の胸から右手を離し、背中に回していた左腕をほどく。ラブコメマンガの奥手な主人公が、官能的なハプニングに見舞われたさいに決まってするように、慌てふためきながらではなく、壊れ物を扱うように慎重に。  千帆は少しぎこちない挙動で上体を垂直に立てた。自らの胸元に視線を落とし、着衣の乱れを軽く正す。僕に目を合わせると、はにかみ笑いをこぼした。 「シューマ、おはよう」  表情と声、どちらからも千帆らしい澄んだ明るさが感じられた。寛大で、でも飾り気のない対応に、救われた思いがした。 「……うん。おはよう」  髪の毛に触りながら挨拶を返したのは、寝癖を直すのを装った照れ隠しだ。千帆は白い歯をこぼし、上体を屈めて再び僕に顔を近づける。 「いきなり抱きつかれたから、びっくりした。寝ぼけていたの?」 「そうみたい。本当にごめん」 「ううん、気にしないで。そんなことよりシューマ、見て」  千帆は窓のほうを指差した。上半身を捻じって後方を振り向くと、窓外が明るさに包まれている。  実に久しぶりにお目にかかる、光。 「……朝だ」 「そう、朝」  千帆は声に力をこめて「朝」という単語を発音した。 「人が消えちゃうなんてことがあったから、もしかしたら夜が明けないんじゃないかとか、ベッドの上で考えたりしたんだけど、杞憂だったね。朝が来たのを知ったとき、あたし、感動のあまり泣きそうになったもん」  千帆ははにかみ笑いをこぼす。嘘偽りない本心を述べているのは一目瞭然だ。 「大げさかもしれないけど、本当に泣きそうになった。鳥のさえずりが聞こえないのがちょっと寂しいけどね」 「僕も思った。千帆とまったく同じことを、昨日夜中に目を覚ましたときに」 「あ、そうなんだ。考えていることはみんな同じなんだね」  顔を戻すと、千帆は窓ではなく僕を見ていた。ほほ笑むその顔は、僕と同じ思いを共有できたことが嬉しい、と言っているみたいだ。 「朝食の用意はできてるから、早く食べよう」 「えっ、千帆がしてくれたの?」 「うん。まだ夜が明けきっていない時間に目が覚めて、暇だったから。昨日は食事の準備の手伝いができなかったから、というのもあるし。勝手なことしてごめんね、シューマの家なのに」 「気にしてないよ。そんなこと、全然気にしてない」  僕は首を左右に振り、ほほ笑んだ。夕食の準備の件は気に留めていなかったのに、埋め合わせをしてくれたこと。昨夜の僕の異常な振る舞いを水に流してくれたこと。どちらも嬉しくて、自然にその表情を作っていた。 「むしろ感謝してる。ありがとう。今日も一日、よろしくね」  昨日の夕食と似たようなラインナップがダイニングテーブルの上に出揃った。サラダがないのは、千帆が包丁の扱いに慣れておらず、作業を控えた結果だ。栄養バランスが偏ってしまったけど、そんな些細なことは全然気にならない。同じテーブルで千帆が食事をとってくれる。それだけで、食べるものがなにであっても御馳走へと昇格する。  食べながら、本日の予定を話し合った。徳島市内の別の場所を見て回る。大毛島に戻ってみる。二つの案が出て、検討の結果、後者を採択することで話はまとまった。安藤家は一晩人がいない状態だったので、様子を見ておきたかったのだ。  食事の片づけを手早く済ませて、高柳家を発った。食事をはじめてから一時間も経っていなかったと思う。  急ぐ理由があったわけではない。でも、高柳家に長々と居座る理由もない。  昨日の昼下がりに通った道を、昨日とは逆方向に進む。  昨日と同じく、人も車も見かけない。鳥の鳴き声すら聞こえてこない、静かな、静かな朝。 「誰もいないねぇ」  予想はついていたが落胆を禁じ得ない、といったふうに千帆が呟いた。商業施設が多く建ち並ぶ県道を歩いている最中のことだ。 「朝が来たから世界が元通りになっているかもしれない、なんて思ったりもしたけど、そう甘くはなかったね。鳥のさえずりが聞こえなかった時点で、駄目だろうなとは思っていたけど」 「夜が明けないけど消えた人が戻ってくるのと、二択だったらどっちがいい?」  気軽な気持ちで投げかけた質問に、千帆は思いがけずたっぷりと考える時間をとった。そして、答えた。 「答えになっていなくてごめんだけど、朝が来て、人も戻ってくるほうが絶対にいいよ」  いつもどおりの柔らかい表情を浮かべての返答だったから、かえって胸に刺さった。僕たちが置かれている状況の深刻さを冗談として扱うのは、金輪際やめよう。そう心に決めた。  他愛もない会話を交わしながら歩きつづけるうちに、橋に差しかかった。人も車も通っていないのは昨日と変わらない。  中ほどまで来たところで、どちらからともなく足を止め、欄干越しに川を眺める。昨日と同じく、澄んだ水の中に生き物の姿は見つけられない。  眺めれば眺めるほど寂しさが募り、気分が重く淀んでいく。百害あって一利なし、とはこのことだろう。現在過去未来、僕たちを絶望に追いやる情報なり現実なりは、至るところに落ちている。それらに対してこちらからわざわざ歩み寄っていては、心がいくつあっても足りない。  暗い感情を胸の奥に押しやり、「そろそろ行こう」と声をかけようと振り向くと、隣にいたはずの千帆が消えている。  狼と狽、二頭の犬科の化け物が僕の中で駆け回る。欄干に添えた両手の震えかたが激しくて、自分のものではないみたいだ。欄干を強く握りしめることで振動を殺そうと試みたけど、上手くいかない。ふと気がつくと、両脚にも震えが伝播している。無理矢理動かせばなんとか歩けるものの、たった百メートルを歩くだけでも何分もかかりそうな、そんな震えかただ。  落ち着け。とにかく落ち着くんだ、高柳秀真。震えを収める努力をいったん断念し、自分に言い聞かせる。  ずっと川面を眺めていたけど、波紋は見なかったし、水音は聞かなかった。つまり、川に落ちたわけではない。僕たち以外の人間のように消えたか、そうでなければ、単に僕が気づかないうちに僕の視界の外に移動したか。考えられる可能性は二つに一つだ。川を眺めはじめてからそんなに時間は経っていないから、後者だとすれば、まだ目の届く範囲内にいるはず。さあ、探せ。今すぐに千帆を探すんだ、高柳秀真。  瞬間的に四肢に力をこめ、半ば無理矢理震えを殺す。体の向きを百八十度転換させる。  呆気なく千帆の姿を発見した。車道の真ん中を歩いている。雨上がりに、長靴を履いて水たまりの中を歩く小学生のような、弾んだ足取りで。  本来なら安堵しなければいけない場面なのに、呆然としてしまった。 「千帆……?」  呼びかけたのではなくて、勝手に声がこぼれていた。千帆が振り向き、おどけたように軽く挙手をした。すぐさま進行方向に顔を戻すと、いきなり大股で駆け出した。十歩ほど走ったところで、走り幅跳び選手のように跳躍する。  長い、長い、物理法則を超越したような滞空。  何十センチか先の路面に両足から着地する。姿勢は美しく見えたけど、上体が大きくふらつき、尻餅をついてしまう。  僕はかける言葉を見つけられない。  千帆は再び振り向いた。ジャンプ、どうだった? 子どもっぽい笑みから無言のメッセージが発信され、僕のもとまで届いた。  気がつけば、四肢の震えは収まっている。 「ちょっと、千帆。なにをやってるの?」 「特に意味はないよ。体を動かしたかったから、運動してただけ」  声からも表情からも、嘘の気配は感じられない。姿が一時的に視界から消えただけなのに、僕が慌てすぎたのだと気がつく。それを境にして、脈拍は駆け足で正常に向かった。 「ていうか千帆、大丈夫なの? 怪我してない?」  アスファルトにお尻をつけたままじっとしているので、そう声をかけたのだけど、 「するわけないでしょ。走り幅跳びをしただけなのに」 「座ったままでいないで、戻ってくれば」 「えー、なんで?」 「だって、危ないから」  思わず口にした言葉に、千帆は笑った。 「危なくなんかないよー。車も人も通る心配がないのに。おかしなことを言うんだね、シューマって」 「でも、なんとなく落ち着かなくない? 通ってはいなくても、本来なら通る道だから」 「そうかな?」 「そうだよ。とにかく、歩道まで戻ってきてよ」  やや間があって、千帆は路面に両手をついた。立ち上がるのだな、と思ったら、 「よいしょっと」  その場に大の字に寝ころんだ。「んーっ」と声を上げながら目いっぱい四肢を伸ばす。あくびをして、リラックスした表情で上方を見据える。視線の先には、文字どおり雲一つない蒼穹が伸びやかに広がっている。 「ちょっと、千帆。なんでそんな……」 「シューマもこっちに来て、寝ころぼうよ。気持ちいいよー」  僕のほうは見向きもせずに、軽やかに言葉を返してくる。 「そうかもしれないけど、僕はいいよ。ていうか、いい加減戻ってきて。本当に落ち着かないから」 「じゃあ、シューマが横に寝てくれたらおしまいにしようかな」  静かに告げて目を瞑る。何度も呼びかけたけど、返事がない。  仕方ない。  心の中で呟き、千帆に歩み寄る。「仕方ない」という言葉を選んだけど、マイナスの感情はまったくない。昨朝の光景が脳裏にちらつく。鼓動がだんだん速くなっていく。  左腕の間際で足を止め、寝姿を見下ろす。  瞼の幕は下ろされ、唇は逆に薄く開いている。水色のキャミソールの下で、裸の胸が規則的に上下している。寝ているのだとすれば、「安らかな寝顔」と誰もが形容するに違いない表情。四肢は自然体に投げ出されている。リラックス状態にあるのは一目瞭然だ。  無防備なその姿を見て、なにがしたくて千帆に歩み寄ったのかを僕は理解する。  千帆はおそらく、僕が隣に寝ころぶのを恥ずかしがっていると考えているはずだ。猶予はどのくらいあるだろう? 訝しく思って目を開かれ、見つめられたが最後、僕はなにもできなくなる。胸に秘めた計画が、決意が、ついえてしまう。もたもたしている暇はない。  千帆の隣に仰向けに横になるのではなく、屋根を作るように、体を密着させない形で彼女に覆い被さる。  異変を察知したらしく、千帆の双眸が見開かれた。  僕の姿を認めた瞬間、その顔は驚き一色に塗りつぶされた。ワンテンポ遅れて、恐怖でも羞恥でも不安でもなく、戸惑いの色が顔に滲む。その表情は、愛らしくて、なおかつ嗜虐心をそそる。もはや躊躇いは一滴もない。  目を瞑り、唇を唇に宛がう。  感触は柔らかく、それでいて、押し返してくるような弾力を感じる。甘い、と思ったけど、正体は唇の味ではなくて、千帆の体から発せられる匂いだった。昨日はシャワーを浴びてすらいないのに、こんなにも香しいだなんて。  膨らんだ胸と平べったい胸とが接している。接面は狭いはずなのに、しっかりと温かい。  頭が熱く、脳髄は半ば溶けているかのようだ。それでいて、情報を認識する機能は正常に作動していて、初めてのキスの味わいを深く噛みしめている。  二つの唇が重なっていた時間は、五秒にも満たなかったと思う。  瞼を開くと、千帆は頬を薄く紅潮させて驚きを露わにしている。  抱きしめたい、という欲求が疼いたけど、再び顔を近づけるのは大いなる勇気を要した。少し迷って、顔を遠ざけて上体を真っ直ぐに立てる。その流れのままに起立し、一瞬次の行動を考えて、右手を差し出す。  千帆は僕の掌をじっと見つめる。上目づかいに僕の顔を一瞥して、それから手を握った。引っ張り上げる力を借りて立ち上がる。お尻を軽く払い、目と目を合わせる。 「びっくりした」  はにかんだような表情での一言。なにか言わなければいけない気がして、「ごめん」と言いそうになり、咄嗟に口を噤む。その言葉は口にしては駄目だ。絶対に駄目だ。なぜって、千帆は咎めるような目はしていない。  千帆は右手の人差し指で自らの下唇をなぞる。希少な昆虫でも眺めるように、唇に這わせたばかりの指先を凝視し、軽く舐めた。唇よりも淡い桃色の舌を見た瞬間、僕は小さく身震いをしてしまった。唾液がいくらか付着したままのはずの指を、臆することなく僕の指に絡め、再び僕の目を見つめる。 「それじゃあ、帰ろっか」  裏表のない柔和な表情で、何事もなかったかのように千帆は言う。そのあまりにもナチュラルな振る舞いに、少し気圧されながらも首を縦に振る。キスをしたのは僕のほうなのに、千帆にいきなり押し倒されて無理矢理唇を奪われたような、そんな錯覚に束の間囚われた。  僕の首肯の浅さに合わせるように小さく頷き、千帆は歩き出した。そのときには、頬から赤味は消えていた。  キスのあとの千帆のリアクションは、見方によっては少しそっけないようにも思える。だけど、悪い気分ではなかった。それを証明するように、今僕の心臓は、唇を重ねようと決意した直後よりも、唇を重ねていた最中よりも、速いテンポで血液を供給している。  歩きながら、千帆は時折、絡みつけた指を意味深に蠢かせる。唾液をなすりつけて、すりこんで、キスによって得た僕の唾液を還元しているかのようだ。嫌悪感はない。むしろ奇妙な心地よさを感じる。舌と舌を絡ませ合うキスを模倣しているようだと、経験したこともないくせに思う。  リアルタイムで官能的な疑似体験をしているにもかかわらず、僕たちは内容のない、他愛もないことばかりを話した。  だけど、キスをした事実は、過去は、思い出は、僕の胸の奥にしっかりと定着している。きっと、千帆にとってもそうだろう。
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