終末の二人

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 パジャマには着替えずにベッドに仰向けになる。静寂と暗黒が世界を満たしている。  なによりも先に意識したのは、静けさでも暗さでもなく、壁一枚隔てた空間に千帆がいる、という事実。  隣室からは物音一つ聞こえてこない。使い古された表現だけど、死のように静まり返っている、という形容が一番しっくりくる。  真由瑠がいたときはうるさかった。携帯電話から流す音楽の音は、イヤホンで聞く習慣がついたのを機に収まったものの、電話で友達と話すさいの大声や、不必要にも思える足音や物音など、なにかと騒々しかった。それが原因で口論になったことも何度もある。真由瑠は強気で生意気なくせに泣き虫で、両親は娘を贔屓にしていた。だから真由瑠が親に泣きついた時点で、僕の敗北は決まったも同然だった。  真由瑠に言い負かされるか、両親に一方的に全責任を負わされるか。どちらにせよ僕が非を認めて、謝って、一件は落着した。  負けるばかりが僕の人生だった。僕の人生において、負け犬の役を最も多く演じてきたのは僕だった。  今となっては、聞こえてくる雑音に舌打ちをすることも、それを耳聡く聞きとった真由瑠に逆切れされることもない。その事実を噛みしめると、ただただ胸が切なくなる。静けさがその感情を加速させるようだ。隣室から真由瑠に起因する音が聞こえてくることは、もう二度とない。  真由瑠や両親に対するネガティブな感情が、こんな形で解消されるとは思いもよらなかった。  消えたのは一時的かもしれない。また会えるかもしれない。  そう自分に言い聞かせたところで、なんの慰めにもならない。今日一日かけて現実を噛みしめた僕は、どう足掻いてもその可能性を信じることができない。  暗い気持ちになるのは嫌だから、消えてしまった人たちのことはあまり考えたくない。暗い想念に蓋をして、半ば強制的に思案を終了する。  薄情な対応なのかもしれない。でも、彼らには悪いけど、僕の心の弱さを考えればそれが賢明だ。  無理に明るく振る舞う必要はないが、暗くならないよう心がけるべき。  千帆が打ち出したその方針に従っているだけだ、と言えるかもしれない。  千帆がいなかったとしたら、僕はきっと精神的なプレッシャーに押しつぶされて、発狂していただろう。僕は心の弱い人間だ。誇張でもなんでもなく、きっと廃人も同然になっていた。千帆は常に僕の隣にいることで、死よりも最悪な事態に陥るのを防いでくれた。本人はそのつもりはなかったのだとしても、結果的にそうなった。彼女には感謝の気持ちしかない。感謝してもしきれない。  明日にでも、その気持ちを伝えないと。面と向かって、声に出して。  ただ謝意を伝えるだけではなく、行動で返礼をしたい。今のところ、僕は千帆のためになるようなことはしてあげられていないけど、できることがきっとあるはずだ。  千帆のことを思ったのを境に、いっそう強く、千帆のことが気になりはじめた。  彼女はもう、眠ってしまったのだろうか。眠りたいのに眠れずにいる、なんてことはないだろうか。  どちらの部屋のベッドも、相手の部屋に接しているのとは対面に当たる壁に接する形で置かれている。部屋同士は隣り合っているという位置関係だけど、距離的に遠いせいで、互いベッドの上にいる限り、一定以上の音量でなければ隣室からの音は聞きとれない。すすり泣きをしていたとしても、悪夢にうなされて寝返りを打ったとしても、その情報はキャッチできない。  夕方に一人の時間を過ごしたあと、千帆はすっきりした顔をしていた。別れるさいにも、一人になることを寂しがったり、怖がったり、という素振りは見せなかった。疲れているようだったから、ベッドに潜りこむや否や眠ったのだろう、と思う。  それでも、千帆の現状をたしかめたい気持ちは消えない。  上体を起こすと、スプリングがかすかに軋んだ。ベッドから下り、隣室との境界をなす壁まで歩み寄る。耳を宛がってみたものの、なにも聞こえない。少しの躊躇いを挟んで、卵の殻にひびを入れるように握り拳を弱くぶつける。 「千帆、起きてる?」 「うん、起きてる」  レスポンスは早く、声は遠かった。ベッドの上、だろうか。少し間があって、足音が近づいてきた。 「シューマ、どうかしたの? そっちに行こうか?」  今度の声はさっきよりもずっと近い。顔を合わせることを禁じられたわけではないのに、真っ暗闇の中で、壁を隔てて会話をしているのだと思うと、なんだか不思議な気持ちだ。 「いや、緊急事態というわけじゃないんだ。あまりにも静かだから、ちょっと気になって。そっちはどんな状況?」 「寝ようと思ってベッドに横になってた。困っていることとかは特にないよ」 「他人のベッドだけど、眠れそう?」 「うん、大丈夫。特に問題はないよ。じっと横になっていればすぐに眠れると思う」 「そっか。邪魔してごめんね」 「……シューマ、眠れないの?」 「いや、そういうわけじゃないよ。でも、千帆が眠れそうだって分かったから、安心できた」 「そっか。じゃあ、もう寝ようよ」 「そうだね。……ああ、そうそう。僕の部屋のドア、鍵はかけてないから。なにかあったらすぐに駆けこんできて、容赦なく叩き起こしてくれていいから」 「うん、そうする。おやすみなさい」 「おやすみ」  そういえば、おやすみを言うのを忘れていたなと、おやすみという言葉を口にした瞬間に気がついた。  再びベッドに潜りこむ。少し遅れて、隣室のベッドのスプリングが軋む音がかろうじて聞きとれた。千帆は僕よりも少しだけ長く、壁際に佇んでいたらしい。たった二・三秒のあいだではあるが、僕よりも確実に長く。  その短時間に、彼女はなにを思ったのだろう?  考えると眠れなくなってしまいそうだったので、瞼を閉ざして頭の中を空にした。  目が覚めると真っ暗だった。  十五センチほど開いているカーテン越しに窓外を窺うと、室内と同じ暗さに包まれている。  今、何時なのだろう。  枕元のスマホを手にとろうとして、時計機能は使い物にならないことを思い出した。東の空に黎明の気配は感じられない。時間帯としては夜中、だろうか。まだ暗くなる余地を残しているのか、黎明へと向かう一方なのかは、なんとも言えない。  それとも、実際は朝になっているものの、闇が晴れないのだろうか?  まさか。そんなこと、有り得ない。有り得るわけがない。  心の中で否定した直後、あたかも否定したことを否定するかのように、世界から人が消えるという非現実が現実と化したのだから、別の非現実が現実になったとしてもなんら不思議ではない、という思いが胸に到来した。  全身に鳥肌が立ち、僕の心と体は数秒のあいだ凍りつく。  本当にこの世界は、二十四時間三百六十五日、夜が支配するようになってしまったのだろうか?  そんなはずはない。時計が機能しないから確認はとれないだけで、今はおそらく深夜。あと何時間か経てば、何事もなく太陽が昇るはずだ。  世界から人が消えたという厳然たる現実を考慮すれば、絶対に有り得ないと言い切るのは憚られる。しかしながら、現状、今が夜なのか昼なのかを判断する方法はない。真相が明らかになるときがいずれ来ると信じて、今は大人しくしていよう。睡眠をとって、体力の回復に努めよう。そのほうがいい。そうするべきだ。  再び目を瞑り、ひたすら眠りの気配を待ち侘びる。睡魔は思いのほか迅速に僕に魔手を伸ばし、意識を侵食しはじめた。  あと一歩で夢の世界へ行ける、という段階に足を踏み入れたところで、小さな音を耳にした。  反射的に上体を起こした。ドアに注目したのは、上半身を起こした場合、顔が向く方向がそちらだったというのもあるけど、そちらの方向から音が聞こえた気がしたからでもある。  耳を欹てたものの、音はもう聞こえてこない。  空耳だったのだ。そう結論を下しかけて、隣室のドアの鍵が壊れていることを思い出した。そして、その事実を千帆に伝え忘れていたことに気がつく。  千帆は無事なのだろうか?  ベッドから下りようとすると、また音が聞こえた。ノックの音だ。 「シューマ、シューマ」  続いて聞こえてきたのは、紛れもない千帆の声。普通に呼びかけるのではなく、いくらか抑制されたボリュームだ。切迫感は特に伝わってこない。 「起きてるよ。というか、たった今起きた。どうしたの?」 「トイレ行きたい。明かりがなくて怖いから、ついてきてほしいんだけど」 「いいよ。ちょっと待って」  緊急事態どころか異常事態ですらないと判明して、心から胸を撫で下ろした。昼間の恰好のまま寝ていたので、着替える手間はかからない。ベッドから出て、スマホを手にドアを開ける。  千帆は、上はキャミソール、下はショーツ一枚という格好だ。ジーンズは、窮屈だからという理由で脱いだのだろうか。白一色のそれは夜目にも目立っていて、鼓動が少し速くなる。 「シューマ、起こしてごめんね。もしかして、寝ぼけてる?」 「いや、そんなことはないよ」  否定こそしたものの、声がいくらか上擦ってしまった。  寝ぼけているのは、千帆のほうじゃないか。もう一枚、下に穿かなくていいの?  あと少しのところでそう指摘しそうになったけど、喉の奥に押し留める。ひどくつまらない指摘だと思ったからだ。  近所のコンビニまで買い物に行くだけなのに、わざわざメイクをするのは面倒だから、すっぴんで出かけるのと同じノリで、下着姿でトイレまで行くことにした。きっとそういうことなのだ。だから、いちいち苦言を呈する必要はない。そう思うことにしよう。 「じゃあ、ついてきて」 「はーい」  スマホのライト機能を作動させ、僕が先頭になって階段を下りる。 「足下に気をつけてね」 「うん。ありがとう」  千帆は返事をしたあとで、大きなあくびをした。緊張感のかけらもないあくびだったけど、僕はくすりとも笑えなかったし、心臓が脈打つリズムは速いままだ。  なにかが起こりそうな、そんな予感がする。  予感が当たってほしいのか、当たってほしくないのか。分からなくて、気持ちが安定しなくて、それが苦しい。 「シューマって、優しいよね」  階段を下りきったところで、唐突に千帆が沈黙を破った。少し眠たそうな声だ。申し合わせたわけではないのに、僕たちはその場に足を止めていた。 「夜中に急に起こしたのに、文句一つ言わずにお願いを聞いてくれるなんて、すごく優しい」 「当たり前のことをしただけだよ。こういう状況なんだから、助け合わないと」 「そういうことをさらっと言えるところとか、本当に優しい人なんだなって思う。シューマには優しくしてもらってばかりで、あたしはシューマのためになにもしてあげられていないよね。晩ごはんの準備だって全然手伝わなかったし」  僕は言葉を返せない。反論の言葉自体は浮かぶのに、声が出ないのだ。変に緊張してしまっている。返答がないことに対して、怪訝に思ったらしい気配が伝わってきた。千帆は僕の後ろに立っているから、どんな表情を浮かべているのかは分からない。今すぐに知りたいような、知るのが怖いような。  今、千帆は上下ともに一枚だけで、ほとんど裸に近い恰好をしている。  その恰好で、隣の部屋で寝ていた。ドアの鍵が壊れているせいで、新たな使用者となった千帆も、隣室の使用者である僕も、出入りしようと思えば自由に出入りできる部屋に。  そして今、別々の部屋にいたときよりも近い距離を隔てて、僕たちは同じ空間に身を置いている。  なにかが起きるのは、単なる予感ではなく、絶対的に確実な未来だとしか思えない。 「シューマ、ぼーっとして、どうしたの?」 「あ、いや……」  肩越しに誤魔化し笑いを投げかけ、僕は再び歩き出した。  なにをやっているんだ、と思う。  世界から僕たち以外の人間が消えたんだぞ。非常事態の真っ只中にいるんだ。浅ましいことを考えている場合じゃない。  夕飯の準備を手伝わなかった。ただそれだけのことで、千帆は自らの対応を悔やんだ。なんて真面目な子なのだろう。僕が千帆に助けてもらったことのほうが圧倒的に多いのに。  僕も千帆を助けてあげないと。もっと千帆の役に立たないと。  暗い中、トイレまで案内する。ささいなことかもしれないけど、それも立派な千帆への貢献だ。目の前のことに集中しなければ。  玄関ドアを開けると、五月にしては冷たい夜気が頬を撫でた。一切の人工の明かりが不在の原初の闇は、空気の冷たさと相俟って、僕を慄然とさせた。ただ、女の子の裸を覗こうとする不届き者も、襲ってくる野生動物もいないのだと思うと、精神状態はすぐに落ち着きを取り戻した。  唯一の懸念は、未来になにかが起きるのが確実なのだとすれば、そのなにかとはなんなのか、ということだけど――。  ライトでトイレを照らす。穴、トイレットペーパー、スコップ。必要なものはちゃんとひと通り揃っている。 「……寒くない?」  振り向いて、今度はちゃんと千帆の顔を見ながら問うた。そんな恰好で、という一言ははぶいた。 「すぐ済ませるから大丈夫。スマホ、貸してくれる?」 「どうぞ」  手渡すと、千帆は光を自分の顔へと向けた。照らし出された顔はひどく真面目くさっていて、いささか状況にそぐわない。 「シューマ、あたしがしているあいだは、ずっとそこにいてね。玄関のドアのところに」 「え……」 「こっそり部屋に戻るとか、そういうのはほんとやめてね。明るいときならいつでもふざけていいけど、今は駄目だからね。絶対に駄目だから。ふざけたら本気で怒るから。シューマ、頼んだよ」 「別にいいけど……。本当にいてもいいの?」 「暗くて見えないから、問題ないよ。音は、聞こえないふりをして。臭いは、すぐに土をかけるから大丈夫。悪いけど、お願いね」  足下を照らしながら、千帆は穴を目指して遠ざかっていく。  この場にいてくれとは言ったけど、一挙手一投足を見守っていてくれと頼まれたわけではない。それでも千帆を見つめてしまう。後ろ姿を目で追ってしまう。  穴の傍ら、トイレットペーパーとスコップが置かれた対岸で千帆は足を止めると、しきりに周囲を見回しはじめた。足下は、見ていない。つまり、足を踏み外して穴に落ちるのを怖がっているわけではない。  下着をまだ脱いでいないことから察するに、おそらく人間だ。千帆は羞恥心から、人間に見られないかを警戒しているのだ。僕のほうを見向きもしないということは、僕以外の誰かに見られることを。  僕と千帆以外の人間はもう、地球上から跡形もなく消えてしまったというのに。  こみ上げてくるものがあった。その感情を分析しようとは思わない。半ば無意識に移動を開始していた。なにがしたいのか、なにをしようとしているのか、自分でも分からないままに。  足音は完璧に殺して歩けたと思う。しかし、迂闊にも小石を踏みにじってしまった。人も生き物も死に絶えた夜に、その音はあまりにも大きすぎた。千帆が振り向き、深更の闇の中で半裸の体が小さく揺れた。  僕はそのまま歩きつづけ、穴を挟んで彼女と相対する。ワンテンポ遅れて、スマホから放出される光が僕を照らし出した。 「……シューマ」  眩しすぎて顔を正視できない。千帆の目に、僕の顔はどう映っているのだろう。  歩くのをやめた瞬間、自分がなにをしようとしているのかを明確に悟った。光を当てられて、名前を呼ばれて、しようとしている行為の重大さを自覚した。  多分、千帆が足音に気がついていなければ、僕は実行に移していただろう。  でも、感づかれてしまった。  僕は臆病者だから、誰かが見ているところで悪いことはできない。世界から僕たち以外の人間が消えてしまっても、相手が千帆でも、それは例外ではない。 「シューマ、どうしたの? 穴の位置も分かったし、大丈夫だよ」  ああ、と思う。  千帆が事前に察知したのは、悪事ではなくて、単なる不可解な行動だった。僕が千帆を不愉快にさせる行動をとる可能性なんて、彼女は一ミリも考えていない。  千帆。君はなんて純粋で、なんて残酷なんだ。 「寝ているところを起こされて、待たされて、迷惑だとは思うけど、でも、本当に怖いの。だから、ごめんだけど待ってて。付き合わせちゃって、本当にごめんだけど」  行動の異常さをストレートに指摘されていたならば、僕の本能は逆上し、自暴自棄になって行為に踏み切っていたかもしれない。千帆は図らずも、我が身を守るための最善の行動をとったのだ。 「こっちこそ、邪魔してごめん。玄関のドアの前で待ってるから」  弱々しくつぶやき、踵を返す。背中を追跡する視線をひしひしと感じる。  やるせなかった。自分が情けなくてたまらない。  玄関先の短い階段を上がり、ドアに背中を預ける。声が出ないように、それでいて深々と息を吐く。  衣擦れの音が聞こえた気がして、瞳と意識を夜空に注ぐ。星がちらほらと出ているけど、多いのか少ないのか、星空を眺めた経験がほとんどない僕には分からない。集中力を保てず、星の数を数える作業は早々に断念する。ただ、短時間とはいえ単純作業に従事したおかげで、心はだいぶ冷静になった。  ほどなく、スコップで土を掘る音が聞こえてきた。取得できる情報は音声だけだけど、ゆっくりと作業を進めているのが分かる。僕のもとに戻って来づらいから、わざとそうしているのだろうか。  スコップの刃が土に刺さる音が聞こえた。足音と光が僕に接近し、闇に慣れた目に千帆の姿が映る。見えていないと思ったらしく、ライトを自らの顔に向けた。「お待たせ」という言葉が表情で表現されていたけど、口元だけをピックアップしてみると、苦笑いをしているように見えなくもない。 「待っていてくれて、ありがとう。怖かったけど、なんとか」 「……うん」 「じゃあ、戻ろうか。はい、これ」  ライトが灯ったままのスマホが差し出される。  受けとり、人肌に起因するぬくもりを感じた瞬間、再びこみ上げてくるものがあった。  背中を離してドアを開く。千帆は僕の目を見る。顎をしゃくって促すと、先に入った。  僕はドアノブから手を離すと、スマホを利き手に持ち替え、思いきり足下に叩きつけた。  硬いものが砕ける音が響き、スマホは僕から逃げるように地面を転がる。閉まりかけていたドアが全開にされ、驚愕の色を浮かべた千帆の顔が現れた。  衝突した瞬間にライトは消えていたけど、目で追っていたのでスマホの場所は把握できる。真っ直ぐに歩み寄って拾い上げる。ディスプレイを指先で撫でると、蜘蛛の巣状にヒビが入っているのが分かった。電源ボタンを何度押してもなにも映らない。夕方、つくはずのないテレビのリモコンをいじっていた千帆のことを思い出した。  その千帆のもとまで引き返し、スマホを手渡す。彼女は確認作業を行ったあと、怖いものを見るような目で僕を見た。 「どうしてこんなことをしたの? 貴重な明かりなのに、スマホを壊すなんて――」  言葉を切り、千帆は頭を左右に振る。暗い中でも、その動作をしたのがはっきりと分かった。 「ううん、違うの。シューマがしたことを咎めるつもりはないんだけど、でも、いきなりだったから驚いて」 「分からない」  大声を発したわけでも、発言を遮るようなタイミングで言ったわけでもない。でも、僕のその一言で、千帆は息を呑むように口を噤んだ。 「感情がこみ上げてきて、どうにかなりそうだったから、代わりにスマホに犠牲になってもらったんだ。なんでなのかは――ごめん、それも分からないんだ。自分でも馬鹿なことをしてしまったって思うけど、でも、それ以上のことは」  いったん口を閉ざし、数拍を置いて「でも」と続ける。 「千帆のせいじゃないから。寝ていたところを起こされて、無理やり付き合わされたから苛立っていたんだって、もしかしたら千帆は思っているのかもしれないけど、そんな小さなことじゃない。そんな小さなことに腹を立てたわけじゃないんだ。――だけど」  またもや中断し、今度はほとんど間を開けずに続ける。ほほ笑んでみせたつもりだけど、上手くいっただろうか? 目が慣れてきたとはいえ、明かりのない夜の中にいることを、僕は感謝しなければいけないのかもしれない。 「もう大丈夫。感情を発散したから、もう大丈夫だよ。もうおかしな行動はとらないし、千帆に迷惑はかけない。部屋に帰って、寝て、朝が来たら、確実に大丈夫だから。だから、もう寝よう」  人畜無害な人間だということをアピールするように、壊れたスマホをていねいな手つきでジーンズのポケットに仕舞う。  何秒間かの沈黙のあと、千帆は「分かった」と答えた。その声は少し掠れていた。
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