終末の二人

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「ごめん! 三分! 三分だけ待って! 大至急済ませるから」  離れに帰り着くと、千帆は僕を廊下で待たせておいて、部屋の片づけを開始した。  布団をざっと畳んで部屋の隅に押しやる。ゴミをゴミ袋にまとめて押しこむ。雑誌を壁際に積み上げる。不器用なのに短時間で多くの作業をこなそうとしている様は、いかにも慌ただしい。同時にほほ笑ましくもあって、僕はずっと作業を目で追っていた。少しくらい手伝うべきなのかもしれないけど、触られたくないものもあるだろうし、任せたほうがいいよね。そんな言い訳以外のなにものでもない言い訳を、心の中でつぶやきながら。  三分よりも少し時間がかかったものの、二人座れるだけのスペースが部屋の中央に作られた。にこやかな手招きに応じて、依然として散乱する物を避けながらそちらへ移動する。いっときよりも片づいたことで、床は畳敷きだったと判明した。  向かい合う位置に腰を下ろすと、千帆は入れ替わるように立ち上がった。開けっ放しにしてある体育館の戸に歩み寄り、首を突き出して外の様子を窺う。顔を、視線を、右に左にやや忙しなく振っている。声をかけようとすると、その気配を察したかのように頭を引っこめ、さらには戸を閉めた。 「本当に校舎があるね。当たり前だけど、全然知らない景色」  体ごと僕のほうを向いての千帆の感想だ。 「本当に隔たった空間同士が繋がっているんだね。鳴門市の大毛島と、徳島市にある高校が」 「びっくりした?」 「びっくりした! 起きていることは現実だって分かっているんだけど、頭が追いつかなくて」 「その気持ち、すごく分かる。僕も未だに信じられないくらいだから」 「だよね。ほんと信じられない。……あっ。食べ物と飲み物、用意するね」  戸の近くに置かれていたダンボール箱を開け、中から次から次へと食料品を取り出していく。惣菜パン、スナック菓子、ペットボトル入りの飲料。間食のときだけ食べるようにすれば一か月は保ちそうな、すさまじい量だ。 「たくさんあるでしょ。びっくりした?」  ウエイトレスを思わせるていねいで熟練した手つきで、箱の中身を僕の前に並べながらの問いかけだ。ただでさえ広くないスペースはあっという間に窮屈になる。 「うん、びっくりした。すごいね、この量は」 「おやつ用の食べ物と飲み物、いちいち母屋までとりに行くのが面倒だから、ここに貯めこんでいるの。動物みたいだよねー。自分で言うのもなんだけど」 「震災に備えての非常食、みたいな?」 「震災? ああ、東北で起きたやつね。それはあんまり意識してない、かな。震災が起きる前から貯めていたし。大津波が襲ってきたら、この島の大部分は水没するって言われているから、そもそも備えても無駄な気がする」 「……ああ。海に囲まれているから」 「そうそう。でも、ほんとに東北みたいなことになるのかなって思うけどね。油断しているところに大きな津波が来たから、ああいう大惨事になったんだろうけど」  千帆はそこで言葉を切り、現在行っている作業に専念した。賢明な判断だったと思う。誰だって、食事中くらいは明るい気分でいたい。  配膳作業を終えて、食料品を挟んだ真向いに千帆が座る。行儀正しい正座ではなくて、脚を大きく崩して。菓子とパンと飲み物で溢れ、片づけてもなお散らかっているこの空間には相応しく、好ましい座りかたに思える。 「それじゃあ、食べよう。いただきまーす!」  ぱちん、と掌と掌を打ち鳴らして、千帆は真っ先にポテトチップスの大袋を開封した。伸ばした二つの手が、袋の口に入る寸前で接触して、小さく笑い合う。食べ慣れた、なんの変哲もないオーソドックスな塩味だけど、空腹だったので唸るほど美味しい。五百ミリリットル入りのペットボトルのミネラルウォーターは、喉が渇いていたので一気に半分近く飲んだ。口元の雫を手の甲で拭って、今度はチョコレート菓子の袋を開けてかぶりつく。 「美味いね」 「ほんとに」  最小限の言葉を交わすにとどめて、僕たちは目の前のものをひたすら食べ、ひたすら飲んだ。 「人、いなかったね。大毛島にも」  半分ほど飲んだお茶のペットボトルのキャップを閉め、千帆は呟いた。十分ばかりが経ち、双方ともに食事のスピードはだいぶ落ち着いていた。話題が話題だけに仕方ないとはいえ、口元だけがほほ笑んだ表情は見るからにぎこちなくて、彼女らしくない。 「あの海岸の前の道、普段は割と交通量が多いんだけど、あたしたちがいるあいだは一台も通らなかった。人が消えたっていうのは本当だったんだね」  僕がなんらかのリアクションを示すよりも早く、千帆は弱々しく首を左右に振った。 「本当は気づいてた。近所の家を十軒訪問しても、誰も応対に出てくれなかった時点で、世界から人が消えちゃったんだって。でも、その事実を認めたくなかった。だから、そんな馬鹿なことがあるはずないって、心の中で必死に自分に言い聞かせてた」  現実を突きつけられて、なにを感じ、なにを思い、なにを考えたのかは、僕と千帆では当然違うだろう。しかし、恐怖と混乱に襲われて、現実だと認めたくなくて、でも認めざるを得なくて、絶望して、それでも一縷の望みにすがって――といった大まかな心理の変遷は、二人とも同じだったはずだ。 「本来なら、現実を受け入れて行動しなきゃいけない時期に来ていると思うんだけど、あとひと押しが足りない気がするの。弱いな、情けないなって、自分で自分に嫌気が差すんだけど。シューマは現実、受け入れられてる?」 「……どうなんだろう。できている、つもりではいるんだけど」 「実感としては限りなく百パーセントに近いんだけど、断言するのはちょっと違うかな、みたいな?」 「そんなところかな。でも、たった半日で完璧に受け入れるのは、誰であっても不可能なんじゃないかな。もしかすると十年、いや、百年かかっても無理かもしれない。心のどこかで、自分以外の人間がこの世界のどこかにいるんじゃないかっていう気持ちを、希望を、人は死ぬまで持ちつづけるものだと思う」  いったん言葉を切る。千帆は言葉を返そうとしない。 「もちろん、希望は持つのは悪いことじゃないよ。というか、持ちつづけるべきだと思う。大切なのは、希望を持つことと現実逃避を混同しないことだから」  少し間があって、千帆は「そうだね」と小声で答えた。そして、僕がかけた言葉を噛みしめるように、小さく二度頷いた。  しばらくのあいだ、パンと菓子を咀嚼する音が聞こえるだけの時間が流れた。沈黙を破ったのは千帆だった。 「大毛島は一応見て回ったから、次は徳島市へ行ってみない? あたし、シューマの家に行ってみたい。どんな町に住んでいるのか、この目で見たい」  唐突な提案にも思えたけど、よくよく考えればなにもおかしくない。千帆はまだ現実を受け入れきれていない。受け入れるために、徳島市でも人が消えているかを確認しておくべきだと考えた。それだけのことなのだから。徳島市は大毛島よりも圧倒的に人口が多いから、嫌でも白黒がつく。  ……そう、嫌でも。 「案内、してくれる?」 「もちろん。じゃあ、食べ終わったらさっそく出発しよう」  努めて明るくそう言って、残り少なくなった菓子パンを片づけにかかった。  体育館の戸を開く。  大毛島から徳島市まで、バスを利用した場合は何分かかるのかは知らないけど、僕たち以外の人間が消えてしまった世界では一瞬の旅路だ。  何時間ぶりだろう。久しぶりに訪れた徳島の空は大毛島と同じく快晴で、世界は一つの空で繋がっているんだな、などと、柄にもなく詩的なことを思う。 「じゃあ、行こう。階段、気をつけてね」 「はーい」  僕を先頭にして階段を下り、何事もなく地上に降り立つ。駐車場を通過し、道路を横断する。そのまま歩道を進もうとしたけど、千帆は校舎が気になるらしい。 「見に行ってみる?」 「いいの? 寄り道になっちゃうけど」 「別にいいんじゃないかな。急ぐ予定もないし」  正門から敷地内に足を踏み入れ、僕が先導する形で目的地へ向かう。当たり前だけど、校舎は朝と同じ色、同じ形をしている。静かで、人気がないのも同じだ。それなのに――多分、前回はいなかった千帆が隣にいる影響なのだろう。違和感があるといえばいいのか、落ち着かないといえばいいのか。上手く言えないけど、とにかく変な気持ちだ。  一方の千帆はというと、物珍しいのか、しきりに周囲を見回している。 「シューマは毎日ここに通ってるんだね。あたしが通っている高校よりも、全体的にきれいで、垢抜けている感じがする。さすがは徳島市内にある高校だね」 「千帆、高校生だったんだ」 「うん、高一」 「奇遇だね。僕も高校一年生」 「あたしのこと、年下と思ってたの? それとも年上?」 「根拠は特にないんだけど、なんとなく同い年かなって。だから、びっくりした」 「ほんと奇遇だよね。あたしたち、結構共通点とか多くない? 海岸でマンガの話、すごく盛り上がったよね」  千帆の学校のことを聞いてみたかったのだけど、話がマンガのほうに逸れてしまった。軌道修正をしようとタイミングを窺っているうちに、校舎がいよいよ近づいてきた。 「あっ、開いてる」  千帆は校舎の出入口を指差して言った。 「うん、今朝も開いてた。僕のクラスの教室も入っている校舎なんだけど」 「そうなんだ。シューマ、入ってみようよ。ていうか、入りたい!」  千帆の顔は、開封前のクリスマスプレゼントを前にした子どものように輝いている。 「誰からも怒られる心配ないし、別にいいよね? ね?」 「……うーん。でもなぁ」  言い淀んだのを受けて、千帆は我に返ったようにほほ笑みを引っこめた。僕はこめかみをかく。 「正直、気乗りがしないんだよね。実は、千帆の部屋に来る前に覗いてみたんだけど――」 「うん」 「校舎って、普通は常に人がいるよね。授業中で静まり返っていたとしても、人の気配はある。でも、今日はそれがまったくないから、入るのがすごく怖くて」 「夜の校舎に肝試しをしに来たとき、みたいな?」 「肝試しをしたことはないけど、そんな感じかもしれないね。怖がりすぎだって自分でも思うんだけど、入るのはちょっと難しい、かな」 「あたしがいっしょに行くとしても、無理そう?」 「うん。情けないけど」  情けないと思う。でも、本当なんだ。自分が情けないと思うのと同じで、校舎に入るのが怖いと感じるのは。  千帆は真剣な表情を作り、なにかを見定めようとするように校舎内の闇を凝視する。それを打ち切って僕のほうを向いたときには、顔には柔和さが復帰している。 「じゃあ、やめておこうか。嫌なのに無理に行く必要はないもんね。そもそも、本来の目的地はシューマの家なわけだから」 「ありがとう。じゃあ、今度来たときに、お互いに入りたい気分だったら入ってみる、ということで」  歩き出そうとした瞬間、右手に温もりが触れた。千帆の左手だ。あらゆる負の感情を束の間失念させ、穏やかな心境へと導くような、清らかでイノセントなほほ笑みが僕へと注がれる。  僕の弱さを、男のつまらないプライドを、一ミリも傷つけることなく肯定してもらえた実感に、静かな喜びが胸の底からこみ上げた。ただ、感謝の言葉を口にするのは気恥ずかしかったので、曖昧な笑みを口元に浮かべて手を握り返す。僕たちは来た道を引き返しはじめた。  正門を潜り、しばらく歩くと、橋に差しかかった。行きと同様、通行人も通行車両も見かけない。 「きれいな橋だね。新しいみたいだけど」 「うん。去年完成したばかりで」  橋は人や車が通るために造られたものだから、誰も通っていないのはひどく寂しい。一人で渡った朝よりも、千帆と肩を並べて歩いている今のほうが、なぜかその感情を強く覚えた。  中ほどまで来たところで、千帆は自分から僕の手から手を離した。欄干から身を乗り出して川を覗きこむ。行きに僕がとったのとまったく同じ行動をとったので、軽く驚いてしまった。強めの風が吹き抜け、こちらへとなびく髪の毛がシャンプーの香りを運んでくる。  いっしょになって覗きこむのではなく、覗きこむ千帆の横顔を眺める。風が強いから、スカートを履いていたら下着が見えたかもしれない、などと思春期の男子らしいことを思う。  直後、下着どころか、一糸まとわぬ姿を見ていたことを思い出した。  千帆の裸。  高校生くらいの女子はまだまだ成長期だから、体つきが比較的ふっくらとしている場合が多い。だけど、千帆はとてもスリムだった。それでいて、出ているところは大きく出ていて、とても魅力的な体だった。胸の先端も、股間の茂みも、僕ははっきりと見た。  アダルト動画でセックスシーンを見たことは何回もあるけど、生で異性の裸を見たのはあれが初めてだ。  思い返せば思い返すほど、すごい経験をしたんだな、という思いが強まっていく。  胸の奥に息づいている浅ましい欲望の存在を、僕は改めて意識する。  停留所のベンチでは未遂に終わったけど――。 「川、魚は泳いでいないみたいだね」  千帆は上体の角度を元に戻し、僕に向き直った。幸いにも、声を発してから動作が行われたので、急にこちらを向かれて狼狽する、という事態は免れた。 「いつもは泳いでるんでしょ? まさか、これだけ大きな川に一匹もいない、なんてことはないよね」 「そうだね。水質もきれいだし、棲んでいるはずなんだけど」 「一匹くらい泳いでないかなぁ、と思って見ていたんだけど、いないね。影がちょっと動いて、もしかして生き物? みたいなことすらも」  川は大きいから、いるけど見つからないだけかもしれない。そんな趣旨の慰めの言葉をかけようとして、寸前で口を噤む。話しぶり、佇まい、その両方から、かすかな陰りのようなものを察知したからだ。 「……なんであたしたちだけ、なんだろうね」  どこか力なくつぶやき、再び川を覗きこむ。僕は千帆の隣へと移動して、同じく川に視線を落とす。どう振る舞えばいいか分からないから、そうした。  僕はなんて馬鹿な男なのだろう。非現実的な現実を受け入れようと苦しんでいる最中なのだから、もっと彼女の心に寄り添ってあげないといけないのに、浅ましい欲望に現を抜かすなんて。  千帆が「もう行こうか」と声をかけてくるまで、僕たちは終始無言で、長きにわたって観察を続けた。  案の定、生き物の姿は見つけられなかった。  橋を渡りきって、少し歩くと県道に出る。商業施設も多く見られるようになり、景色はとたんに賑わいが増した。牧歌的な島に暮らす千帆にとっては、刺激的で魅力的な変化だったようで、テンションが明らかに少し上がった。 「いろんな店があって、賑やかな感じだね。都会だ、都会」 「そう? 東京とか大阪とかと比べると、田舎以外のなにものでもないけど」 「最高峰と比べても仕方ないよ。コンビニしかない島とは雲泥の差だね。いいなー、羨ましい」 「褒めすぎだよ。そこまで魅力的だとは思わないけどね、長く住んでいる人間からしてみれば」  苦笑を浮かべてみせたものの、自分が住む場所にはないものを見てはしゃぐ、という心理は理解できる。僕だって同じだ。立派な離れ、古色蒼然とした母屋、広々とした砂浜と海。地球上から人々が消えたショックさえなければ、千帆と似たようなテンションになっていたと思う。 「でも、人が全然いないから、やっぱり寂しい感じはするね。普段、人通りはどんな感じなの?」 「混雑するというほどでもないけど、今くらいの時間帯だったら、誰かしら通行人がいるのが普通だよ。交通量はけっこう多いかな。朝夕だと軽い渋滞が発生するくらいだから」 「そっか。やっぱり、みんな消えちゃったのかなぁ」  県道に出て以降初めて、千帆の声にくっきりとした陰りが観測できた。いつの間にか、僕たちの足は止まっていた。千帆の唇がなにか言いたそうに蠢いたけど、言葉は発せられない。僕のほうから歩き出すと、千帆もそれに合わせた。  それから先は、明らかに口数が少なくなった。雰囲気はあからさまに暗いわけではないけど、どこかすっきりしない。雨が降るわけでも晴れ間が覗くわけでもない、灰色の雲に覆われた空の下を歩いているみたいだ。  片側二車線、広い歩道と街路樹がセットになった道を、僕たちは急がない足取りで東へと進む。商店や民家の前を通りかかるたびに、千帆はガラス越しに店内を、フェンス越しに庭を、いちいち覗きこんでいる。  僕とは違って、どの建物も景色も初めて見るから、物珍しくて熱心に見ている。ただそれだけのことなのだろうけど、今よりも少しでも安心できる材料を探し求めているのかもしれない、という気もする。  そして僕の考えは、一度通過した地点へと戻ってくる。  生き残るたった二人に僕たちが選ばれた理由は、なんなんだ?  僕たちは自覚していないだけで、特別ななにかを持った人間なのだろうか。だとすれば、特別な人間は本当に僕たちだけなのだろうか。  僕たち以外にも生き残りがいるのだとしたら、僕たちが今まさにしているように、他の生き残りを探しているはずだ。こうして歩いていれば、いつか誰かに会えるかもしれない。  そんな一縷の望みにすがって、歩きながらも常に周囲に注意を配っているのだけど、今のところ誰の姿も発見できていない。  大毛島と同じように、徳島市からも人が消えているのかをたしかめたくて、僕が住む町まで行こうと千帆は提案した。  誰と出会うこともなく、殺風景な道を歩きつづけている今、千帆はなにを思い、なにを考えているのだろう。  怖くて、尋ねる勇気が持てなかった。
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