終末の二人

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 次に来たときに入りたい気分だったら、入ってみる。そう約束したことは覚えていたけど、僕たちは校舎へは向かわなかった。僕が入りたい気分ではなかったからだ。出入口から中を覗いてみて「入りたくないな」と思ったのではなくて、正門に差しかかった時点でその気分ではなかった。  怖がりすぎているのでは、という思いはある。なにが僕をここまで怖がらせるのだろう、という疑問も湧いた。  しかしながら、原因は探求しない。千帆と過ごす今を大事にしたい気持ち、真相を知るのを恐れる気持ち、両方あった。  約束を失念しているのか、僕の表情を見て察するものがあったのか、千帆は校舎の件について言及してこない。 「今日もちゃんと繋がってるのかな。あたしの部屋じゃなくて、普通に体育館の中だったらどうしよう」 「知らない人が布団で寝ていたりして」 「えっ、なにそれ。怖すぎるんだけど」  冗談を言い合いつつ二階に達し、僕の手が戸を開く。  千帆の自室の有り様は、昨日とまったく同じだった。人間やそれ以外の生物が侵入し、活動した形跡は認められなかったし、気配が漂っているわけでもない。 「やっぱり誰もいないね」 「でも、一応チェックしといたほうがよくないかな」 「そうだね。二人でいっしょに見て回る? それとも役割分担?」 「手分けしてチェックしよう。そのほうが早く済むから」 「おっけー。あ、でも、やばくなったら助けに来てよ。叫ぶから。地の果てまで届くくらいの大声で」 「多分そんなことはないと思うけど――了解」  千帆が二階を、僕が一階と外を見回ることになった。  動かせる大きさの物は動かすなどして、かなり入念にチェックしたけど、一階に異変は発見できなかった。外も右に同じだ。  離れまで戻ってきたところで、戸が開いて千帆が姿を見せた。 「特に変わったところはなかったよ。シューマのほうはどう?」 「僕も同じ。異常なしだった」 「それはよかった。じゃあ、外に出たついでに裏庭を案内するね。ついてきて」  千帆の後ろについて離れの裏手に回ると、植物が整然と生い茂っていた。家庭菜園だ。広さはだいたい、離れの土間の床面積と同じくらいだろうか。昨日見たらっきょう畑のように、地面は白っぽい砂地だ。植わっている作物は、全部で十種類ほど。僕に名前が分かるのは、レタス、アスパラガス、トマト、ナスくらい。初夏という季節柄もあって、どの葉も緑色が瑞々しい。 「すごいね。これ、全部家の人たちだけで食べるの?」 「そうだよ。多少は足しになるんじゃない?」 「多少どころか、かなり助かる。加熱しないと食べられないものもあるけど、それを差し引いても充分だよ」 「野菜だけでも確保できてひと安心、ってところかな。食料は駄目になっちゃったし」 「……どういうこと?」  千帆の顔が目に見えて陰った。暗さを退けるのを心がけるのが信条の彼女が、この表情。嫌な予感がする。 「ここに帰ってくるまでのあいだに、コンビニとかスーパーとかの前を通ったよね」 「うん、何軒か。それがどうかしたの?」 「道からでも、ガラス越しに商品の陳列棚が見えるでしょ。だから店内の状況が分かったんだけど――」 「分かったんだけど?」 「どの店にも食べ物が置いてなかった」 「え……?」 「不自然に商品が置かれていない棚があって、なんだろうと思ってよく見たら、食料が置かれている棚なの。その棚だけじゃなくて、店にある全ての棚で同じ状況だった。というか、どの店の棚でも」 「それって……」 「全ての店に最初から食料が一つも置いていない、なんてことは有り得ないよね。だから多分、っていうか百パーセント、消えたんだと思う。人間とか生き物とかが消えたタイミングで、食べ物もいっしょに」 「……マジかよ」  思わず声を漏らしてしまったものの、千帆の顔を見れば真偽は明らかだ。人間や動物以外にも、乗り物が消えているのは知っていたから、食料品が消えたとしてもおかしくはないと、比較的速やかに納得できた。……納得なんてしたくなかったのに。  やむを得ない一手として、食料や飲料を店から無断で拝借する、という選択は頭の片隅で考えていた。どちらかというと、罪悪感との戦いのことを心配していたのだけど――まさか、選択肢自体がないものになるなんて。 「昨日、シューマがあたしの部屋に来てすぐに、ご近所さんの家を回ったでしょ? そのあとで、母屋に入ってお父さんとお母さんを探したときに、あちこち見て回ったんだけど、食べ物がどこにも見当たらなかったんだよね。冷蔵庫も覗いてみたんだけど、空っぽで」 「そうだったんだ」 「うん。あのときは混乱していたから、もしかしたら見間違えたのかもしれないと思っていたんだけど、紛れもない事実だったんだって、今日やっと分かった。消えていない食べ物と飲み物は、あたしの部屋とシューマの家の中にあったものだけ、ということになるのかな。なんでその二か所だけなのって思うけど、紛れもない現実なんだから受け入れるしかないよね」 「……そっか。この状況が続くとしたら、食料の確保が最大の課題になりそうだね」 「……そうだね」  双方ともに黙りこんでしまう。無理に明るく振舞うのではなく、暗くならないように心がける。僕としては実践したいと思っているし、提唱者である千帆ももちろん同じだろう。だけど、明らかになったこの事実は、さすがに重すぎる。  僕たちが憎むべき相手がいるとすれば、それはきっと自分自身ではなくて、世界から人間と動物と乗り物と食料を消した「誰か」だ。  しかし、現時点では、「誰か」の正体はおぼろげにも見えていない。答えがあまりにも遠すぎて、答えを求める努力さえ満足にできていないのが現状だ。  仮に正体に突き止められたとして、そんな絶大な力を行使するほどの存在を、広い意味で屈服させる力が僕たちにあるとは思えない。 「とりあえず、部屋に戻ってだらだらしない? 寝ころがって、マンガでも読みながら。なんていうか、疲れちゃったから」  苦笑と微笑の中間のような笑みを浮かべての千帆の言葉が、重苦しい沈黙を破った。  僕は無言で頷いて同意を示す。  どうせ嫌でも現実と戦わなければならないのだ。今くらい、逃げたっていいじゃないか。  心の中でうそぶき、強いて笑顔を作る。  上手く笑えた自信は、ない。  いっときよりも片づいたものの、まだまだ散らかっている千帆の自室で、僕たちは黙々とマンガを読んでいる。僕は体育館の冷たい戸にもたれて。千帆は出入口近くの壁際に畳んで置いてある布団に寄りかかって。  千帆の「マンガを読もう」という提案は、あくまでも選択肢の一つに過ぎない。気楽な気持ちで過ごすのであれば、昼寝をするのでも、無駄話に耽るのでも、方法はなんだってかまわなかった。ただ、僕たちはつい二時間ほど前に起床したばかりだし、マンガという共通の趣味を持っている。だから、部屋に戻って少しばかり他愛もない話をしたあとは、互いが読みたいと思った一冊を勝手に棚から抜き出して読む、という時間の使いかたになった。  最初のころは、今自分が読んでいる作品のどこが面白いかを伝えるなどして、散発的ながらも言葉のキャッチボールが行われた。しかし、半時間も経たないうちに無言になった。  重苦しいわけではないけど、違和感にも似た、かすかな後ろめたさを伴う沈黙だ。食料のこと、自分たち以外の生き残りのこと、自分たちの将来のこと。考えなければならないことはたくさんある。それについて意見を出し合うべきなのに、呑気にマンガなんか読んでいてもいいのだろうか? 分析するに、そういうことらしい。  だけど、僕のほうから言い出すのは憚られた。限られた情報をもとにシミュレーションした限り、僕たちを待ち受ける未来は明るくないからだ。その明るくない未来に向き合うことを、僕の弱い心は拒絶していた。絶望を味わわされるくらいなら、フィクションの世界に浸っているほうがいい、というわけだ。  この状況、千帆はどう思っているのだろう?  千帆はリラックスした表情をしていて、肩肘を張らずにマンガの世界に没入しているようだ。葛藤を巡らせたり、暗い感情に苛まれたりしているようには、とても見えない。ときどき眉をひそめたり、驚きを露わにしたりと、「おや」と思う瞬間はあったけど、すぐにデフォルトの顔つきに戻った。現実の難題に懊悩しているのではなく、作品が提供する情報に反応しているだけらしい。  千帆が現在読んでいる作品は、僕も知っている。週刊少年マンガ雑誌に連載中の恋愛もので、単行本は最新巻のようだ。  その作品を読みたい気分だったから読んでいるだけで、選択に深い意味などないのだろう。ただ僕は、橋の上でキスを交わした過去を思い出してしまい、少し複雑な気分だった。  千帆はなぜ、キスの件に言及しようとしないのだろう。  恥ずかしがっている? 経験豊富だから、特別なことだとは思っていない? 僕のほうから触れたら話すつもりでいる?  そのどれでもあって、どれでもない気がする。あまりにも分からなくて、懸案事項について話し合うのを避けていることと相俟って、なんだかとてもモヤモヤする。 「どうしたの?」  声に我に返ると、千帆が不思議そうな顔をして僕を見ていた。  思い切って言ってしまおうか、とも思ったのだけど、 「ううん、なんでもないよ」  頭を振って誤魔化し笑いを浮かべ、国民的人気を誇るバトルマンガに目を落とした。  単なる違和感でしかなかったものが、徐々に悪しき性質を帯びていくような、そんな実感を僕は覚えていた。  尿意を催して初めて、安藤家ではまだトイレの準備が整っていないことに気がついた。 「シャベル、っていうかスコップ? そんなもの、うちにあったかなぁ。ちょっと探してみる」 「いや、多分間に合わない。裏庭に掘ってくるから」 「えっ、まさか立ちション……」 「ちゃんと手で掘るから!」  砂地は柔らかくて掘りやすいので、素手でもなんとか間に合った。出すものを出しながら眺めた裏庭の眺めは、人生最高と言ってもいいほどのどかで、排水が打ち止めになるまでのあいだは、世界が終わってしまった事実に一秒たりとも向き合わずに済んだほどだ。  肘まで砂まみれになりながら、二つ目の穴を掘り終えたところで、千帆が裏庭までやって来た。真っ赤なボウルを手にしている。 「もしかして、野菜を収穫しに来たの?」 「大正解! もうすぐお昼だし、準備しておこうと思って」 「ああ、そう言えばそうだね」 「パンやお菓子もいいけど、野菜も食べておかないとね。栄養バランスのいい食事をしたほうが、絶対に体力つくし」  千帆はさっそく作業にとりかかった。葉野菜を摘む千帆の手つきは、不器用に見えて素早く、なおかつそつがない。見学に徹するのは忍びないので、僕も手伝ったけど、役に立っているかはかなり怪しい。 「なんか、原始時代に戻ったみたいだね」  作業を行う傍ら、目だけを僕に向けて千帆は言う。 「素朴で単純な仕事を協力しながらこなすっていうのが、なんかそれっぽいじゃない? まあ、力仕事はシューマに全部任せたんだけどね。牧歌的、っていう言いかたでいいのかな。こういうの、あたし、なんか好きだな」  でも、これが死ぬまで続くとしたら? 携帯電話が手元にあることに慣れきった現代人が、こんな生活に耐えられるのか?  滾々と湧出する感情をぐっと抑えこみ、首を縦に振った。千帆は無言で頷き返した。追加の発言があるかと思ったが、もうなにも言わない。僕たちはボウルがいっぱいになるまで黙々と作業に励んだ。  菓子とパンと葉野菜の昼食が済み、再びマンガを読む。会話もなく、ただページをめくり、描かれている物語を追うだけの時間が流れていく。  このままではいけない、という思いはだんだん強くなっていく。  時には現実逃避をしても構わないけど、逃げつづけるのはいただけない。現実逃避を続けたとしても、いずれ向き合わなければならない瞬間が訪れるのだから。  ただ、とても真剣に、喜怒哀楽を出し惜しみせずに、フィクションの世界を満喫する千帆を見ていると、もう少しこのままでもいいのかな、とも思う。  今はまだ、その日は来ていない。だから、もう少しこのままで。  奇しくも同時に読み終わり、会話を交わす時間が生まれた。話題は笑ってしまうくらいにくだらないことで、激変してしまった世界については一言も触れなかった。  それからまた、僕たちは新しい一冊を棚から抜きとり、読みはじめる。  今度の本を読む千帆は、真剣さの度合いが先ほどまでよりも高い。心なしか頬が少し赤らんでいるように見えるのは、テンションが高まっているからか。お気に入りの作品なのかもしれない。  この様子なら、もうしばらく、不都合な世界から顔を背けていられそうだ。  そう思ったとたん、眠気が襲ってきた。千帆と協力して収穫した野菜を食べるのが嬉しくて、少し食べ過ぎてしまったかもしれない。僕たちの家にある以外の食料は消えた。本来なら、少しでも食事量を制限しないといけないのに。  でも、食べてしまったものは仕方ない。眠たいのだから眠りたい。  僕は誘惑に身を委ねた。  砂浜を一人歩く僕は、クリーム色のコートで上半身を厳重に覆っている。幼いころに何度か家族と遊びに行ったことがある砂浜だ。僕以外には誰もいない。両親も、妹の真由瑠も、現在地には不在だ。ところどころに落ちている流木を踏みつけ、空き瓶を跨ぎながら、海岸線に沿って、急ぐでももったいぶるでもない速度で黙々と歩く。  突然、海から地鳴りのような音が聞こえた。  何事かと顔を向けると、沖のほうの海面が不自然に隆起している。怪獣が海中から今まさに顔を覗かせようとしているかのようだ。僕は圧倒されるというよりも呆気にとられて、足を止めてそれを凝視する。  盛り上がった海面がにわかに移動を開始した。進行方向は、僕が佇む砂浜。肉眼で追った限りでは、人間が走るくらいの速度に見える。進むに従って幅を広げながら、徐々に加速しながら、着実に迫りくる。  津波だ、と遅まきながら理解する。  僕は泳げない。巻きこまれたくない。脅威に背を向け、走り出した。  海岸線とは垂直に砂浜を走ると、ほどなく階段の上り口に達した。石造りの短い階段だ。  最上段まで一気に駆け上がると、道の向こうに広がる世界が一望できた。寂れたガソリンスタンド、松の木に囲まれた神社、掘立小屋のような駄菓子屋。高い建物は一棟も見当たらない。現在僕が両足を置いている道の上にも、ビーチを始点にして真っ直ぐに走っている道の上にも、人や自動車は皆無だ。  ふと我に返り、後方を振り向くと、群青色の巨大な壁が目と鼻の先まで迫っている。  怪物の体当たりを食らい、なす術もなく水に呑みこまれた。  衝撃は感じなかった。息苦しくない。冷たさも感じない。同じく、匂いも。  目を開くと、水底に沈んだ街の中に僕はいた。白っぽい石で造られた建物が多く、日本にある町並みではないようだ。地面は一面石畳に覆われていて、僕は爪先立ちで立っている。水面から光が射しているらしく、とても明るい。  水の中から、出たい。  どうするべきか、少し迷って、地面を軽く蹴ってみた。僕の体は緩やかな速度で上昇をはじめた。溺れるのではないか、という恐怖はまったくない。上下前後左右、どの方向からも水流は感じない。ただ上っていく。いつからか、明るさは眩しさに変わった。水面までの距離はそう遠くないようだ。  眩しさは見る見る加速する。手で庇を作って進路に目を凝らした。とたんに強烈な光が瞳を射て、反射的に瞼を閉じた。  その反応に満足したとでもいうように、眩しさがふっと消えた。
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