終末の二人

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「ねえ」  心が一定の落ち着きを取り戻したのを見計らったように、声が降ってきた。淡い戸惑いが含まれた響きだ。 「ちょっと、苦しいんだけど。強く抱きつきすぎ……」  本人から抗議を受けたことで、見て見ぬふりをし、抑圧してきた罪悪感が、爆発的に膨張した。弾かれたように体を離し、上擦った声で「ごめん」と謝罪する。恐る恐る顔を上げると、一糸まとわぬ体が目に飛びこんできて、慌てて顔を背けた。 「あなたに抱きつかれているあいだ――」  少女は指差した。僕の方向を、ではあるけど、僕ではないものを。 「ずっと気になっていたんだけど、その戸はなんなの?」  肩越しに後方を振り向く。見覚えのある引き戸――僕が通う高校の体育館の出入口の戸が、ほぼ全開にされた状態でそこに存在していた。  十分も経たない過去に、僕はその戸をたしかに開けた。しかし、戸の先に待っていたのは、見慣れた体育館ではなかった。お世辞にも清潔とは言えない、片づいているとは口が裂けても言えない部屋で、裸の少女が眠っていた。 「その戸がある方角には、本来ならこの部屋の壁があって、壁の先にはなにもなかった。ベランダとか階段とかはないから、人が存在する余地はなかったはずだけど……」  少女は眉根を寄せて困惑を表明する。 「混乱しているところ悪いけど、混乱しているのはあたしも同じだから、質問させて。いったいなにが起きたの?」 「あの……。話の腰を折るようで悪いんだけど、その前に一つお願いが……」  どうぞ、というふうに少女は頷く。 「服、着てくれないかな。裸の異性に向かって話すのは、なんていうか、ちょっと……」 「あっ、そうだね」  少女は慌てた様子もなく、布団の傍らのキャミソールを引っ掴んで立ち上がる。股間の高さがちょうど顔の高さに来た。視界にアップで映し出された、男子高校生にはいささか刺激が強すぎる映像に、酸欠の金魚のように口をぱくつかせながら顔を背ける。  ……本当にいろんなことが起こるな、今日は。 「はい、おまたせー」  上はキャミソール、下は純白のショーツという格好だ。明らかにサイズが小さく、膨らみの形がくっきりと分かる上半身も気になるけど、下着を穿いただけの下半身はそれ以上に気になる。この恰好でいいのかな、と思ったけど、本人は至って平然としている。それに僕は、悪意はなかったとはいえ、人の家に無断で侵入した立場だ。ささいなことで感情的になる人だとは思わないけど、指摘するのは控えたほうが無難だろう。 「なにから話せばいいのか、迷うところだけど」  空咳を一つして気を取り直し、僕は話しはじめた。 「僕の背後にある戸、君は見覚えないって言ったけど、あれ、僕が通っている高校の体育館の戸なんだ」 「高校?」 「うん。県立J高校。吉野川の近くにある」 「ここ、大毛島だけど」 「は?」  素っ頓狂な声が僕の口から出た。大毛島――聞いたことがない地名だ。 「J高校ってどこにあるの? 吉野川の近くって言っても、いろいろな町があるよね」 「市内だよ。徳島市内」 「つまり、徳島市内にある高校の体育館に入ろうと思ったら、大毛島のあたしの部屋にワープしたってこと?」 「そう、なるのかな」  というか、 「大毛島ってどこにあるの? 島、だよね?」 「うん、島。と言っても橋で繋がってるけどね。四国とも、淡路島とも。鳴門市の北にある島なんだけど、知らない?」 「ごめん、知らない。地理にはそんなに詳しくないから」 「高速道路のインターチェンジがあるよ。鳴門北インターチェンジ。あとは、大塚国際美術館」 「ああ、それなら知ってる。鳴門市内にあるのは知っていたけど、島にあったんだね」 「島って聞くとすごく田舎で、生活が不便なイメージがあると思うけど、多分イメージよりもいろいろあるよ。コンビニもあるし、小学校もあるし、病院もある。島唯一のスーパーマーケットはつぶれちゃったから、お肉とか野菜なんかは橋を渡って買いに行かなきゃいけないけどね」 「……えっと、ここは二十一世紀だよね?」 「えっ? なんでそんなことを訊くの?」 「いといろと非現実的なことが起きているから、そんなこともあるのかな、と」 「二十一世紀だよ。ちゃんと二十一世紀。スマホで調べたら一発で――」 「スマホは無理だよ。ネットは繋がらないし、時計は止まってる」  きょとんとした顔になった少女に向かって、顎をしゃくる。言わんとしていることを理解したらしく、少女は枕元のスマートフォンを手にとる。二秒後、驚きをたっぷりと含んだ悲鳴が部屋に響いた。 「ほんとだ! 繋がらない! 頼みの綱のネットが……!」 「さっき『いろいろと非現実的なことが起きている』って言ったけど、それがその一つ。体育館の戸が君の部屋に繋がっていたのも一つ。それから――」 「なに? まだあるの?」 「人が消えた」 「……どういうこと?」 「言葉どおりの意味だよ」 「でも、あたしたち、普通に存在してるけど」 「僕たち二人以外がってこと。君と出会うまでは、僕一人かと思っていたんだけどね。今朝目覚めてから君に出会うまで――時計が駄目になったから正確には分からないけど、だいたい一時間くらいかな。そのあいだに、僕は誰とも出会わなかった。同居している両親と妹もいなくなっていたし、普段は朝から交通量が多い道を通っても、人も車も自転車も通っていなかった。声がするけど誰にも出会わなかった、とかじゃなくて、声も気配もまったく感じなかったからね」  少女は絶句している。無理もない。僕だって同じリアクションだった。 「最初は、三月に東北で起きたみたいな大きな地震がこの町を襲って、他のみんなは僕を置き去りにして避難したのかな、って考えた。でも、そうじゃない気がする。上手く説明できないけど、地震よりももっと大規模で深刻な事態が起きたような、そんな気がしてならないんだ」  少女からの返事はない。これも当然のリアクションだろう。  でも、信じてほしい。僕が言っていることは本当なんだ。僕たちが生きるこの世界でなにかが起きて、世界は劇的に変化してしまったんだ。 「せっかく空間が繋がっているんだし、徳島まで来てたしかめてみる? 信じられないかもしれないけど、本当にいないんだ」 「でも、大毛島も同じだとは限らないよね」 「……ああ、そうかも」  同調こそしたけど、でも、どうなのだろう? 現実は、残念ながら、少女が望むものではないとしか思えない。 「うちの両親は漁師をやっていて朝が早いから、外が明るくなるころには家にいないんだ。でも、お隣の浦田さんの奥さんは専業主婦で、おばあちゃんが在宅介護を受けているから、この時間帯だと奥さんがいると思う。というか、絶対にいる。いなかったら、おばあちゃんが死んじゃうもん」  少女は腰を上げる。またしても股間が、下着に包まれているとはいえ目の前まで来たので、こちらも慌てて立ち上がる。顔の高さはちょうど同じくらいで、女の子にしては背が高い。  少女は真っ直ぐに僕を見据える。大きな瞳にたたえられた静かな怒りは、僕個人、理不尽な状況、どちらに向けられたものなのだろう? 怒っているのは伝わってくるのだけど、瞳が大きく、どことなく幼さが感じられるせいか、いかんせん迫力を欠いている。正面から見て初めて、端正な顔をしていることに気がついた。 「じゃあ、お隣さんの様子を見に行こう。もし誰かいたら、ほんと怒るからね。冗談じゃなくて、本気の本気で。女の子の部屋に勝手に入ってきて、そんな嘘までついて」 「すでに怒っているよね。まあ、無理もないけど。ていうか、下は穿かないの?」 「パンツ穿いてるでしょ」 「いやいやいや……。そうじゃなくて、下着のさらに上にってこと」  部屋の中でいる限りは、最低限穿いてくれていればそれでよかった。しかし、外に出るとなると話が別だ。 「その必要、ある? あなたの言い分によると、あたしたち以外の人間は全員消えてしまったんでしょ? 人目を気にする意味って、あるのかな」 「万が一のことも考えて、という言いかたもなんだけど、とにかく穿いて。世界規模の異常事態が起きているのだとしても、ルールを守るのって大切だと思うし」  少女は反論の気配を口角に滲ませたが、なにも言わなかった。前屈みになって床に落ちているジーンズを拾い上げ、両脚を通す。キャミソールと同じくサイズが若干きついらしく、お尻がつかえて穿きづらそうだ。 『もし誰かいたら、ほんと怒るからね』  もしそうだったら、どんなにいいだろう。  でも多分、現実は僕たちが思っているよりも非情で、救いようがない。
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