終末の二人

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 僕の精神状態が落ち着くと、千帆は行ってきたばかりの短い散歩の模様について語ってくれた。人気のない町は寂しかったこと。だけどその寂しさは、恐怖に通じるような、叫び出したくなるような類のものではなくて、物静かな寂しさだったということ。僕が自殺をするという疑いを抱いたのは、その環境に影響されたからではないか、という考察。 「奇遇だね。僕も千帆と同じことを考えたよ。千帆はもしかしたら自殺するんじゃないかって。僕といっしょだと制止されてしまうから、僕と離れ離れになったんだって」  本来であれば、決して簡単に口にできる告白ではない。しかし、言いにくいことも言うと決意したあとだったからだろう、淀みなく全文を述べられた。  本来であれば、愕然としたとしてもおかしくない告白だったと思う。だけど千帆は、僕の自殺を疑っていたからこそだろう、逆に口元を緩めた。 「そっか。シューマもだったんだね」 「うん。だから、さっき千帆に言われたときは驚いた」 「似た者同士だね、あたしたち」 「そうだね」 「相性がばっちりだから、生き残る二人に選ばれたのかな。それとも、いっしょにいるうちに似てきたのかな」  僕は小首を傾げる。答えが分かるはずもない。でも、そんなことはどうだっていい。そんな大らかな気分に二人ともなっているのが、雰囲気から伝わってくる。 「じゃあ、そろそろ夕食の準備をする? ちょっと早いかも――って、時計が駄目になっちゃってるから分かんないんだけど」 「そうだね。遅くなるよりはいい」 「シューマも野菜の収穫、いっしょにやろうよ」 「いいけど、千帆みたいに上手にはできないよ。それでも構わない?」 「もちろんだよ。さあ、行こう」  さするのをやめたあとも背中に宛がわれていた右手が、今やっと外れ、千帆は起立する。僕も立ち上がる。目配せをした僕たちは、どちらからともなく手を繋ぎ、部屋から出ていく。  階段は幅が狭くて、肩を並べて上り下りできない。どうせすぐに離すことになると分かっていたけど、それでも構わなかった。 「ところで、シューマの寝る場所はどうしようか?」  夕食が済んでから半時間も経っていなかっただろう。トイレに行っていた千帆が、戻ってくるなりそう言った。たった今思い出したから訊いてみた、というような口振り。手洗い用のペットボトルの水で濡れた手を、ジーンズで拭きながらの発言だ。 「離れの別室に布団が置いてあるのは知っているの。でも、この部屋は見てのとおりスペースが狭いから、二枚並べるのは難しそうなんだよね。だから、布団が置いてある部屋で寝るか、暗くなっちゃう前にここを片づけてスペースを広げるか。その二択だと思うんだけど、どうしようか?」  今日どこで就寝するかについての話は、そういえば、これまでに一度も出なかった。関連する話題はといえば、家庭菜園で野菜を収穫している最中、 『今日はずっとこっちかな。今から徳島のほうに行ってたら、途中で真っ暗になりそうで怖いし』  千帆がそう言ったのみだ。 『道は知っているから、辿り着けることは辿り着けると思うよ。でも、たしかに、暗い中歩くのは避けたいよね』  僕はそう言葉を返した。返答に対する返答はなかった。  この時点で、今日はずっと安藤家で過ごすことが決まったものと僕は認識していた。反対する理由はなかったので、以後は黙々と作業に勤しんだ。しかし、具体的にどの部屋で眠るかを決める必要があることまでは、頭が回らなかった。  千帆は黙って僕の返事を待っている。  昨日までであれば、千帆に嫌われたくないがために、千帆から離れて眠ることを選んでいただろう。そして、寂然とした部屋で一人天井を見上げながら、やっぱり千帆の好意に甘えていればよかった、と悔やんでいたかもしれない。  だけど、僕はすでに決意している。  本音を言おう。 「千帆の部屋で、千帆といっしょがいい」  声が震えなかったのは、我ながら意外な気がした。 「昨日――多分日付は変わっていたと思うけど、千帆は夜中に目が覚めたでしょ。トイレに行きたくなって。それが一番の理由なのは間違いないと思うんだけど、でも、不安も理由の一つなんじゃないかな、っていう気がするんだよね。世界から人が消えたという状況の中で、夜を越えることに対する不安。僕が隣の部屋にいても目が覚めたくらいだから、同じ部屋にいない限り千帆は安心できないんじゃないかな、と思うんだけど」  言いわけをだらだらと並べるあたりは僕らしいな、と内心苦笑を禁じ得ない。だけど、勇気を奮って発言したこと、これについては素直に拍手を送るべきだろう。  己の提案がなにを意味しているのかを理解できないほど、僕は鈍い人間ではない。どう受けとられるだろうという不安、千帆なら蔑ろにはしないと信じる気持ち、どちらもあった。 「そうだね。それがいいと思う」  千帆は少し頬を赤らめて答えた。変な間が一瞬流れて、彼女は取り繕うようにほほ笑む。 「じゃあ、暗くなる前にさっさと片づけちゃおう。悪いけど、手伝ってくれる?」  快く頷き、さっそく作業にとりかかる。  なにかが起ころうとしていることに、もはや疑いの余地はなかった。  なんとか敷き布団二枚ぶんのスペースを拵え、部屋の隅に畳んでいた一枚と、別室から運んできた一枚を並べる。確保した領域は必要最小限、厳密にいえば少し狭いくらいなので、二枚の敷き布団は押し合うように密着している。 「ぎゅうぎゅうだね。なんか、新婚夫婦の寝床みたい」  作業を完了させるなり、千帆が僕を見ながら言った。どう答えていいか分からなかった。そのころには、千帆の顔をはっきりと認識するのが難しいくらいに、夜が勢力を強めていた。  僕たちは自分の布団に体を横たえ、話をした。今日読んだマンガの感想。二日間で体験した出来事についての所感。毒にも薬にもならない、気軽に話せる話題ばかりが選ばれた。  僕たちの物理的な距離は近かったけど、緊張はあまり感じなかった。それは千帆も同じらしい。合計一時間にも満たない例外の期間を除いて、出会ってからの二日間、僕たちはずっと二人きりで過ごしてきた。僕は千帆という存在に、千帆は僕という存在に、いい意味で慣れたのだろう。  ただ、僕たちを取り巻く闇が、時間が経つにつれて重量を増し、自重によって緩慢に雪崩かかってくるような、そんな圧迫感は覚えていた。義務から目を背けるな、一刻も早く行動に踏み切れ。そう穏やかに脅迫されているみたいだった。  会話は次第に途切れがちになっていく。さらには、中断されてから再開するまでの間も長くなっていく。  しゃべって、黙って、またしゃべって、また黙って――。 「ねえ、千帆」  僕のほうから沈黙を打破した。今まで、その役目を担ってきたのはおおむね千帆だったから、大げさに言えば異例の対応をとったことになる。  千帆は呼びかけると、いつもならなにかしらの言葉を返すのだけど、今回は黙っている。僕は顔を前に向けているから、彼女が今どんな表情をしていて、どんな姿勢をとっているのかは把握できない。しかし、視線をひしひしと感じる。  漂っている雰囲気が明らかに今までとは違う。千帆が黙っているせいか。千帆が黙っているのに、僕がなにもしゃべらないせいか。それとも、いつもとはなにかが違うと本能的に察知しているからこそ、僕たちはしゃべり出せずにいるのか。 「僕たち、今まで自分自身のこと、あまり話してこなかったよね。状況が状況だし、どうしても目の前のことでせいいっぱいになるから、ある意味仕方ないんだろうけど」  言葉を切って千帆へと顔を向ける。闇のせいで顔ははっきりとは見えないけど、顔と視線の方向はこちらだと分かる。 「今夜から、ちょっとずつ自分のことを話していかない? 今まで秘密にしていたこととか、秘密にしておくつもりはなかったけどまだ話していないこととか、とにかくいろいろなことを。今日は一つ、明日も一つ、明後日は一つ増やして二つ、みたいな形で」 「自分のことを話す……」 「そう。故意か無意識かを問わず、まだ打ち明けていなかったことを」  また沈黙が降りた。  僕のほうから言わなければ、と思う。会話をリードしたい、あるいはリードしなければ、ではなくて、言い出した者の当然の義務として僕が先に答えないと、という意識があった。  隠していたことと一口に言っても、範囲は広い。意識的にか結果的にかを問わず、積極的に打ち明けていなかった事実であるがゆえに、言い出しづらくもある。  それでも、言わないと。  僕たちはもはや、決定的な出来事が起きる寸前まで来ているのだから。 「じゃあ、思い切って言っちゃおうかな」  口火を切ったのは千帆だった。その口調には、若干違和感を覚える明るさがあった。 「恥ずかしいから秘密にしておこうと思ったんだけど、世界がこんなことになっちゃったから、冷静に考えると隠しとおす意味がないっていうか。打ち明けるのは恥ずかしいけど、ありのままの自分をさらけ出すことでシューマと仲よくなれるなら、それもいいかなって。だから、言っちゃうね」  言葉が途切れる。二・三秒の間を置いて続きが発信された。 「あのね、あたし、実は不登校でひきこもりなの」 「は?」という声が思わず出た。  不登校で、ひきこもり。  明るくて、気さくで、天真爛漫な千帆が。  真意を問う眼差しを千帆の顔に注ぐ。暗中でもメッセージは伝わったらしく、頷くという動作が返ってきた。 「この離れ、もともとは倉庫に使っていたのを、新しい倉庫を建てたからあたしの部屋にしてもらったっていう話、したよね。でも、それは嘘。実際はね、学校に行かずに母屋の自室にひきこもっていたら、学校へ行け、学校へ行けって親がうるさいから、離れに逃げこんで立てこもったの。で、無理矢理自分のものにしちゃったというわけ」 「無理矢理、自分のものに……」 「うん、そう。この建物の出入り口の戸、内側から鍵がかけられるから、立てこもれるんだよね。トイレもあるから、籠城するにはぴったり。使わなくなった布団が置いてあったから、寝るときはそれを使えばよかったし。立てこもる場所としては快適な部類に入るんじゃないかな」 「じゃあ、お菓子とかパンとかをたくさん蓄えていたのは――」 「親が漁に出かけている隙に母屋に侵入して、ちょっとずつ溜めこんでいたの。親は毎日夫婦揃って漁に出て、家に不在の時間は長い。冷蔵庫から作り置きのおかずを失敬するとか、栄養バランスが偏らなくする工夫もしようと思えばできるけど、家族が生活している空間には極力近寄りたくなくて。だから、ある程度保存がきくものをくすねてきて、保管しているの」 「じゃあ、徳島駅前へよく遊びに行くというのは?」 「それも嘘だよ。親が暮らしている場所にすら近づきたくないのに、バスに乗ってわざわざ徳島市まで行くなんて、有り得ないよ」  思わず沈黙してしまう。ただ、訊くことはこれしかない、と思っていたので、すぐに無声状態を打ち破れた。 「不登校になってひきこもりでいる理由、あるんでしょ。よければ教えてくれないかな」 「学校でいじめられたから」  即答だった。 「あたし、本当は暗い性格で、人と接するのが苦手で、面と向かって上手くしゃべれないんだ。残酷で自虐的な言いかたをするなら、いじめられても仕方ない人間っていうか」 「でも、千帆は今まで僕と――」 「信じられないでしょ? あたし、心を許した人とは仲よくなれるんだけど、仲よくなるまでにすごく時間がかかるの。中学まではかろうじてやっていけていたんだけど、高校では失敗しちゃって。今日、あたしとシューマは似た者同士で、相性がいいっていう話をしたけど、本当にそうだなって思う。こんな短時間でここまで仲よくなれた人は、シューマが初めてだよ。今まで異性の友だちなんて一人もいなかったのに。状況が状況だからというのもあるんだろうけど、それを差し引いても奇跡だと思う。――ありがとう」  思わず小さく身震いをしてしまった。感謝されたのに、なぜだろう、罪悪感が胸に滲み、徐々に勢力を拡大していく。 「千帆、ごめんね」 「えっ? なんでシューマが謝るの?」 「いや、その……。無理をさせたんじゃないかな、と思って」 「無理をさせた? どういうこと?」 「僕、頼りなかったでしょ。具体的にどこがどうというよりも、なんていうのかな、全体的にそういう雰囲気が漂っているっていうか」 「そう、かな」 「でも、千帆を引っ張っていくって感じではなかったでしょ?」 「それは――正直、そうだね」 「もっとしっかりしなきゃっていう思いは、千帆と出会ったときから持っていたんだ。世界から人が消えた事実を知ったのは僕のほうが先だったんだから、僕が千帆を助けてあげなきゃいけないのに、全然力になれていないなって。僕が頼りなかったせいで、千帆にはすごくプレッシャーがかかったと思うんだよ。自分がこの人を引っ張っていかなきゃっていう、そういうプレッシャー。僕はこれまで、千帆はどちらかっていうとそういうタイプ――ようするに、誰かに引っ張られるよりも自分が引っ張るタイプだと思っていたんだけど、告白を聞いて、逆だったんだなって気がついて。そういうことなら、精神的な負担はすごく大きかったんだろうなって思った瞬間、すごく申しわけない気持ちになって。さっきのごめんは、そういう意味」 「たしかに、どちらかというとそうだと思う。でもね、シューマ。あなたと出会って以来、あなたにネガティブな感情を持ったことは一度もないよ。一度も、なんていうと誇張しているように聞こえるかもしれないけど、本当にそうだから。生き残ったのがあたしだけだったら、あたしは絶望して死んじゃっていたかもしれない。シューマがいてくれてよかった。シューマみたいに優しくて、心配りができる、紳士的な人がパートナーでよかった。ずっとそう思っているよ」  一語一語を噛みしめるような話しかたからは、嘘偽らざる本音を口にしていることが理解できた。同時に、嘘偽りのない本音を言っているのだと分かってほしい、という思いがひしひしと伝わってきた。  嫌われてはいない、という確信は持っていた。しかし、まさか、ここまで僕のことを高く評価してくれていたなんて。  胸が熱い。こみ上げてくるものを抑えつけるのにせいいっぱいで、言葉を返せない。沈黙が続く時間は、紛れもなく、並んで寝そべってから一番幸福だった。 「今度はシューマの番だね、秘密を言うの」  千帆が言う。もちろん分かっているよ、というふうに僕は頷く。  候補はいくつかある。では、その中からどの箱の蓋を開けよう? 考えるうちに、どうせなら一番言いづらいことを言ってやれ、という思いが強くなっていく。  一番言いづらい。それはすなわち、一番言いたいことに他ならないのだから。  千帆は黙って僕がしゃべるのを待っている。おそらく、どんな衝撃的な告白をするのだろうかと身構える気持ちが、発言によって発言を促すという行為を放棄させているのだろう。 「千帆に、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」 「うん」 「僕たち、キスしたでしょ。橋の上で」 「うん」 「あれは、僕にそうされるのが嫌ではなかったから受け入れてくれた、ということだよね。終わったあとの感じから、多分そうじゃないかなって思っているんだけど、するまでがちょっと強引だったでしょ。だから、心配で」 「その解釈で正しいよ。ていうか、今はシューマが秘密を打ち明ける番だよね。あたしが質問に答えたら、あたしの番が二回になっちゃう」 「あ……それもそうだね。ごめん」  さらりと肯定されたので、かえって照れくさくなった。わざとらしいことこの上ない空咳を一つ。言いづらくて、また間が空いてしまったけど、躊躇いを振り切った。 「僕が千帆にキスをしたのは、君のことが好きだからだよ。好きになったきっかけとか、いつごろから好きだったのかとか、明言するのはちょっと難しいんだけど。千帆の好きなところは数えきれないくらいたくさんある。ポジティブな性格もそうだし、顔のかわいさだってそう。このさいだから正直に言っちゃうと、大きな胸もね。中でも一番好きなのは、無理に明るく振舞う必要はないから、暗くならないように心がけるべき、っていう考えかた。それを教示してくれたことで、この二日間、精神的に危なくなったときも、大怪我をすることなく乗り越えられた。だから、この場を借りてお礼を言わせて。本当にありがとう」  君のことが好きだからだよ。  臆病な僕が、こんなにも簡単に気持ちを伝えられるなんて、思ってもみなかった。 「こちらこそ、だよ。もう一度、お礼を言わせて。ありがとう」  千帆らしい柔らかさが感じられる声に、場に漂っていた緊張感がいい意味で緩んだ。 「でも、こう言っちゃうと悪いんだけど、あんまり秘密を打ち明けた感はないかな。あたしにキスをした時点で、あたしが好きなんだなって分かったし」 「……ああ、そっか。そうだよね。……うん」  結果的に秘密に相当しないと判定されたものの、僕自身が秘密と認識している事情を打ち明けたのは事実。今日のところはそれでおしまいにしてもよかった。千帆の性格的にも、今現在の場を支配している雰囲気からも、申し出が二つ返事で了承されるのは間違いない。  だけど、僕の心はそれを望んでいない。  言葉で意見を表明するのは恥ずかしい。でも、心は抑えきれないくらいに高ぶっている。気持ちがかつてないほど前のめりになっている。  ほふく前進をして移動し、隣の布団に上半身を侵入させる。気配に驚いてこちらを見た千帆と、闇の中ではっきりと目が合った。顔と顔の距離は三十センチにも満たない。距離の近さを現実のものとして認識したとたん、彼女の体から発散される匂いが強くなった。それは花の蜜だった。ただの蜜ではなく、媚薬成分をふんだんに含んだ官能的な芳香だ。理性が麻痺し、千帆の姿しか瞳に映らなくなる。  互いが相手に顔を寄せ、僕たちは二回目のキスを交わす。  舌で、指で、確かめ合い、高め合う。拙い舌や指の使いかたが、逆に高ぶりを加速させた。僕だけではなく、千帆も同じ感覚に囚われているのが、彼女に触れているからこそ、彼女に触れられているからこそ理解できた。  長いような短いような戯れを経て、お互いが裸になったときには、お互いに準備は完了していた。 「……いくよ」  千帆は頷いた。先端を入り口に宛がい、ゆっくりと腰を突き出す。  僕の一部は千帆の中に入った――はずなのに、なんの感触も覚えなかった。  刹那、眩暈にも似た感覚に襲われ、意識が急速に遠のいた。
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