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「島って広いの? どれくらいで見て回れるの?」
安藤家の敷地を出てすぐ、質問をぶつけてみる。左右に伸びる道を、千帆は右に進むことを選んだ。
「一周なんてしてたら丸一日かかっちゃう。歩いて十分くらいのところに海岸があるから、そこへ行こう。近場だとそこが一番おすすめだから」
「この道を行けば着くんだ」
「そういうこと。海を目指しつつ、人がいないかにも気を配る、みたいな感じでどうかな?」
「うん。それがいいと思う」
「じゃあ、それで決まりね」
千帆は右手を差し出してきた。ワンテンポ遅れて、手を繋ぐことを求めているのだと気がつき、動揺してしまった。千帆は不思議そうな顔で僕を見ている。どうして躊躇うのだろう、といったような。
無理に明るく振る舞う必要はないが、暗くならないように心がける。その方針の一環であることを差し引いても、大胆すぎる真似に思えるのは、僕が初心な人間だからなのだろうか?
いつの間にか掌に汗をかいている。さり気なくシャツの裾で拭い、差し出された手を握る。
握手したときと同じで、柔らかく温かい手だ。軽く握り返されて、鼓動はさらに速くなる。
心拍数に異常を来しているのは僕だけらしく、千帆はリラックスした横顔を見せている。
異性と手を繋ぐことなんて、千帆にとっては特別でもなんでもないのだろうか。世界が今みたいになってしまう前は、男友だちと当たり前のように手と手を結び合っていたのかもしれない。千帆は明るくて気さくな性格だし、かわいいから、きっと男女を問わず友人は多かったはずだ。
恋人はいたのだろうか。いたのだとしたら、僕と気軽に手を繋いだりしないだろうから、いなかったのだろうか。……どうなのだろう。
そんなことを考えている場合ではないと分かっているのに、考えてしまう。人間はどんな状況に置かれても、必ずしも考える必要がないことを考えるものらしい。
千帆は今、なにを考えているのだろう。
「あそこ、寺岡さんの家」
僕の左手から千帆の右手が離れた。その手で指差したのは、道の右側に建っている民家。
「あたしよりも十歳くらい年上のお姉さんがいて、とてもきれいな人なの。大学進学を機に県外に行っちゃったんだけど、子どものころはよくかわいがってもらって。なにせ歳が離れているから、いっしょになって遊ぶことはなかったけど、道でばったり会ったときにはよく立ち話をしてた。話が盛り上がって、気がつくとあたりは真っ暗、なんてことがよくあったっけ。同じ目線で話をしてくれるから、すっごく親しみやすいし、好感が湧くんだよね。お姉さんぶらないけど優しい人で、いっしょにいる時間がとても心地よくて」
考えごとをしていたせいで忘れかけていたけど、海を目指しつつ、人探しも継続するという話になっていたのだった。寺岡家のインターフォンも鳴らすのかな、と思って足を緩めたけど、千帆は素通りした。
「出て行って以来、島には帰ってきていないみたいだけど、今ごろどうしてるのかな。結婚して、子どもも生まれているかもしれない」
どう返事をすればいいか分からない。千帆は、今度は寺岡家の二つの隣の大きな家を指差した。
「こっちは町内会長の草野さんのお家。小柄で白髪頭で、見た目はちょっと頼りない感じなんだけど、背筋はピンとしてて、はきはきした声でしゃべって、とてもしっかりしたおじいさんなの。もう八十を過ぎているらしいけど、すごく元気で。……あ、町内会で思い出したけど、最近回覧板が回ってこなくなった気がする。回覧板、廃止になっちゃったのかな? それとも、あたしが存在に気づいてないだけで、親はちゃんと受けとっているのかな?」
「いや、僕に訊かれても……」
「それもそうだね。ごめん、ごめん。それから、向こうに三階建ての家が見えると思うけど、そこに住んでいるのは――」
千帆のおしゃべりはとどまるところを知らない。
虚しくならないのだろうか? 交流があった寺岡家のお姉さんも、町内会長の草野さんも、もうこの世界からはいなくなってしまった。そして、おそらく、二度と会うことはできない。
『こんな状況でテンションが低いままだと、押しつぶされちゃうよ。無理に明るく振る舞わなくてもいいけど、暗くならないように心がけたほうがいいんじゃないかな』
自らが提示した方針を、千帆は半分守れていない。
離れた手が、再び結ばれる気配がないのと相俟って、どこか寂しかった。
道の左右に広がる景色は、住宅が二割、残る八割が畑という配分だ。海岸が近いという話だったけど、それが要因なのか、畑に使われている土は限りなく砂に近い。離れ周辺の地面も似たような感じだった。よく見かける黄緑色の葉の作物は、千帆の説明によるとらっきょうで、島の特産品らしい。
「千帆はらっきょう、よく食べるの?」
「全然。嫌いなわけじゃないから、和え物なんかに入っていたら普通に食べるけど、積極的に食べようとは思わないかな。シューマは?」
「そもそも食べたこと、あったかな。親が作る料理には使われないし、給食に出てきた記憶もないし」
「まあ、そういうポジションだよね、らっきょう。マイナーで、あんまり存在感を発揮できなくて、ジャガイモとかキャベツとかニンジンなんかにいつも嫉妬してるの。それからもちろん、そっくりさんなんだけど、自分とは違っていろんな料理によく使われるタマネギにもね。……あっ、そうだ。らっきょうで思い出したんだけどね」
言葉が途切れる。続きを言おうか言うまいか、迷っているような顔つきを見せている。食べ物の好みから話題が離れるのはなんとなく分かったけど、それでは、なにを話そうとしているのか。
「シーズンになるとね、らっきょうを切るバイトっていうのがあるの。らっきょうって、長い葉っぱがついたタマネギみたいな見た目なんだけど、その葉っぱと根っこをナイフで切り落として、ちゃんとした形にするの。市販されている酢漬けのらっきょう、あるでしょ。あれと同じ形に。分かるかな?」
「うん、分かるよ。イメージできる」
「うちの家でもそのバイトをやってて、あたしも手伝っておこづかいを貰ったりしていたんだけど、バイト先の農家のお兄さんがね、去年自殺したの」
いきなり出てきた物騒な単語に、衝撃を受けるというよりも当惑してしまう。一方の千帆は真顔で、表情に硬さは感じられない。
「うちのお父さんが軽トラでその家まで行って、切るぶんだけらっきょうをもらってきて、家で作業するっていう形だから、あたしはお兄さんの顔は知らないの。年齢とかはもちろん、下の名前ですらも曖昧で。でも、お兄さんが死んだってお父さんから聞かされたとき、あたし、すごくショックを受けて。自殺したっていう事実自体もショックだったけど、自分がショックを受けたことに対してもショックを受けた。かろうじて繋がりがあるだけの関係の人が亡くなっただけで、人間ってこんなにもショックを受けるものなんだなって。病死とか事故死だったらまた違った反応になっていたのかな、とは思うんだけど」
どう答えていいか分からない。千帆も口を噤んだ。
現在地が大毛島という島だと聞かされたとき、人口は少ないながらも、人情味溢れる人々が穏やかな暮らしを送っている牧歌的な島、というイメージを僕は持った。
しかし現実には、千帆が話したように、人間の心の闇が浮き彫りになるような、痛ましい出来事も起きている。
千帆が話してくれた農家のお兄さんの自殺の一件は、あくまでも例外的なもの。日常的に発生している事件ではないからこそ、彼女の記憶に残り、この機会に聞かせてくれた。そう捉えるべきなのだろう。
それでも僕は、島に対する第一印象との落差に、ショックを受けた。事実を噛みしめれば噛みしめるほど、顔も名前も年齢も知らないらっきょう農家のお兄さんの死が、大統領の暗殺や大地震にも比肩する重大ニュースに思えてくる。
そのお兄さんも、仮に自殺せずに生きつづけていたとしても、この世界を襲った劇的な変化には抗えずに亡くなる運命だった。
人間とは、死とは、人生とは、世界とは、宇宙とは、なんなのだろう? 考えはじめる前から、自力では答えを見つけられないと分かる深遠さに、途方に暮れてしまう。
「なんか、暗い話になっちゃったね」
かろうじて読みとれるだけのほろ苦さを口元に浮かべて、千帆は沈黙を終わらせた。
「思い出したらついしゃべっちゃって。暗い気持ちにさせようとか、そういうつもりは――あっ」
唐突に立ち止まる。顔の向きは、道に面した敷地の出入口。奥に見える建物は、なにかの工場のようだ。入ってすぐの場所に、ところどころが赤茶けた無数の鉄材が、僕たちの背丈ほどの高さに積み上げられている。崩落を防止するためだろう、ワイヤーが幾重にも巻かれて壁に固定されている。
「どうしたの? ここになにかあるの?」
「この鉄材の上、よく猫がお昼寝しているんだけど、今日はいないね。シューマが言ったように、やっぱり生き物も消えちゃったんだね」
「……ああ。餌づけに成功したっていう」
「そうそう。黒猫でね、ルドルフっていう名前の男の子なんだけど」
千帆はルドルフが実際にその場所に寝そべっているかのように、鉄材の上の一点に目を据えてしゃべる。
「警戒心が強くて、よくも悪くも一匹狼って感じで。猫好きのご近所さんにごはんを貰う、なんてこともなかったんだろうね、かわいそうなくらい痩せていて。少しでも楽に生きてほしかったから、毎日餌をあげていたんだけど」
「大変だったんじゃない? なついてくれるまで」
「うん、むちゃくちゃ大変だった。他の猫と違って、餌を欲しそうにしているけど人間を警戒している、とかじゃなくて、餌自体に興味を示そうとしないから」
「でも、千帆は諦めなかったんだね。黒猫を見捨てなかった」
「もちろん。一度かわいそうだ、助けてあげないとって思っちゃったら、見切りをつけることなんてできないよ。絶対にできない。手ごわかったから、ごはんを食べに毎日家まで来てくれるようになったときは、嬉しかったな。志望校に受かったときくらい嬉しかった。……せっかく仲よくなれたのに」
長々と息を吐き、鉄材から視線を切って歩きはじめる。僕は千帆に歩調を合わせた。
千帆は世界から人が消えたショックや悲しみから、比較的早く立ち直ったように僕の目には見えた。
でも、そんなことはなかった。そんなはずがなかった。
自分を含む二人を除いて、世界から人間が消えた。朝目覚めると消えてしまっていた。予兆もなく、書き置きもなく、完全に、永遠に。
そんな馬鹿げていて、救いようがない、非現実的な展開を、おいそれと受け入れられるか? 受け入れられるはずがないだろう。
僕がまだダメージが少なくて済んでいるのは、非社交的な人間で、深く繋がっている人間の総数が少ないからなのかもしれない。
でも、千帆はきっと違う。遠くで暮らす知り合いのお姉さんを、同じ町に住んでいる町内会長のおじいさんを、あんなにも活き活きと語ったのだ。僕が定義するところの「深く繋がっている人間」の総数は、僕よりも格段に多いはずだ。
千帆の苦しい胸の内を思うと、こちらの胸まで苦しくなってくる。
だけど、彼女はあくまでも前向きだ。
「でも、あたしたちは例外的に生き残っているわけでしょ。ルドルフくんもその例外に含まれているかもしれないから、希望は持ちたいよね。孤高の野良猫だから、気紛れを起こして旅に出ただけだって」
目から鱗が落ちた思いだった。なるほど、そう考えることもできるのか。
さり気なく窺った千帆の横顔は、物寂しそうだ。ルドルフが生きていると信じる気持ちよりも、諦める気持ちのほうが強いように見える。
でも、暗い考えに囚われそうな場面でも、ポジティブな解釈ができる瞬発力は、手放しで尊ぶべきものだと思う。物事をプラスに考える能力は、もちろん僕にもあるけど、すぐにネガティブな思いに呑みこまれてしまう。だけど、千帆は簡単には屈しない。それはきっと、この過酷な状況を生き抜くために必要な能力のはずだ。
生き残ったのは僕たち二人だけではないかもしれない。そう思うことで、じゃあその人を探そうか、という方向に気持ちが向かう。生きる理由になる。絶望に打ちひしがれて、暗い部屋の片隅で膝を抱えているよりも、よっぽど生産的で有意義で有益だ。
千帆がしゃべるのをやめたので、二種類の靴音だけが世界には聞こえている。思案を巡らせるにはうってつけの環境になったのを幸いに、彼女が口にした「例外的な存在」について考えてみる。
今のところ、僕と千帆、二人だけが例外的な存在として生き残っている。それでは、例外だと認定される基準はなんなのだろう。
僕も千帆も、明らかに平凡の範疇に属する人間だ。千帆は風変りな一面も時折見せているけど、普通から大きく外れているとまでは言えない。七十億人中の二人という、シビアな競争を勝ち抜くに値する資質の持ち主だとは、どう考えても思えない。思春期の人間特有の自惚れの力を借りても無理だ。
旧約聖書にノアの方舟というエピソードがある。大洪水の発生に備えて、動物一種類につきオスメス一組だけを方舟に乗せる、という概略だ。では、乗せる動物はどういう基準で選ばれたのだろう? 聖書には詳しくないから断言はできないけど、常識的に考えれば、選別する側としては、広い意味で優秀な個体を生き残らせたいと考えるはずだ。
僕がノアの立場だったら、人間のオス代表に高柳秀真は選ばない。若さくらいしか取り柄がない、総合的に見れば凡庸というよりも劣等な個体なんて、神に命じられたとしても、天使に勧められたとしても、悪魔にそそのかされたとしても、絶対に選びたくない。
そもそも、一夜にして、二人を除く七十億人の人間が消えるなどという事態が発生したのは、なにが原因なのだろう?
何者かが意図的に引き起こしたのだとしたら、誰が主犯で、なにが目的なのだろう?
現時点ではなに一つ分からない。
客観的に見れば、絶望しないほうが不自然な状況かもしれない。ただ、そんな中で生きていくためのコツのようなものを、千帆は教えてくれた。
「そうだといいね」
僕の言葉に、千帆は頭上にクエスチョンマークを浮かべて僕を見返した。返答するまでに間が開きすぎたのだと、一瞬の困惑を経て気がつく。
「ルドルフくんのことだよ。彼も僕たちみたいに、例外だといいね。僕もお目にかかりたいよ、孤高の黒猫の顔を」
千帆の表情が目に見えて明るくなった。それを機に、僕たちのあいだで猫にまつわる会話が発生した。過去に出会った野良猫についてや、幼いころに飼っていた猫のことなど、他愛もない話だ。
千帆は話しやすいし、話していてとても楽しい。高校生になっても未だに人見知りの傾向がある僕でも、仲のいいクラスの男子としゃべる感覚で話ができる。
僕以外の生き残りが千帆で、よかった。
心からそう思った。
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