終末の二人

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 瞼を開く前から予感はあった。  再び直視した世界は、海面の上――などではもちろんなくて、千帆の自室。  視界ははっきりとしている。視線の先には、意識を失う前と同じ散らかりかたをした床があって、窓から射しこむ日射しによって室内は明るい。眠っていた時間は短かったらしい。  津波の夢を見たのは人生で初めてだ。徳島市は海に面しているけど、僕の自宅からは遠い場所にある。それに僕は、外に遊びに行くのが好きな子どもではなかった。幼少時から現在に至るまでのあいだ、海に足を運んだことは数えるほどしかない。ましてや、荒れ狂う海になんて皆無だ。  根本の原因は、今春に東北で起きた震災だと考えて間違いない。あの震災では、巨大な津波が東北各地の海岸に押し寄せ、多くの人命を奪い、建物を破壊した。僕はニュースでその模様を何度も見た。あらゆる意味で縁遠い土地で起こった悲劇ではあったけど、被害の規模が規模だけに、受けた印象は強烈だった。  引き金となったのは、千帆とともに足を運んだ海岸だろう。ガラクタが数多く散らばっていたところなんて、あの砂浜そのものだ。千帆と見た海は穏やかだったけど、強烈な印象を受けた映像を甦らせるには、「海」という共通点だけで充分だった。そして、記憶は大幅に編集された上で再放送された。  振り返れば振り返るほど、夢だったんだな、という思いが強まっていく。  襲われている最中は違和感は覚えなかったけど、津波が発生し迫りくる様子は、現実の津波とは少なからず相違があった。違和感を覚えるという意味では、津波に呑みこまれるシーンと、呑みこまれてから海面に浮上するまでのシーンも同じだ。  巨大な水の塊にぶつかられたのに、痛みも圧力も感じなかったのは、なぜ? 津波に呑みこまれた経験がないからだ。  心の準備もなく水の中に囚われたなら、パニックを起こして溺れても不思議ではないのに、平常心を保って海面へと浮上できたのはなぜ? 溺れた経験がないからだ。  夢は、夢を見た張本人が体験した事象であれば、克明に再現できる。しかし、体験していてないことを表現するとなると、とたんにいい加減になる。津波に呑まれたと思ったら、いつの間にか水中にいたという場面転換の強引さなど、後者の典型だろう。溺れて水中でもがく体験をしたことがないせいで、海中から海面へ向かう過程などは、陳腐で稚拙なファンタジーに堕してしまっていた。  海面から出る直前で夢が終わってしまったのは、僕の意識が覚醒したからではなく、懸命に物語を紡いでいた夢が、どうしてもそれ以上は展開を繋げられなくなって、匙を投げた結果だったのだろう。  夢を見る本人が体験していない事象を、夢はリアルには表現できない。  当たり前と言ってしまえば当たり前のロジックかもしれない。しかし僕自身は、深遠なる謎を見事に解き明かしたような感慨を覚えた。そして、そのような場合の御多分に漏れず、清々しい気分だった。胸の片隅に保存しておいても、今後役に立つとも思えない、実用性のない知識ではあるのだけど。 「シューマ?」  声に我に返り、振り向く。眠りに落ちる前と同じ場所で、同じ姿勢で、同じマンガを読んでいる千帆が、目を丸くしてこちらを見ていた。 「何気なくシューマのほうを見たら、目が開いているのに微動だにしていなかったから、びっくりして。寝てたの?」 「そうだよ。夢を見てた」 「病気の発作かなにかかと思って慌てたけど、そういうことならよかった。マンガを読んでいる最中に寝ちゃうって、そんなに眠かったんだ?」 「うん。昨日はよく眠れたんだけどね。あんなことがあった割には」 「シューマが見た夢って、どんな内容なの? 覚えてるなら教えてよ」  手にしていた一冊を脇に置いて、僕のほうに少し膝を進めて要求する。思いがけず興味津々だ。少し驚いたけど、拒む理由はない。 「面白い夢ではないんだけどね」  真似るようにマンガを床に伏せて、僕は語りはじめた。ストーリーは短くて、なおかつ単純で、しかもつい先ほど見たばかり。語るにあたっての苦労はないに等しかった。 「思わず目を瞑ったら、とたんに眩しくなくなって、瞼を開けたら現実世界に戻ってきていた、みたいな感じ」  速やかにひと通り話し終わった。続いて夢の法則――夢を見る本人が体験していない事象を、夢はリアルには表現できない――について言及しようとして、異変に気がつく。  困ったような、少し苦しげな、泣き出す二歩か三歩ほど手前のような。一言で形容するのは難しい、それでいて、負の感情を覚えていると一目で分かる表情を、千帆が見せていたのだ。 「千帆、どうしたの。気分でも悪いの?」  首が横に振られる。 「えっと、じゃあ、僕の話になにか問題が?」  一拍を置いて、今度は縦に振られた。  心当たりはまったくなかったので、当惑を禁じ得ない。正答を求めて千帆の顔を凝視する。言いにくそうにしていたけど、やがて意を決したように口を開いた。 「津波」  思い出すには、単語一つで充分だった。昨日、千帆は話していた。今年の春に東北で起きたような大地震が発生すれば、押し寄せた巨大な津波によって島は水没する、と。 「ごめんなさい。大きな地震とか津波なんて、いつ起きるかも、本当に起きるかも分からないし、普段は全然意識しないんだけど。でも今は、あたしが、というか、あたしたちが置かれている状況と重なって。そうしたらなんか、どうしようもなく憂鬱な気分になって」 「こちらこそ、ごめん」  強い声で千帆の言葉を遮る。しゃべればしゃべるほど、千帆の心がダメージを受けるのは疑いようがなかったから、そうした。 「デリカシーのない発言だったと思う。夢の話は、もうしない。だから、忘れよう」 「……うん」  千帆はほほ笑んでみせたけど、弱々しさとぎこちなさが色濃く表れている。それならいっそ、苦しむ顔のままいてくれたほうがよかった、とさえ思った。  会話は途絶えた。黙ってじっとしていても仕方ないので、再びマンガを読みはじめる。案の定、内容はまったく頭に入ってこない。  千帆は床に置いたマンガを手にとることすらなく、無言で、自らの足指を見下ろしている。  津波の話を不用意にしてしまった一件は、考えていた以上に僕の心にダメージを与えた。  千帆を傷つけてしまったから。それもあるけど、それは次点の理由に過ぎない。  いくら前向きにこの世界で生きつづけたところで、いずれ食料が尽きて、僕たちは破滅に至る。現実に向き合っても時間と労力の無駄づかいだ。そもそも、僕たち以外の人間がいないこんな世界で、だらだらと生きてもなんの意味もない。いっそのこと、死んだほうがましだ。死んでしまった七十億人ではなくて、たった二人の生き残りである僕たちのほうこそ異常なのだ。異常な状態をいたずらに維持するくらいなら、みんなと同じようにさっさと死んで、例外的な存在は一人残らず抹消してしまったほうがいい。一切の生物が途絶えた状態、それこそがこの世界の本来の姿なのだ。神が望んだ真の地球の有り様なのだ。  突如として、そんな暗鬱で退廃的で破滅的な考えが胸に芽生え、定着し、振り払えなくなったのだ。  マンガを読む気にはなれなかったので、膝を抱えてぼーっとしていた。千帆も読んでいなかったから、二人ともなにもせずに座っているだけ。広いとはいえないゴミだらけの部屋の中で、陰鬱な顔を下に向けて、一言もしゃべらずに。  どう考えても異常だ。  そう状況を客観視するだけの余力は残っている。ただ、それを改善するための行動に踏み切るだけの、気力と瞬発力が足りない。  どうでもいいよ、もう。どうせ死ぬんだから、前向きに生きる努力なんて、もうする必要はない。そう思ってしまう。  以前なら、間髪を入れずにではないにせよ、なんらかの違う考えを用意して、それを否定できた。だけど、今はそうするだけの気力がないから、思ったことや感じたことがそのまま結論になる。  僕と比べればずっとポジティブな千帆は、このままではまずい、という危機感を抱いたらしい。 「外に散歩に行かない? 部屋にずっといるの、よくないよ。二人でいっしょに行くんじゃなくて、それぞれ好きな場所へ、好きな時間だけ。昨日痛感したけど、一人の時間を持つことって大事だと思うから」  断る理由は思いつかない。なおかつ、千帆がそうしたいと望んでいるのが伝わってきた。僕は首の動きで了承の意を示した。  手にしている一冊を本棚に戻し、いよいよ出発となったところで、外へ行くのが急に億劫になった。体力的な問題というよりも精神的な問題だということ。例の「どうせ破滅する」という意識が強く作用した結果だということ。この二つは、考えてみるまでもなく呑みこめた。  僕の表情を一目見て、心境の変化を明敏に察知したのだろう、部屋を出ようとしていた千帆の動きが止まる。  その反応を目の当たりにした瞬間、様々な感情がこみ上げた。協調性がない自分を恥ずかしく思う気持ち。千帆と交わしたばかりの約束を反故にする罪悪感。その他諸々の言語化しづらい感情が。  だけど、やはり、虚無感が一番大きいようだ。その場しのぎの気分転換をしたところでなんになるんだ? どうせ破滅するのに。どうせ、どうせ、どうせ――。 「ごめん。やっぱり、散歩をする気にはなれない。悪いけど、僕はここに残っていいかな」 「もしかして、体調悪い? マンガを読んでいる最中に眠っちゃったのは……」 「いや、それは違う」  頭を振って言下に否定する。 「体調は大丈夫なんだけど、気持ちがどうしても乗らなくて。とにかく今は、ずっと部屋でいたい気分なんだ」  津波の話を聞いて憂鬱になったと告白した千帆は、僕に共感してくれるだろうか? 相槌を打ったり合いの手を入れたりは盛んにするタイプだけど、今の千帆は、これという反応は示さずに話に耳を傾けている。 「部屋の中で留守番を任せるのが嫌だって言うなら、帰ってくるまで離れの外に出ているよ。だから――」 「そんなことしなくてもいいよ。こうすればいいんじゃないって提案しただけで、強制とかでは全然ないし。それに」  少し間ができた。千帆の善良な性格を考えれば、言葉の続きを予想するのは簡単だった。 「世界に残っている人間はあたしたち二人だけだし、もうそんなちっちゃなことは気にしていないから。シューマが信頼を置ける人だってことは、もう充分に分かっているわけだし。……じゃあ、行ってくるね」  最後にかすかな笑みを残し、千帆は今度こそ部屋を出ていく。階段を下る足音は心なしか早足気味だ。  ほんの少し、胸が切なくなった。  なぜ、虚無感に襲われたことを千帆に伝えなかったのだろう。  彼女の気配が感じられなくなって、真っ先に思ったことがそれだった。  生き残った仲間と否応にも親密になることを要求される状況だし、千帆は信頼できる人だと認識してもいる。とはいえ、僕たちはまだ出会って二日目。言いづらいことを言えないのも無理はない。  そう正当化してみたものの、どこか虚しい。これも虚無感が存在感を発揮しているがゆえ、なのだろうか?  考えることでさえも馬鹿馬鹿しいし、疲れる。だから、考えるのをやめた。  そして、なにもすることがなくなった。  しんどいというほどでもなかったけど、横になりたかった。ただ、散乱する物やゴミが邪魔で、そうするだけのスペースがない。部屋の中央には、昨日食事をするために拵えた空白地帯があって、そこが室内で最も広い領域となっている。  物を蹴飛ばさないように注意しながら移動する。床の上に横たわり、胎児のように体をコンパクトにして、なんとか目的を達成した。  静寂。  まるで、世界で一人きりになってしまったかのような。  七十億人と二人は、もちろん大きく違う。しかし二人と一人も、それに負けないくらい大きな違いがあるのだと、身をもって知った。  話し相手がいる。しゃべらないのだとしても、隣にいてくれる。振り向けば視界に映る場所に存在してくれる。それがいかにありがたいことか。いかに価値があることか。いかに素晴らしいことか。千帆がどことも知れない場所に行ってしまったことで、初めてそれを知った。 「……千帆」  一人きりでいる時間が長引けば長引くほど、彼女のことが心配になってくる。  二人別々に散歩しようと提案したのは、彼女だ。彼女が一人になろうとしたのは、僕と二人でいるとできないことをしたかったからなのでは?  たとえば、自殺だとか。 「……まさか」  たしかに、僕のためというよりも自分のための散歩、という感じはした。だけど、切羽詰まった感情や思いや考えを内に秘めている、という様子ではなかった。自らの手で自らの命を終わらせようと目論んでいたとは、到底思えない。それとも、極めて巧妙に本心を隠匿している?  ……分からない。どんなにていねいに過去を遡っても、断定を下すのは困難を極める。  僕は千帆のあとを追うべきなのだろうか? 一人で散歩がしたいという願いを無視してまで、命を救うための行動に踏み切るべきなのだろうか?  そこまで考えたところで、千帆を本気で心配している自分に気づき、思案の停止を余儀なくされる。  千帆を心から案じている。虚無感に囚われている中でも。  ようするに、僕にとって千帆は光なのだ。  絶望の中で見つけた光を、みすみす手放すわけにはいかない。  千帆を追いかけるべきだ。一人きりになりたい、という願いを踏みにじってでも。  僕は体を起こそうとした。それに待ったをかけるように、行き先は知らされていないことに気がつく。  追いかけてきてもらうことを期待して、一度二人で足を運んだ海岸まで行った? その解釈はさすがに都合がよすぎる。千帆は一人になりたかったのだから、むしろ僕が知らない場所に向かったと考えたほうが自然だ。  下手に探し回って、入れ違いになって迷惑と心配をかけるくらいなら、じたばたせずに帰りを待つべきだ。そう考えることもできるけど……。  追いかけるべきか否かの葛藤はなかなか決着がつかず、堂々巡りが冗漫にくり返された。それは精神的な疲れを蓄積させるだけの結果をもたらした。  疲労感が水準を超えると同時、僕は思案を自主的に放棄する。  ただ、それでもやはり、なにかについて考えることからは逃れられない。  からっぽの頭の中に忽然と浮かんだのは、出会った日、今まさに僕が横になっている場所で千帆は寝ていた、という事実。  千帆の裸体が脳内に彷彿と甦った。それが引き金となって、これまでに彼女が見せてきた様々な姿が矢継ぎ早に去来した。手を繋いだこと。キスをする寸前までいったこと。寝ぼけて胸を触ったこと。そして、橋の上で交わしたキス。  胸高鳴る映像の数々に、心は次第に昂っていく。あまつさえ、下半身まで疼き出した。  思い返した場面の全てで、当時の僕は、究極的な目標として、千帆と肉体的に結ばれることを少なからず意識していた。時間を置いたことで、自らの過去と沈着冷静に向き合えた現在の僕は、そう認めざるを得ない。  世界で二人きり――いずれ訪れる破滅――虚無感――千帆――セックス。  なにかが僕の中で繋がろうとしている。繋がった瞬間、なにかが始まりそうな、そんな予感がする。鼓動は、千帆のあられもない姿にではなく、その予感に対する期待と不安に速まっている。  もっと積極的に、なにが起ころうとしているのかを掴もうと、思案を推し進めようとした瞬間、  一階から物音が聞こえた。  出入り口の戸が開かれた音だ。  僕の心は恐慌をきたした。右も左も分からない時間が数秒続いて、階段を上ってくる足音に我に返る。いつもと比べると少し急いでいるようだけど、それでも穏やかさが感じられるその足取りは、間違いない。千帆だ。千帆が散歩から帰ってきたのだ。  布団を敷いてあった場所で寝ていると知られたら、気持ち悪がられるかもしれない。マンガを読んでいるふりをしなければ。  急かされるように立ち上がり、元いた場所に戻ろうとして、肝心のマンガは本棚に戻していることに気がつく。方向転換をしようとして、誤ってゴミを踏みつけてしまい、足が滑って体が前のめりになる。僕を受け止めてくれるものはなにもない。そのまま雑多なもので構成された海に倒れこみ、大仰な物音が立った。 「シューマ!」  千帆の声。階段を駆け上がってくる。僕は体を起こす気力もない。  足音が戸口で止まった。僕は千帆のほうを向くことができない。ただ、視線をひしひしと感じる。僕を取るに足らない存在だと認識しているような、そんな気がしてならない。 「大丈夫? どうしてそんなところで……」  その声からは軽蔑ではなく、戸惑いの色が観測できた。ゴミだけではなく、千帆の私物も含まれているのだから、その上で寝たままでいては迷惑になる。その思いがプラスされたことで、なんとか上体を起こせた。  気まずいことこの上ない沈黙が流れる。こちらがなにか言い出すまで、しゃべらないつもりなのかもしれない。千帆の性格を考えると冷たすぎる反応だけど、それだけの不信感を与えてしまった、ということなのだろう。弁明しようと顔を向けると、 「あたしね、シューマが心配だったから戻ってきたの」  そう言葉をかけられて、悟る。戸が開いた音に僕が慌てたそもそもの理由は、千帆が帰宅するのが、予想していたよりも早すぎたからだったのだと。 「散歩に行く予定だったのに、シューマは直前になって不参加を表明したでしょ。そういう気分なんだな、だったら無理にあたしに付き合ってもらう必要はないなって、そのときは思ったんだけど、歩いているうちにだんだん不安になってきて。悶々としているうちに、もしかしたら自殺するつもりなんじゃないかっていう考えが、ふと頭を過ぎって。肉体的にも精神的にも、そこまで弱っている感じではなかったし、大丈夫だとは思ったんだけど、不安な気持ちを消せなくて。あたしにはなんともないように見えたけど、実際は違うのかもしれない。一人になったらすぐにでも死のうって考えているのかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられなくなって、大急ぎで帰ってきたの」  千帆は呼吸こそ平常だけど、前髪が少し乱れ、露わになった額には汗が滲んでいる。僕から視線を注がれたことで、初めてその事実に気がついたとでもいうように、掌で汗を拭い、指先で前髪を整える。  自殺。僕は千帆がそれを実行に移すのではないかと勘繰っていたけど、まさか千帆も同じ考えだったなんて。 「そうしたら、大きな音が聞こえたから、びっくりして。……まさか、あたしの予想、当たりだった?」  心から僕を案じてくれている顔であり、瞳であり、声に、目頭が熱くなる。  雫が瞳を潤ませたのを目撃したらしく、千帆の顔に驚きの表情が浮かんだ。僕は目元に溜まったものを拭い、頭を振る。 「違うんだ。千帆が考えたようなことをしようとしたわけじゃない。僕はただ――」 「ただ?」 「たまらなく憂鬱な気分だったから、少し横になりたくて。だから、そこ、昨日食事をしたスペースに寝そべっていたんだ。でも、その場所って、千帆が布団を敷いて寝ていた場所でもあるよね。だから、千帆に気持ち悪がられるかな、と思って」 「急にあたしが帰ってきたから、慌ててその場所から離れようとした、ということ?」  頷く。千帆は表情を和らげて頭を振る。 「そんなこと、全然気にしないよ。もうこの世界にはあたしたち二人だけなのに、そんなことを気にするわけない。そうでなくても、シューマが相手なら全然嫌じゃないから」  雫が頬を伝った。感触でそれが分かった。泣くつもりなんて毛頭なかったのに。いつだってそうだ。涙は、流す側の意思を無視してこぼれ落ちる。  ぼやけた視界の端に、慌てた様子で駆け寄ってくる千帆の姿が映った。僕の傍らにしゃがみ、顔を覗きこみながら背中を撫でてくれる。直視されるのは恥ずかしく、顔を背けた。だけど、手は払いのけない。払いのける理由がないから、撫でられるのに甘んじる。  簡単なことだったのだ。なにもかも、包み隠さずに話してしまえばいい。状況も、関係も、その行為を全面的に是認してくれているのだから。  泣きながら、なぐさめられながら、僕は決意する。  言おう。言いにくいことも、全てぶちまけよう。  僕だけではなく、お互いにそうするべきだ。  それはきっと、未来について話し合うよりも先に、完了しておかなければならない義務だ。  僕たちは今まで、自分自身について語ることに、あまりにも臆病になりすぎていた。
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