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道を左折する。折れた先の道は大きなカーブを描いている。
「家にはもうすぐ、あと五分くらいで着くから」
十分近くにも及ぼうかという沈黙を、僕は自ら破った。黙ったままだと、朝のことを思い出して、憂鬱な気分に囚われてしまいそうな気がしたから。
「戸建て? アパート? マンション?」
「戸建て。なんの変哲もない二階建ての一軒家だよ」
「脇道に折れただけで、がらっと雰囲気が変わるね。静かで、落ち着いた感じで」
「まあ、閑静な住宅地だよね。面白味のない表現でいえば」
「家は静かな場所にあって、ちょっと歩けばいろんなお店がたくさんあるって、理想的だね。羨ましいなー」
やがて行く手に藍色の屋根が見えた。その家が僕の自宅だと伝えると、千帆は思い出したように僕の手をとり、「走ろう」と言う。その必要性は感じなかったけど、引っ張られたので仕方なく走る。千帆と手を繋ぐのはこれで何度目だろう? 最初のように激しくはないけど、鼓動はしっかりと速まった。
「へえ。ここがシューマのお家かぁ」
千帆が発した感嘆の声は、僕の耳には少々大げさに聞こえた。大きくも小さくもない、古くも新しくない、取り立てて個性のない外観の住宅に、お世辞にも広いとはいえない庭。客観的にも主観的にも、どこにでもありそうな一軒家でしかない。
玄関ドアのノブに手をかけて回し開けようとすると、鍵がかかっている。出かけるさいに施錠したらしい。突然の事態に混乱していた当時を思えば、冷静すぎるし常識的すぎる。習慣がなせる業か。非現実的な現実を認めたくなくて、普段どおりに振る舞おうとしたのか。とにもかくにも鍵を使って開錠し、ドアを開いて中へ。
「シューマの家の中ってこんな感じなんだ。そっかぁ。ふーん」
僕が勧めたスリッパに足を通した千帆は、四方八方を熱心に見回している。外観と同じで、特に風変りなところはないと思う。間取りはオーソドックスだし、珍しかったり高級だったりする物が置いてあるわけではない。単に他人の家の中が物珍しいだけなのだろうけど、くすぐったい。嫌ではないのだけど、気恥ずかしい。
「そこのドアを入ったら応接室で、少し進んだところにあるのがバスルーム。突き当りのドアの先はリビングで――」
むずがゆい気持ちを抱えながらも、ガイド役としての務めをこなす。千帆は僕の家に「行きたい」と言ったし、「見たい」とも言った。ささやかでも喜んでくれるなら、期待に応えたかった。
「二階には家族の部屋とか、僕の自室とかがあるよ」
「シューマの部屋! 見てみたいなー。ていうか、入りたい!」
「別にいいけど……」
「ん? なにか困ることでも?」
「いや、困らないけど」
こめかみを指でかく。
「家に入ってもらうときも思ったけど、女の子を連れてくるのは初めてだから、恥ずかしいなぁ、と思って」
「平気、平気。あたしだって男の子の部屋に入るの、初めてだし」
「あんまり慰めになっていないような……」
「もしかして、エッチな本を放置しっぱなしだから、入られるのが嫌とか?」
「そんなわけないでしょ」
言下に否定する。まあ、いかがわしい本自体は所持しているけど。
「飲み物を用意するから、先に行ってて。階段を上がって左に曲がって、最初のドアが僕の部屋だから。鍵はかかっていないから、中に入って適当な場所に座ってて」
「はーい」
階段を駆け上がる軽快な足音を途中まで聞いて、キッチンに入る。
冷蔵庫のドアを開けると真っ暗で、電気の供給がストップしている事実を改めて思い知らされた。内部にはぬるい冷気が停滞している。二百五十ミリリットル入りの缶コーヒーを二本、手にとってドアを閉ざす。
缶の一本をジーンズのポケットにねじこみ、フリーになった右手でシンクの蛇口の栓を捻ってみる。案の定、水は出ない。
水道が止まっている現実を直視したことで、食料問題に対する危機感がにわかに芽生えた。
食べ物はいずれ腐る。飲み水のストックもなくなる。ガスが使えないから、火を通さないと食べられない食材は全て無駄になる。自力で火なんて、熾せるはずがない。
食べるほうも問題なら、出すほうも問題だ。水道も止まっているのに、どうやって用を足せばいいのだろう。今になって気がついたけど、朝から一回も排泄していない。
気がついたとたんに尿意を覚えた。ただし、我慢できないほど激しくはない。小さいほうだし、男だから、外で済ませることもできる。とはいえ、自宅の敷地内で立ち小便というのは、あらゆる意味で救いようがない。千帆を待たせるのもいけないと思ったので、ひとまず飲み物を手に二階へ。
千帆は自室のほぼ中央で、両手を脚の間に挟んで正座をして、口を半分開けた顔で室内を見回していた。僕の姿を一目見た瞬間、ほっとしたように表情を和らげた。
「ごめんね、座布団がなくて。人が来ることがないから、用意が全然なってなくて」
「平気だから気にしないで。あっ、缶コーヒー」
「冷蔵庫に入ってたから持ってきた。どうぞ」
「ありがとう」
受けとった瞬間、千帆は怪訝そうに缶を見返し、僕を見た。
「冷蔵庫、駄目なんだ」
「うん。ライフライン、完全に止まってる。電気も水道も」
「……そっかぁ」
飲食するときにする話ではないので、トイレのことはひとまず胸に仕舞い、千帆の真正面に胡坐をかく。「楽にして」と手振りで伝えると、白い歯をこぼして正座を崩した。僕はさっそく缶コーヒーのプルタブを開け、一口飲む。缶越しに触れた印象そのままのぬるさだ。
自室に女の子を連れてきたのは初めてだけど、僕は今のところ過度に緊張はしていない。我ながら少し意外だけど、出会ってからずっと二人きりでいるから、慣れないなりに慣れたということなのだろう。
僕がコーヒーを飲んでいるあいだも、千帆は部屋の観察を継続している。缶にはまったく手をつけていない。ひと声かけようとすると、
「部屋、よく片づいているね。部屋を掃除する習慣があるって言ってたけど、予想以上にきれい」
「意外だった?」
「うん。少なくともあたしの部屋よりは――って、比べたら失礼か。シューマ、きれい好きで几帳面な人なんだね」
「汚いままにしていたら親が、というか母親だね、母親が部屋に勝手に入って勝手に掃除するんだ。それが嫌だから、こまめに掃除をする習慣がついて。小学校高学年のときくらいからかな」
「そっかー。注意されてもしないあたしとは大違いだね。でも、変な意味で言うんじゃないけど」
「うん」
「雰囲気とか空気感とか匂いとか、そういうところが、やっぱり男の子の部屋だなって思う。緊張するなぁ」
千帆は缶のプルタブを開け、何口か飲んだ。そしてまた部屋を熱心に見回す。緊張すると言ったけど、千帆の顔からその色は読みとれない。緊張どころか、ショーの開幕を今か今かと待ち受ける人のように、表情が輝いている。たしかに僕の部屋を見たいとは言っていたけど、まさかここまで胸を弾ませるなんて。
「ここでシューマは毎日勉強したり、遊んだり、眠ったりしているんだなって思うと、不思議な気持ちになるなぁ。不思議っていうか――うーん。言葉にするのはちょっと難しいけど」
千帆の視線がベッドに固定された。不自然にも思えるほど真剣な瞳で見つめている。
彼女との出会いが思い出される。あのときに感じた衝撃や興奮は、時間の経過とともに薄れていっているはずなのに、なぜだろう。僕の鼓動は今、当時に近づこうとするかのように、徐々にテンポを速めていっている。
裸を見た。手を繋いだ。キスは未遂に終わったけど、寸前までいった。
では、その次は?
フィクションの世界でしか見たことがない、特定の行為を体験する未来に僕は思いを馳せる。その未来が訪れることを願っている僕を、僕は認めざるを得ない。
千帆はどうなのだろう?
多分、まだ砂粒ほども意識していない。これまでの彼女の言動から判断した限りでは、それが濃厚だ。僕たちは出会ってまだ間もないのだから、当然といえば当然だろう。
でも。
それでは僕は満足できない。少しでもいいから、千帆にその未来を意識してほしい。
そのためには、僕のほうから行動を起こす必要があるわけだけど――。
生理現象がにわかに自己主張を強めたことで、思案の中断を余儀なくされた。
「ねえ、千帆。ちょっと……」
「どうしたの?」
千帆はようやくベッドから視線を切って僕を見た。
「飲んでいる最中に悪いんだけど、お互いにとって重要なことだから、話をさせて。水道は止まってるけど、トイレはどうしようか?」
「あっ、そうか。その問題があるんだね」
「流れないのにトイレでするわけにはいかないから、代わりを用意しないと。考えたんだけど、庭に穴を掘ってそこにする、というのはどうかな? トイレットペーパーはあるから、その方法でなんとか」
「そうだね。そうするしかないよね」
苦笑混じりではあったけど、すんなりと同意してくれたので、胸を撫で下ろす。
「スコップがあったと思うから、今から掘ってくる。ちょっともう、我慢もそろそろ限界だから」
「あたしも手伝う」
「いや、作業は一人でするよ。どうせそんなに深くは掘らなくていいし」
決壊の危険性を訴える膀胱をなだめながら立ち上がる。
「千帆は疲れてるでしょ。部屋で休んでてよ」
「任せちゃっても大丈夫なの?」
「うん。穴はちゃんと二人ぶん、離れた場所に掘るから心配しないで。じゃあ、行ってくる」
庭の北東の角にスチール製の物置が置かれている。道具類の置き場というよりも、不要物を一時的に保管しておく場所として活用されているその中に、大型のスコップが立てかけられている。父親が園芸に凝っていたときに使われていたものだ。刃が少し錆びているけど、破損している部分はなく、使うにあたってはなんの問題もなさそうだ。
住宅の東側、アパートの駐車場に隣接する領域の適当な地点に目星をつけ、掘りはじめる。元は家庭菜園があった場所なので土が柔らかく、これなら限界を迎えるまでに完了させられそうだ。
僕と千帆以外の人間が消えた世界で、尿意を我慢しながら、一人地面に穴を掘る。
なにをやっているんだろう、と思う。生き残ったのが僕以外の人間だったとしても、きっと似たような感想を持ったに違いない。
でも、虚しい気持ちで胸がいっぱいになるかというと、そういうわけではなくて。
僕がしたいのは小さいほうだから、我が家とアパートの駐車場の境界のフェンスに向かってしても別に構わない。なんなら、道路のど真ん中で堂々と放尿したっていい。
そうしないのは、世界から人が消えた現実に、完全に絶望してはいないからだ。
生き残ったのは僕一人ではない。千帆が蛮行を目撃したならば、マナー違反を厳しく咎めるかもしれない。そうでなくても、もしかしたら、僕たち以外の生き残りがいるかもしれない。将来的に、早ければ一秒後にも、消えた人たちが戻ってくるかもしれない。それなのに、自棄を起こして野蛮な真似をするなんて、とんでもない。
どんなに過酷な状況に置かれたとしても、理性的に振る舞う義務が人間には課せられている。理性的に振る舞うことが、消えてしまった人たちを取り戻すことには繋がらないのだとしても、その方針を守って行動しなければならない。僕自身はそう考えている。
今までに一度たりとも、投げやりな態度をとったり、やけくそな発言をしたりしなかったのだから、千帆だって同じ考えのはずだ。
直径三十センチほどの穴を膝くらいまで掘ったところで、限界が訪れた。スコップを放り出し、急ぎがちにファスナーを開き、穴底に向かって尿を放つ。薄く色がついた水が土をえぐる様子は、顔をしかめたくなるほど汚らしい。でも、人は己に起因する尾籠さには寛容なものだし、なにより、欲求不満を解消するのは名状しがたい快感だ。
土をかけて排泄の痕跡を隠滅する。住宅の西側に回って、物干し台の横にもう一つの穴を掘る。土をかける用のスコップだけ残し、屋内に戻ったところで、トイレットペーパーが必要なことに気がついた。トイレにあった新品をスコップの横に置き、最初に掘ったほうの穴の傍らにも置いて、改めて家の中へ。
部屋に戻ると、千帆はベッドの上で横になっていた。掛け布団をしっかりと胸に抱きしめ、さらに両脚で挟むというポーズで。
思いがけない光景に唖然としてしまう。
「あっ、やばっ」
僕の帰還に気がつくと、千帆は掛け布団を手放して素早くベッドから下り、僕が部屋を出た時点で座っていた場所に正座した。試合中のスポーツ選手のような俊敏な動きだった。こみかみをかき、取り繕うようにはにかみ笑いをこぼす。少し遅れて、キャミソールの裾が乱れていることに気がつき、すぐさま両手で直す。僕は千帆の正面に腰を下ろす。
「えっと、どうして僕のベッドに……」
「ごめんね。あたし、いつも布団で寝ているから、ベッドで寝てみたいなっていう誘惑に駆られたの。いない隙にちょっとだけと思ったんだけど、ふかふかで、思いのほか気持ちよくて、つい……」
僕がいつも寝ている寝具だからこそ、気持ちよかった。そう言われたような気がして、頬が熱くなる。
「いやいや……。いいよ、謝らなくても。僕は気にしていないから」
平然と言葉を返したつもりだけど、少し早口になってしまった。顔だっていくらか赤らんでいるに違いない。握り拳を口元に宛がって空咳をして、本題に入る。
「トイレだけど、無事に完成したよ。僕用と千帆用の二つ」
「それはよかった。大変じゃなかった?」
「そんなに深く掘らなくていいし、なんとか。千帆も行くならどうぞ」
「そうしようかな」
「千帆のトイレは西側、スコップが置いてあるほうだから。終わったら土をかけてね」
「了解。じゃあ、行ってきまーす」
千帆は部屋を出て行った。ベッドで勝手に寝ていたのがばれて、決まりが悪かったから逃げるように去った、という感じではなかった。
後ろ手にドアが閉ざされる瞬間まで、僕はタイトなジーンズに包まれたお尻を目で追った。つい見つめてしまった、と表現したほうが正しいかもしれない。ほどよく肉がついていて、きゅっと引き締まっていて、かわいいお尻だと思う。
玄関ドアが開閉される音を聞き届け、ベッドの脇まで移動する。シーツに顔を近づけてみると、千帆の匂いがした。主張はいささか控え目だけど、申し分なく甘美だ。
そういえば、千帆は不自然なくらいに熱心にベッドを見ていた。
もしかして、千帆は僕に対して肉欲を抱いているのだろうか?
推測が正しいかは分からない。僕の顔や体をまじまじ見つめてくるとか、性にまつわる話を振ってくるとか、あからさまな言動はこれまでに見られなかった。だから、少なくとも、抑えるのが難しいほど強い欲望を胸に秘めているわけではないはず。
ただ、彼女は僕からのキスを受け入れる姿勢を示した。
高校生同士が交わすキスと、僕が求めている生々しい行為には乖離がある。そう言ってしまえばそれまでなのだけど。
千帆は今ごろ、どこでなにをしているのだろう? 僕が掘った穴に屈んで、ショーツを下ろしたところだろうか。
彼女のありのままの陰部を、僕はこの目で見た。衣服を身にまとおうと立ち上がったさいに、図らずも股間が目の高さに来たので、短時間ではあったけどはっきりと視界に映し出された。
その股間から、今、尿が流れ出した。屋外で発生したささやかな音が、室内まで聞こえてくるはずもないのに、せせらぎにも似た水音を僕はたしかに聞く。穴底の土が水圧でえぐられていく音は、かわいい顔に似合わず下品で、だからこそ淫らだ。
音がやみ、千帆が飲んでいたコーヒーの缶が目に留まる。
小用を足し終わったのなら、戻ってくるまでは一分もかからないだろう。彼女の場合のように、笑って誤魔化せる失態ではない。愚行は早めに済ませてしまおう。
千帆の缶を手にとり、唇をつけ、缶を少し傾けて一口だけ飲む。
あまりの甘美さに、唇から缶を離した瞬間、思わず身震いをしてしまった。
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