終末の二人

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 前方左手、高い位置に植物の葉の緑が見えた。数歩対象に近づいたことで、椰子の木だと判明した。  生えているのは、駐車場の出入口近くのフェンスの内側。木よりも何倍も高い、マンションらしき白壁の建物がその奥に建っている。 「もうすぐ海に着くよ。夏になると海水浴客で賑わう砂浜なんだけど」 「千帆もよく遊びに来るの?」 「うん、結構遊ぶ。夏休み期間中は混むから、シーズンが過ぎたあとでこっそり泳ぎに来ることが多いかな。賑やかなのは嫌いじゃないけど、人口密度が高すぎると窮屈で、息抜きって感じにならないから」  千帆の水着姿を想像してみる。スタイルがいいから、ビキニを着たらきっと似合うだろう。ナンパをされたこととか、あるのだろうか。千帆は性格が優しくて、隙が大きそうだから、それにつけこもうとする邪な男は何人もいただろう。その優しい性格が仇となって、要求を断固として拒むことができずに、困ってしまったことも一度や二度ではなかったかもしれない。  広く浅く海水浴の思い出を語り合っていると、やがて海岸が見えた。  澄みきった青い海水と白砂の浜の芸術的なコントラスト。一方で、海と空の境目は曖昧で、ほとんど一つに溶け合っている。海面が太陽光を反射して光り輝いている様子は、シンプルに美しい。 「シューマ、行こう!」  右手の指に指が絡みついてきた。不意打ちの温もりと感触に、僕の心臓は大きく脈打った。躊躇いながらも握り返すと、それを合図に千帆は駆け出した。体の一部を繋いだまま走る行為に、物理的にも精神的にも慣れていない僕は、転びそうになりながらも懸命についていく。  海岸の前を、あたかも境界線のように道路が走っている。片側一車線、歩道が備わっていない、定規で引いたように真っ直ぐな舗装道路だ。横断歩道が砂浜に直通していて、渡って左に少し進むとバスの停留所がある。  車はもちろん一台も通っていない。それでも、千帆は小学校低学年の児童のように左右をしっかりと確認して、それから道を渡った。  砂浜は、シーズンではないから仕方ないのかもしれないけど、漂着したゴミなどが目立つ。割れた空き瓶、凹んだ空き缶、珍妙な形の流木。用途不明のプラスチックボトル、ワカメに似た海藻、真っ白な貝殻。漂着物と聞いてイメージするものがひと通り揃っている、という感じだ。生えている雑草は、砂地だから根を伸ばしやすいのか、不気味なくらい大きく成長したものもある。人々がきれいなビーチで夏を楽しめるのは、人の手が加わるからこそなのだと、今さらながらに気づかされる。  もっとも、砂の白さと海の美しさは文句のつけようがない。  少し強い海風が吹いている。風に運ばれた無数の砂粒がアスファルトの路面を転がり、さらさらと音が鳴っている。波が寄せては返す音がそれに重なる。自宅近くに海がなく、海に足を運んだことがそもそもほとんどない僕には、幻想的にさえ感じられるハーモニーだ。 「見て。ほら、あそこ」  千帆は僕の手から手を離し、遠くを指差した。大きな白い橋が架かっているのが朧に見える。 「あれが大鳴門橋?」 「そう。大毛島と淡路島を繋ぐ橋」  僕に向き直り、表情を和らげる。 「どう? ここが大毛島だって信じてくれた?」 「とっくの昔から信じていたよ。話をしていて、嘘はつかない人だって分かったから。そもそも、千帆が僕に嘘をつく理由はないし」 「ありがとう。じゃあ、砂浜を歩こうか」  千帆と肩を並べて歩き出す。波打ち際から五メートルほどの距離を置いて、海岸線と平行に移動する形だ。 「今日はいい天気だねー。泳ぐのはさすがに無理だろうけど」  千帆は僕とは反対方向に顔を向け、海を眺めながら歩く。足取りはゆったりとしている。自宅の近所にあるのだから、訪れる機会は多いはずなのだけど、フレッシュな気持ちで景色を見ているようだ。今年初めての海、なのかもしれない。  千帆が海に注目しているのをいいことに、僕は横顔を心置きなく眺める。  瞳はぱっちりとしている。睫毛は長い。鼻は高くもなく低くもない。唇は少し薄いだろうか。化粧気はないけど、どちらかというと幼い顔立ちなので、こちらのほうが似合っている。擦れ違う人がことごとく振り向くような、絶世の美女ではないかもしれない。だけど、しっかりとかわいい、僕の好みのタイプの女の子だ。 「シューマは海は好き? 夏は泳ぎに行く? ていうか、泳げるの?」  いきなり僕のほうを向いたかと思うと、質問をぶつけてきた。 「いっぱい来たね」 「うん。思いついたのを一気に」 「海は、わざわざ行くことはないかな。一応泳げるけど、泳ぐのが好きとか、海が好きとかではないから」 「友だちと遊びに行ったりしないの?」 「まったく。僕、インドア派だから」  そもそも、いっしょに行くような友だちがいないしね。心の中でつぶやいたけど、口には出さない。世界で二人きりの生き残りになったとしても、言いたくないことはある。 「休みの日とかでも、外出とかはあまりしない?」 「そうだね。家でずっとゲームばかりしてる。一つのゲームを集中してプレイするんじゃなくて、面白そうなものを見つけ次第手を出して、飽きたらすぐに別の作品で遊ぶ、みたいな感じ。自分で言うのもなんだけど、退廃的だよね」 「そう? みんな似たようなものじゃない?」 「そうかな」 「わたしはゲームはほとんどしないんだけど、マンガが好きで、シューマみたいに広く浅く楽しんでいるから、そうなのかなって」 「そういえば部屋にたくさんあったね、マンガ。雑誌も単行本も」 「毎週紙の本を何冊も買って読むから、どうしても部屋の中が散らかっちゃうんだよね。こまめに片づけをしないあたしが悪いんだけど」 「もしかしてだけど、千帆もインドア派だったりする?」 「あ、ばれた? 友だちと遊びに行くのも嫌いじゃないけど、部屋で一人でだらだら過ごすほうが楽は楽だから」  頭の位置を下げ、上目づかいに僕の顔を覗きこんでくる。 「意外だった?」 「うん。偏見かもしれないけど、島暮らしの漁師の娘さんっていうと、活発な性格だっていうイメージがあって」 「遊べるような施設とか店とかが近所にないから、どうしてもこもりがちになるの。面倒くさがりで、だらしない人間だから、というのもあるけど。部屋、すごく汚かったでしょ? マンガだけじゃなくて、服とかゴミとかで」 「そうだね。かなり散らかってた」 「面倒くさがりで、だらしなくて、部屋にこもりがちで、片づけができなくて――」  言葉を切ったかと思うと、千帆はにわかに足を速めた。僕の進路に躍り出て、右脚を軸足にして回って僕に向き直る。必然に僕の足も止まる。 「そういう女の子って、男の子からしたらどうなの? やっぱり、引くよね?」  散らかった部屋の中央で、一糸まとわぬ姿で眠る千帆の姿が、脳内に彷彿と甦った。  僕の返答を待つ現実の千帆の顔は、どこか不安そうで、緊張の色が窺える。官能的な映像と、彼女が抱く負の感情、両方を払拭するべく首を左右に振る。 「そんなことないよ。僕自身は、片づけはこまめにするほうだけど、好きでしているわけじゃないし。部屋の掃除や片づけが面倒くさいっていう気持ち、誰にだってあると思う」 「それでもちゃんと部屋をきれいにするんだから、シューマは偉いよね。あたしの場合、気をつけようと思っても全然行動に移せない。だから今日シューマが来たとき、すごく恥ずかしかった」  千帆は百八十度ターンし、歩行を再開した。すぐに彼女に追いつき、元のように横並びになって歩く。 「あれは不意打ちみたいなものだから、しょうがないよ。友だちが遊びに来るって事前に分かっていたら、話は別でしょ?」 「うん、さすがに片づける。でも、あのときはほんとに恥ずかしかった。初めて男の子が部屋に来たから、それもあったんだろうけど」 「初めてだったんだ。千帆、同性異性問わず友だちが多そうなイメージだけど」 「そんなことないよ。学校でよく話す子なら何人かいるけど、部屋まで来たのはシューマが初めて」  じゃあ、彼氏はいないんだな。近い将来に恋人関係に発展しそうな親しい男友だちも、多分いない。  世界から僕たち以外の人間が消えた今、その事実はなんの意味も持たないのだろう。それでも僕は、千帆からは見えないように自分の体で隠して、小さくガッツポーズをした。  ちっぽけな人間だな、と我ながら思う。でも、緊張状態が長く続いていたから、そんな小さなことで喜べる自分が、我ながら嬉しかったりもする。 「なんか、ごめんね。こんな形で初めてになっちゃって。でも、僕もまさか、体育館の戸を開けると人の部屋だとは――」 「思わないもんね。ほんとにびっくりしたよね、あのときは。でもさ、どちらが悪いわけでもないんだから、その件は水に流さない?」 「そうだね。それがいいと思う」 「じゃあ、そうしよっか」  ほほ笑みを交わしたのを境に、場の空気が和んだ。わだかまりが一つ解消されたことで、千帆との距離が一歩縮まった気がする。言い出したのは千帆なのだから、紛れもない彼女の功績だ。  自分以外の生き残りが千帆で、本当によかった。改めてそう思った。  少し言葉が途切れているあいだに、行く手に崖がそびえているのが見えた。高さは十メートル弱といったところで、急な斜面はほとんど垂直に近い。崖の上には、縁に沿って壁を作るように樹木が立ち並んでいる。 「崖の上にはなにがあるの?」 「駐車場だよ。観光客向けなのかも、地元の人間向けなのかも分からない、そんなに広くない駐車場。上まで上る階段も近くにあるけど、特に面白いものがあるわけじゃないし、見える景色もどうってことないよ。引き返そう」  頷き合って合意を交わし、体を反転させる。砂の地面を踏みしめながら前へ、前へ。  Uターンしたあとは、互いが好きなマンガの話をした。千帆は少女マンガよりも少年マンガのほうが好きらしい。アニメ化している人気作品よりも、マイナー寄りの作品が好きという共通点が発覚し、話は驚くほど盛り上がった。  だから、元の場所に戻ってくるまではあっという間だった。 「これからどうする? シューマになにか希望があるなら、付き合うけど」 「うーん、特にないかな。橋は見たし、海岸は歩いたし」 「じゃあ、バス停でちょっと休憩しようか。ついてきて」  千帆を先頭にして道路へ向かう。  海から吹きつける砂混じりの風対策なのだろうか。停留所は、道路に面した面を除いてコンクリートの壁で覆われ、同じ材質でできた屋根が設けられている。コンクリートでできた、間口の広い、角張ったかまくら。そんな外観だ。  屋根の下に、幼い子供でも三人座るのが限界といった長さの、色あせた青いベンチが据えられている。僕はその左側に腰を下ろした。見た目は古びているものの、清潔さと強度に問題はなさそうだ。千帆は隣に座るのではなく、僕のすぐ左に立つ標識に相対した。手招きをしてきたので、下ろしたばかりの腰を上げる。 「見てよ、バスが発着するペース」  隣に立って時刻表を見る。発着の頻度は一時間に一回程度。平日と土日とではダイヤが微妙に異なっている。 「一時間に一回! 田舎でしょ」  千帆はなぜか誇らしげだ。 「シューマは徳島市に住んでいるんだよね。徳島はどんな感じ? 一時間に一本よりは多いでしょ?」 「路線によって違うと思うけど、僕がよく利用するバスは半時間に一回だね。徳島駅まで行くときに利用しているんだけど」 「そうなんだ。やっぱり進んでるねー、徳島市は」 「でも、一時間に一回だったら、そこまで不便って感じでもなくない?」 「そんなことないよー。外出の支度に手間取っちゃって、バスに乗れるか乗れないか微妙なときって、あるよね。そういう場合でも、半時間後にまた来るんだったら、ゆっくり支度して遅いほうのバスに乗ればいいやって思うけど、一時間後だとすごく長く感じるでしょ。だから、この便を逃したらもう終わりだ、みたいな気持ちになって、焦っちゃうんだよね」 「なるほどね。千帆はこのバスをよく利用するの?」 「うん。徳島に遊びに行くときに。賑やかだし、人も多いし、楽しいよね、徳島駅前」  僕は首の動きで同意を示し、元の場所に座る。千帆は満足そうに頷き返し、僕の右隣に腰を下ろす。距離は立っていたときと大きく変わらないのに、シャンプーの残り香の甘美さが主張を強めた。打ち寄せる波の音が遠のいた気がした。  千帆は黙って前を見ている。徳島駅前に遊びに行ったときの話をしてくれるものと思っていたので、少し拍子抜けがした。  目の前には、道路を挟んで、ベランダ側を僕たちに向けてアパートが建っている。海岸まで来るときに横を通った、駐車場の出入口に椰子の木が生えたアパートだ。全面真っ白に塗られた壁は、改めて眺めてみると、ひび割れと黒ずみが目立つ。何階建てかを数えてみると、九階だった。  ベランダに室外機以外のものが置かれている部屋には入居者がいて、なにもなければ空き部屋だ、と仮定してみる。その基準をもとに判断すると、アパートは人が住んでいない部屋のほうが多いようだ。  ビーチが近くにあるアパート。住まいとして魅力的だと思うのだけど、コンビニを除けば食料品店はないという話だったし、そこのところの不便さが足を引っ張っているのかもしれない。  会話は途絶えたままだ。復路で話が弾んだ反動のようなもの、なのだろう。おそらくはそういうことなのだろうけど、僕たちが直面している状況が状況だけに、長く続けば続くほど雰囲気は重苦しくなる。  千帆を横目に窺うと、右方向、道路が続く先を見ていた。淡路島に渡る橋がある方向だから、ずっと進めば高速道路のインターチェンジがあるのだろうか。本来であれば、高速道路を降りた、あるいは乗ろうとする自動車が目の前を行き来しているはずだけど、今は一台も通っていない。砂浜を歩いていたときも、ガードレール越しに道が見えたし、走行する車があれば走行音が聞こえたはずだけど、なにも見えなかったしなにも聞こえなかった。  波が寄せては返す音をBGMに、海風が砂浜の砂を道路へと運んでいく。アパートと道路の境界には石垣が設けられていて、砂混じりの風を防いでいる。進路を阻まれた砂は、石垣の根本に何センチかの厚さで溜まっている。その部分だけを切り取って拡大してみると、外国の砂漠に見えなくもない。  溜まった砂の片づけは誰が行っているのだろう。アパートの管理人? 専門の清掃業者? いずれにせよ、道の向こうに砂浜がある限り、飛んでくる砂が尽きることはまず考えられない。アパートが存在しつづける限り、誰かがその仕事をしなければならない。  しかし、人間は世界から消えた。僕たち二人を残して、一人残らずいなくなってしまった。  千帆は同じ一点を見据えつづけている。  彼女が見ている方向へ進めば大鳴門橋に辿り着くのだから、そちらから僕たちがいる方向に走ってくる自動車があるとすれば、徳島市方面行きの自動車だ。  千帆はもしかすると、徳島行きのバスが来るのを待っているのかもしれない。人が存在しない現状に嫌気が差したから、県内で最も賑わう場所である徳島駅前へ行こうとしているのかもしれない。誰かと出会いたいから。あるいは、自分自身と僕以外の人間が世界から消えたという現実から逃げたいから。  千帆、バスは来ないよ。待っていても永遠に来ない。  そう言葉をかけたところで、なんの意味があるのだろう。  千帆を抱きしめてあげたい、と不意に思う。  言葉に意味がないのなら、抱擁する腕の圧力で、体温で、言語化しづらいメッセージを伝えたい。  僕の視界の下部には、キャミソールの胸元から覗く白い谷間が映りこんでいる。僕が千帆と時間をともにするようになってから、ひっきりなしに頭の片隅で意識してきた部位だ。  僕が初めて見た千帆は、一糸まとわぬ姿だった。彼女はスタイルがいいし、男心をくすぐるような隙を持っている。  そんな千帆と、世界で二人きり。  まさにエデンにおけるアダムとイブだ。状況は楽園と呼ぶには程遠いかもしれないけど、男と女が二人きりという意味では同じ。彼女を女性として意識してしまうのは、性的に結び合うパートナーとして意識してしまうのは、ある意味では必然の環境といえるだろう。  このさいだから、潔く認めてしまおう。  僕は千帆に劣情を催している。健全な男ならば誰もが異性に対して抱く、浅ましい下心を千帆に対して抱いている。欲求を叶えたいと切に願っている。  他愛もない会話を交わして、精神状態が多少なりとも落ち着いたことで、隠れていたものが顔を覗かせた、ということなのかもしれない。  もちろん、同じ状況に置かれた仲間として、千帆を大切に思う気持ちはある。一方で、醜い肉欲を抱いているのもたしか。  この感情は、誤魔化そうとしても誤魔化しきれるものではない。  この欲求は、欲求が願うところの願いを叶えることでしか、解消することは不可能だ。眠らないと払拭できない眠気のようなもので。  そう思った瞬間、僕の右手は動き出していた。  引き返すこともできる。それは分かっている。制御しようと思えばできる。それも理解している。しかし、僕はそれらの事実を無視する。静かに、ゆっくりと、あたかも蛇が獲物に忍び寄るように、千帆の体へと右手を接近させる。近づいて、近づいて、近づいて――。  指先が左肘に触れた。  千帆は反射的に触られた部位に視線を落とした。ゆっくりとこちらを向く。目を丸くしている。どこか滑稽な表情に支配された顔を、僕は笑うことなく見つめる。千帆の顔つきがにわかに真剣味を帯びた。高鳴り出した心臓に向かって、僕は心の中で悪態をつく。遅いよ、馬鹿。  体に触れてどうしよう、という考えがあったわけではない。しかし、いざ実行に移してみると、とるべき行動はおのずと絞られた。  受け入れるなら受け入れてくれていいし、拒みたいなら拒んでくれても構わない。そんなふてぶてしい心境で、千帆へと体を寄せる。  互いの顔と顔は、今や拳二個ぶんくらいしか離れていない。それほどまでに近い距離で、僕たちは見つめ合っている。風の音も、波の音も、もはや聞こえない。  僕の不器用な勇気に、静かに瞼を閉ざす、という行為で千帆は応じた。接触に備えるためだろう、唇が少し尖る。  今ごろになって、猛烈な羞恥の念がこみ上げてきた。遅いよ、馬鹿。心の中で吐き捨てた悪態の声は、かすかに震えている。  ここで退いたら、情けないやつになってしまう。男として、ではなくて、人間として。それとも、そう思うことで己を奮い立たせようとしているのか。  見つめ合ったままだったなら、気力が挫けていたかもしれない。だけど、千帆は受け手側に回ってくれた。役割分担を明確にすることで、僕の気持ちを楽にしてくれた。  相手の唇の位置を目で最終確認し、自らも目を瞑った、  次の瞬間、  ぎゅろろろろ、という異音が鳴った。  僕たちは反射的に体を遠ざけ、再び見つめ合う。千帆は呆然としている。僕も似たような顔を晒しているに違いない。  異音の正体は、僕の腹の虫が鳴いた声。  まず千帆が噴き出した。それが引き金となって、僕も笑い出す。波と風の音しか聞こえない世界で、二種類の笑い声が響き合う。 「もしかして、朝ごはん食べてなかったの?」  ようやく笑い声を鎮圧して、でも顔は笑ったまま、千帆は問う。僕は懸命に笑いをこらえながら答える。 「うん、まだ。いろいろあって、心のゆとりがなったから」 「あたしもまだ食べてない。……そうだよね。いろいろあって、ただでさえ疲れているのに、まだなにも食べていないんだから、おなかが鳴るのも無理はないよね」  僕たちを襲ったおかしみは、ほどなく沈静した。千帆はベンチから腰を上げ、太陽を思わせるほほ笑みを僕に向ける。明るくて、眩しくて、とても惹かれる笑みだ。とてつもなく惹かれる笑みだ。 「帰って食べよう。朝食、いや、ブランチかな」  立ち上がると、千帆はすかさず腕に腕を絡ませてきた。いきなりの大胆な行為にまごついてしまったけど、眼差しと引っ張る力に促されて、そのまま歩き出す。  胸の感触は驚くほど柔らかい。歩行に連動した腕の微妙な動きに合せて、柔軟に形を変えている。剥き出しの二の腕に、布一枚で覆われているだけの膨らみが密着しているのだと思うと、頬どころか全身が熱くなる。  こんな大胆な真似をするくらいだから、千帆は少なくとも、僕を嫌ってはいない。  その事実が分かっただけで、二人で海に行ったことには深い意味がある気がした。
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