終末の二人

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「恥ずかしかったー。誰も見ていないって分かっていても、野外で服を脱ぐのは緊張しちゃうよね」  部屋に戻ってきた千帆は、恥ずかしがるどころかむしろにこやかに、そう報告した。  僕たちはコーヒーの残りを飲みながら話をする。いまひとつ盛り上がりに欠けるけど、途切れずにだらだらと続いていく、そんな会話となった。  世界には僕と千帆の二人きり。  二人揃ってその現実を受け入れて、では、これからどう行動すればいいのか。  僕たちは多分、それについて話し合うべきなのだろう。千帆も当然、そうするべきだと認識しているはずだ。  だけど、実行には移さない。  百パーセント受け入れたつもりでいたけど、実際には九十九・九パーセント止まりなのかもしれない。百と九十九・九のあいだには、小さいようで大きな差が広がっている。それゆえに、重大な議題について話し合うことを避けている現状がある、ということなのか。  普段は人が多い徳島市内を歩いて、通行人と出会わなかったという結果が出ても、まだ受け入れきれない。  人間は、なんて弱い生き物なのだろう。  やがて話題も枯渇してきて、コーヒーの缶も空になった。黙って、俯きがちに、広いとはいえない密室で面と向かっているのは、あらゆる意味で気詰まりだ。 「一階、見に行かない? 案内するよ」  僕の提案を、千帆は快く了承した。  千帆はさっきからずっと、テレビのリモコンの電源ボタンをしつこく連打している。しかし、テレビ本体はうんともすんとも言わない。 「電気が通っていないから、つかないよ」  理解した上でやっているのは分かっていたけど、一応言葉をかけておく。真っ暗な冷蔵庫の中身を確認しながらの発言だ。加熱しなくても食べられそうなものは、意外にもたくさんある。多すぎて、逆に食べきる前に腐らせてしまいそうだ。 「なにかの間違いでつかないかなぁ」 「残念だけど、無理だろうね」  冷ややかに言葉を返したけど、気持ちは痛いほど分かる。受信料を返せと抗議したくなるようなくだらないテレビ番組も、BGM代わりに流せば、場の雰囲気が重苦しくなるのを防いでくれる。その手が使えないのは、今の状況だと少々きつい。  冷蔵庫のドアを閉める。千帆はリモコンをダイニングテーブルに置き、リビングのソファに腰を下ろした。  僕はキッチンの窓越しに外を見やる。見えるのは、高柳家に隣接するアパートの駐車場。普段は常に何台か駐車されているのだけど、今は一台も停まっておらず、閑散としている。  僕たち二人を除く人間と動物以外にも、この世界から消えてしまったものがある。自動車だ。高校から高柳家に戻ってくるまでのあいだ、歩道に停まっている自転車は一台も見かけなかったから、乗り物全般が消えた、と解釈するべきなのだろう。なにが消えるか消えないかの決定が、いかなる基準によって下されたのかは、現時点では謎だ。僕たちが気づいていないだけで、他にも大事なものがこの世界から消滅しているかもしれない。  殺風景な景色を直視しながら、最後の〇・一パーセントを埋める方法は時間しかないのでは、と考える。  悪夢のような一日が終わり、夜になりました。眠りました。朝が訪れて、目が覚めました。改めて探してみましたが、やはり僕たち以外の人間はどこにもいませんでした。僕たち以外の人間が消えたのは、どうやら動かしようがない事実のようです。事実は事実だと潔く認めましょう。旧世界を未練がましく懐かしむのではなく、新世界を前向きに生きていくべきです。  そのような過程を経なければ、僕たちは前に進めないのかもしれない。 「シューマ、これからどうする?」  聞こえてきた千帆の声は、先ほどよりも少し遠い。いつの間にか、リビングの窓を覆うカーテンの隙間に顔を突っこみ、外の景色を眺めている。 「選択肢、いろいろあると思うけど」 「そうだなぁ」  いかにも考え中といった返事をして、窓に背を向けてダイニングへと移動する。 「次にしなきゃいけないことは、夕食かな。電気がないから、明るいうちに食べておきたいし」  僕はダイニングテーブルの椅子を引いて腰かける。僕の席ではなく母親の席だったけど、今となってはそんなことはどうでもいい。千帆は体ごと僕のほうを向いた。 「さっき食料品の在庫をチェックしたんだけど、一週間ぶんくらいはあった。だからここで食事できるし、もちろん大毛島に帰ってもいい。ただし帰る場合は、暗い中を移動するのは避けたいから、早めにここを出たほうがいいと思う」  千帆はこちらに歩み寄ってきた。ソファを素通りしてダイニングまで来て、僕の向かいの椅子に座る。  千帆は頬杖をつき、右斜め前方の虚空を見ながら黙考している。やがて両腕を組んで天板に置き、その上に胸をのせるというポーズをとった。必然に強調されたその部位に、僕の視線は引き寄せられる。見れば見るほど吸いこまれそうになる、深い、深い谷間。 「こっちがいい」  凛とした声に、僕は我に返って顔を上げた。千帆は僕の顔へと真っ直ぐに眼差しを注いでいる。 「あたし、シューマの家にいたい。食事はシューマの家で済ませたい。理由は、なんとなく、かな。説明しろって言われると困るけど、とにかくそういう気分なの」 「そっか。だったら、ここで食べよう」 「……あの。もう一つお願いなんだけど」 「なに?」 「一人きりになる時間が欲しいの。夕食の時間まででいいから。シューマといるのが嫌になった、とかじゃなくて、純粋に一人きりになりたい気分なの」  胸をまじまじと見ているのを目撃されたらしいあとだけに、それが理由で距離を置きたいのかとも思ったけど、どうやらそんな表面的な話ではないらしい。少し硬さが感じられる真剣な表情が、そのことを如実に物語っている。 「ここに残りたいって言ったあとで、図々しいお願いかもしれないけど、少しだけワガママを通させて。……駄目かな?」 「いや、駄目じゃないよ。全然駄目なんかじゃない。朝からずっと二人で行動してきたから、そういう気持ちになるのも無理はないよ。千帆が言い出さなかったら、僕から同じようなお願いをしていたかもしれないし。お互いにとって悪くない選択だと思う」 「ありがとう」  表情が少し柔らかくなったようだけど、芯にあるものは変わっていないように見える。望みが叶えば解消されるのだろうか? そうであってほしいと願わずにはいられない。 「じゃあ、妹の部屋を使って。妹の部屋は、階段を上ってすぐ右。ドアにひらがなで『まゆる』って書いたプレートがかかっているから、分かると思う」 「ありがとう。そういえば、妹さんがいるって言ってたね」 「うん。三つ下なんだけど」 「シューマは頼り甲斐のあるお兄ちゃん? 真由瑠ちゃんにとって」 「僕としてはそのつもりだったけどね。むちゃくちゃ生意気言うし、尊敬はされていなかったと思う」 「そっか。でも、なんだかんだで頼りにしていると思うよ、きっと」  ようやく、千帆らしい笑顔が見られた。僕は二重の意味でほっとした。 「じゃあ、使わせてもらうね。私物を勝手に触るとか、そういうことは絶対にしないから」 「いや、そこまで気をつかわなくてもいいよ。……もう永遠に帰ってこないし」 「あ……」  沈黙。放っておけば夜が明けるまで続きそうだ。千帆は無理矢理気味にほほ笑み、椅子から腰を上げる。気まずい空気になるのを避けたいのは僕も同じなので、無理をしない程度に明るい声を出す。 「僕のほうから二階へは行かないから、ゆっくりしてね。あ、でも、夕食の時間には下りてきてほしいかな」 「暗くなる前にだから、空が紅くなるころでいい?」 「そうだね。それまでに夕食を用意しておくから、ごゆっくり」  後ろ姿がドアの向こうに消える。足音が遠ざかり、ほどなく無音に溶けた。  千帆は約束どおり、西の空が夕焼け色に燃え盛るころに一階に下りてきた。ほのかな照れ笑いを浮かべていたのは、どういう意味だろう。顔色はよく、涙の跡は認められない。 「おかえりなさい」  階段の上り口で出迎えた僕は言葉を贈る。最善の言葉を選べた自信はなかったけど、千帆は曇りのないほほ笑みを返してくれた。だから、僕も心の底からほほ笑むことができた。 「いい時間を過ごせたみたいだね」 「おかげさまで」  ほほ笑む顔に淡い恥じらいが滲む。その表情を、世界で一番きれいだ、と僕は思う。 「夕食を用意してあるから、いっしょに食べようか」  別れる前まで座っていたのと同じ椅子に、それぞれ腰を下ろす。  料理はすでに卓上に並べてある。食パンにジャム、ハムにソーセージ。包丁で食べやすいサイズにカットしただけだけど、生野菜のサラダも作ってある。ドレッシングは市販のものが三種類。飲み物はミネラルウォーターとオレンジジュースの二種類。デザートとしてチョコレート菓子とフルーツヨーグルトも出した。  いただきます、と声を揃え、僕たちは食べはじめる。 「その野菜、ミネラルウォーターで洗ってあるからきれいだよ」  食パンにソーセージを挟み、ケチャップをつけただけのホットドッグを頬張りながら、サラダを小皿に取り分けている千帆に告げる。彼女が食べているのは、オレンジママレードといちごジャム、二種類のジャムをつけた食パンをサンドイッチにしたもの。 「水は貴重だから葛藤があったけど、栄養をとるのも大事かなと思って」 「そっか。水道が使えないんだったね。勝手が違うから、準備が大変だったんじゃない?」 「まあね。そもそも食事の準備はほとんどやらないから、そういう意味でも大変だった」 「早めに下りてきて、手伝ったほうがよかったね。ごめんね、気がきかなくて」 「気にしないで。洗って、切って、盛りつけてみたいな、簡単な作業ばかりだから」 「でも、こういうときだからこそ協力したほうがいいと思うし、今度からは手伝わせて。――はい、サラダ」  菜箸を使って手際よくサラダを小皿に装い、ドレッシングをかけて僕へと差し出す。黙礼して皿を受けとり、さっそく口に運ぶ。味わいは単純だけど、昼に食べたのはパンと菓子だけだったので、野菜を摂取できるのはありがたい。 「あ、飲み物をいれるね」  お返しとばかりにグラスにジュースを注ぎ、千帆の前に置く。 「冷たくないから、そんなに美味しくないと思うけど」 「夏場じゃないからちょうどいいよ。うん、美味しい」 「電気もガスも使えないから、要冷蔵の食品は早いうちに食べておかないとね」 「だからサラダなんだ。シューマって頭が回るんだね」  まあね、とばかりに頷いてみせる。指摘されて初めて気がついたというのは、僕だけの秘密だ。  駄目になった生鮮食品の処理のことなど、食品関係の問題について話し合っておきたかったけど、今のところは胸に秘めておく。千帆と他愛もない話をしながら食事を楽しむひとときよりも、優先させるものはなにもない気がしたから。  千帆と手分けをして懐中電灯を探したのものの、高柳家にそんな代物は存在しなかった。徹底的に捜索すれば、あるいは見つかったかもしれないけど、探しているうちに太陽は地平線に沈んでしまった。  暗い気持ちを抱えているときに、空が完全なる闇に支配されると、全世界が暗夜に覆われた気がするから不思議だ。地球は丸い。日本が夜なら、地球の反対側は昼間。小学生のときに、あるいはそれよりも以前に誰かから教わった、初歩中の初歩の常識だというのに。  白黒写真しかなかった時代も空は青かったことを想像しにくい、とはまた違う理屈なのだろうけど、二つのあいだに大きな差はないように思う。深刻な社会問題が報じられるたびに、当事者の想像力の欠如が糾弾されるけど、人間の想像力なんて万能からは程遠い。  頼みの綱は、僕のスマホのライト機能だった。千帆は自分のスマホは家に置いてきていて、今日のところはとりに戻るものも難しい。だから、明かりはこれ一台のみだ。  僕たちはダイニングテーブルに対座し、光を発するスマホをテーブルの中央に置き、無駄話をして時間をつぶす。共通の趣味であるマンガのこと、黒猫のルドルフの思い出話、僕の自宅の近所にある店について。取り上げられたのは気軽に話せる話題ばかりだ。  闇の中、ささやかな明かりを囲んで過ごす時間は新鮮だったけど、電気の供給がストップしている現状、充電は減っていく一方だということに遅まきながら気がつた。  現時点で唯一確認できる、自分以外生き残りである千帆と懇談することは、決して無意味ではない。ただ、今後のことを考えれば、スマホはなるべく長く生かしておきたい。電話をかけられず、ネットにも繋がらない代物だけど、きっとなにかの役に立ってくれるはず。役立つ機会が限られているのだとしても、大事に大事に使っていくべきだ。 「それじゃあ、もう寝ちゃおうか?」  提案はこちらからした。話をする以外に暗闇の中でできることは、それくらいしか思いつかなかった。 「そうだね。今日は本当にいろいろなことがあったから、早めに休んだほうがいいと思う」  他にこれという案が浮かばないのは千帆も同じらしく、すんなりと同意を得られた。 「じゃあ、千帆が寝るのは妹の部屋、ということでいいかな」 「もちろん。それじゃあ、おやすみなさい」  千帆は胸の前で控えめに手を振り、二階に上がっていく。あくびを漏らすことも、疲れた顔を見せることもなかったけど、疲労感はかなり強いのかもしれない。そんな疑いを抱かせる足の動かしかたであり、背中だった。  当たり前だ。たった二人を残して地球上から生物が消滅したのだから、精神的にダメージを受けないほうがどうかしている。  今のところ自覚はしていないけど、僕もきっとそうなのだろう。 「……寝よう」  戸締りを確認して、それから二階に上がった。
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