終末の二人

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 瞼を開くと、視界に飛びこんできたのは、薄汚れた白。  遠くで鳥のさえずりが聞こえる。雀、だろうか。  白色の正体は、自室の天井だとやがて気がつく。  上体を起こし、周囲を見回す。紛れもなく僕の自室だ。ゴミや本や服などが床に散乱した、雑然とした一室。壁際に設置されたベッドの上に、僕はいる。 「千帆……?」  名前を呼んだ人の姿は、室内にはない。残り香もない。  千帆と一つになろうとして、僕は眩暈に襲われて気を失った。その後、千帆は僕を僕の自室まで運んで、自らはどこかへ――。 「……いや」  そんなはずがない。女の子にしては背が高いほうとはいえ、ひきこもり生活のせいで体力に乏しい彼女が、重い荷物を背負って、徒歩二十分もの距離を歩きとおせるとは思えない。そもそも、わざわざ徳島まで移動する意味はない。布団の上で意識を失ったのだから、そのまま寝かせておけばいいだろうに。  本当は分かっていた。目覚めた瞬間に本能的に理解していた。  ――夢。  僕は夢を見ていたのだ。まるで現実のようにリアルな夢を。千帆はその中の登場人物に過ぎず、実在していない。  衝撃的な出会い。近隣の住人宅を訪問しているさなかの心細い気持ち。好きなマンガの話をしながら歩いた砂浜。散らかった部屋を片づけて食べたブランチ。徳島の街並みに興味津々だった横顔。真夜中にトイレに付き添ったこと。朝目覚めたさいのちょっとしたハプニング。橋の上で交わしたキス。部屋でマンガを読んだ昼下がりのひととき。僕を心配して散歩を早めに切り上げて帰ってきてくれたこと。涙を流す僕の背中を撫でてくれた優しい手つき。本音を言い合えた夜。そして、肉体的な絡み合い。  その全てが夢だったなんて、にわかには信じられない。  僕はしばらくのあいだ、上体を立てた姿勢のまま、時の流れに呆然と身を任せた。  でも、あの場面で夢が終わった意味ならば、完全に理解できる。  僕が童貞だからだ。異性と体を交えたさいに覚える肉体的な感触が分からないから、いわばエラーが起きて、あれ以上続けられなくなったのだ。  夢の中で見た、津波の夢の場合と似ている。ただ、あちらはファンタジーを交えながらも、海面から顔を出すところまで漕ぎ着けたのに対して、セックスの夢は途中で断ち切られた。津波の夢においては、息ができる環境に辿り着くのが目標だったけど、セックスの夢においては、セックスによる性的快感を覚えるのが目的。しかし、夢を見る本人がセックスを体験したことがない以上、夢の中だとしてもリアルな表現は不可能、目的達成は不可能ということで、強制終了した。その解釈で間違っていないはずだ。  時間が経つにつれて、僕は受け入れがたい現実を受け入れていった。生身の人間として千帆と接する機会は二度とないのだと思うと、寂しくて、切なかったけど、耐えがたいほどではなかった。たとえ愛する人と二人きりでいられるのだとしても、人が死に絶えた世界で生きていかなければならないのなら、つまらない浮世を生きていくほうがましだ。そんな思いが、心の最も深い場所から作用を及ぼしている結果らしい。  一定の落ち着きを回復したところで、世界から人がいなくなった夢を見た意味について考えてみる。  今、こうして息をして、思考している僕は、不登校でひきこもりの高校生だ。最後の夜に千帆が告白したのとほぼ同じ状況に置かれている。夢の中で、校舎に足を踏み入れることに恐怖を感じた理由は、この事実から説明がつく。  学校に行かなくなり、自室にひきこもるようになったのは、クラスメイトからいじめを受けたからだ。気弱で、要領が悪くて、常におどおどとしている僕は、一部の攻撃的で無恥な男子たちにとって格好の標的だった。  加害者となんらかの形で戦うことも、頼れる第三者に相談することもできない弱い弱い僕は、殻に閉じこもった。  不登校の理由を明言しないことに親は腹を立て、学校へ行け、学校へ行けと、毎日口やかましく脅迫する。そう言われても、僕に罵言を浴びせ、暴力を振るう人間と同じ空間に身を置きたくなどない。さりとて、屈辱的な事情を洗いざらい打ち明ける勇気はない。頭ごなしに登校を促す、頭が硬い両親に窮状を訴えても、力になってくれないのでは、という不信感もあった。当座の避難場所に選んだ自室も、必ずしも安息できる場所ではなかった。  居場所はこの世界のどこにもないと悟った僕は、絶望した。そして、残された数少ない選択肢の一つである、空想にすがりついた。  淫らな空想。いじめっ子たちに復讐を成し遂げる空想。挫折から立ち直って社会的な成功を収める空想。  非現実の世界に遊ぶ日々を送る中で、綿密でリアルなもう一つの世界を構築する技術が日に日に熟練していき――地球上から人類が消滅し、自分以外の唯一の生き残りである千帆とともに生きるという概要の、長い長い夢に結実したというわけだ。  同い年の女の子をパートナーに設定したのは、夢の中で千帆に対して、ことあるごとに劣情を催した事実から逆算するに、異性に対する欲求を解消したい願望の表れ、という意味合いが強かったのだと思う。初対面の異性の前でも平気で薄着になる、胸が大きい、などの言動や特徴を見る限り、その解釈が正しいのだろう。ポジティブな性格だったのは、そういう性格の女の子が僕の好みだからであると同時に、そういう性格になりたいと憧れているから。安藤千帆、というネーミングの由来は分からない。もしかすると、ずっと昔に、安藤さん、あるいは千帆さん、もしくはそれに似た名前の女の子に、恋心を抱いていた時期があったのかもしれない。ひとひらの記憶も残っていないということは、こちらからは一切の具体的な行動を起こすことなく、あっという間に永久に終わりを迎えてしまった、淡い、淡い恋だったのだろう。  モデルが存在するのは、なにもヒロインだけではない。安藤家の近所に住む寺岡家のお姉さんと、闊達とした町内会長のおじいさんの二人は、高柳家の親戚。孤高の黒猫ルドルフは、存在自体は子どものころに家で飼っていた猫が、名前は絵本に登場する猫が、それぞれモチーフとなった。夢の中の夢で見た、海底に広がっていた石造りの街並みは、昔テレビで見たヨーロッパのどこかの街が元ネタのはずだ。  舞台が大毛島だったのは、僕の父親の実家がある場所だからだ。僕も何度か家族と足を運んだことがあり、離れのモデルになったと思われる建物に入った記憶も残っている。コンビニくらいしか食料品を売っている店がないというのも、らっきょうが特産品というのも、全て父親から聞いた話だ。  津波が来ると島が水没するという話は、夢ならではの改編と誇張の産物だろう。現実世界で起きた津波による被害に大きな衝撃を受けた僕は、大毛島は海に囲まれている、イコール津波が起きれば甚大な被害は免れないと、無意識に思いこんだ。その思いこみが、夢の世界においては厳然たる事実になった、ということなのだろう。  同じく、らっきょう農家の男性が自殺したという話も、現実世界で見聞きした事実ではないはずだ。僕は誰かが自殺する場面を目撃したことはないし、身近な人間が自殺したという話を聞いたこともない。ある程度近しい他人の不幸に関する噂話、と範囲を拡大したとしても、親戚や近所の人が病気で倒れて救急車で搬送されたとか、せいぜいその程度。それが夢の材料になったのだと仮定したならば、「病気で倒れた」が「自殺した」にすり替わったのは、僕の願望が反映された結果だろうか。もっとも現実の僕は、空想という逃げ道に魅了されたのを境に、その方法にはほとんど興味を失ったのだけど。  大毛島の砂浜に足を運んだ記憶は、たしかにある。バス停のベンチに腰を下ろして、目の前の景色を眺めたことも。海風に運ばれた砂が、アパートの敷地を囲う石垣の根本に積もっている様子は、そのときに見たもので間違いない。  現実世界の僕は、なぜ一人でバス停のベンチに座っていたのだろう? 十年も経っていない過去のことだけど、それに関する記憶は極めて曖昧だ。ただ、いい思い出ではないのは間違いない。考えられる事情としては――たとえば、父親の実家で家族と喧嘩をして、一人だけ自家用車ではなく路線バスで帰宅することになった、だとか。  その推測は正しいのだろうか? 僕は当時のことをはっきりと覚えていない。家族にわざわざ訊いてみる気にもなれない。唯一たしかなのは、そのころからすでに、僕と家族の仲は良好ではなかった、ということ。その事実を重要視したならば、父親の実家で、家族とのあいだでなんらかのトラブルが起きた可能性が高い、と考えざるを得ない。  一世一代の大作である千帆の夢が壊れた原因が、思春期の男子特有の旺盛な性欲だったのだと思うと、声を上げて笑い出したい気持ちになる。  一方で、清々しい満足感を覚えてもいた。  なぜって、僕は最後の最後で、勇気を振り絞った。千帆のことが好きだと自分から言って、自分から千帆の体を求めた。  勇気。  現実の僕に一番足りないものを、僕は奮い立たせることに成功した。  夢の中だからこそ、現実とは違う自分になれたに過ぎない。現実世界は夢の世界とは違うのだから、夢で実現できたことを現実でも実現できると思うな。  冷ややかで意地悪で現実的なもう一人の僕がそうささやきかけてくるけど、僕はその声を無視する。夢の中でできたのだから、現実でもできるはずだ。今の僕はそう考えている。  柄にもなくポジティブになれたのは、夢の中で見た夢のおかげだ。  呼び声に導かれて、膜から出ようとする夢。  津波に呑みこまれて、海中を浮上して海面から顔を出そうとする夢。  二つとも、閉塞した環境から脱出するというストーリーだ。  つまり、  今の暮らしから抜け出したい、と僕は願っている。  その願望を抱いている自覚は、以前からうっすらとあったような気がする。それが今回夢を見たことで、確固として抱いていることが明らかになった。そして、その夢の中で、僕は勇気を振り絞った。  ――階下から物音がかすかに聞こえる。時折そこに人声が混じる。枕元の携帯電話を手にとり、ディスプレイを確認する。時計はちゃんと作動していて、午前七時過ぎ。自堕落な生活を送っている僕には早すぎる時間だ。だけど、家族のみんなからすれば、一日の活動をすでに始めている時間でもある。  僕はベッドから出て、パジャマを着替える。行き先も、目的も、もう決めていた。  今、一階に下りてダイニングまで行けば、  ドア越しに僕を罵るのが日課の父親と、  なにかにつけて真由瑠と比較して僕を蔑む母親と、  ところ構わず僕を笑い者にする真由瑠と、  久しぶりに顔を合わせることになる。もう何日ぶりになるのかも分からないくらいに久しぶりに。  対面した瞬間、三人はどんな顔をするだろう。僕にどんな言葉をかけるだろう。  はっきり言って、嫌だ。可能なら、回避したい。  だけど、これがきっかけで、自分の人生が望ましい方向に向かうのではないか、という期待感もしっかりとある。  自分と一人の少女を残して人類が死に絶えて、人間以外の生き物も絶滅して、食料を確保できなくなる――などという事態が起きなくても、けっきょく人間は死ぬ。いつ、どこで、なにをしているときに、なのかは知る由もないけど、おそらくは千帆の夢が覚めたときのように、突然に、しかも呆気なく。  だったら、その瞬間が来る前に、自らの意思でなにかをやってみよう。  最後のシャツのボタンをとめ、深呼吸を一つ。 「よしっ」  小さく声に出し、ドアを開け、部屋の外へと一歩を踏み出した。
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