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0. ここではないどこかへ
どうして、こんなことになってしまったのだろう、と考える。ただ、ほんの少し、理不尽ばかりが繰り返される日常を変えたかっただけなのに。
ぱしゃん、と水の中に踏み込む足音が聞こえた。外は雨だがここは屋内だ。水音がするほどに濡れるはずはないのに。
「酷い有り様だな」
その声は、確かに聞き覚えのあるものだったが、それでも思考が茫洋として定まらない。ただ立ち尽くしていると、目の前に黒い影が立つ。
「お前がやったのか?」
何を、と問おうとして声が出なかった。口を開くと、鉄錆の味がする液体が流れる。頭のてっぺんから足の先まで、べっとりと全身が赤く染まっていることにようやく気づいた。そのせいで、うまく目を開くことさえできない。
それでも何とか周囲に目を向けると、数人の男たちが倒れているのが見えた。一様に、黒ずくめの衣装を身に纏っているが、その周囲には赤い液体が流れ出ており、その体にはもう命が宿っていないことが明らかだった。
記憶を探るが、霞がかったように何もはっきりしない。だが、曖昧な思考とは裏腹にどうしてだか「違う」とかすれた声で答えていた。目の前の影は、なるほど、と勝手に納得したように頷く。
「馬鹿な連中が無駄に殺し合ったのか。で、お前は、無害な連中をその水で眠らせただけか」
こくりとまた首が勝手に頷く。まるで傀儡にでもなってしまったかのように自分の意思とは関係なく。唯一自由になる視線を上げると、ようやく目の前に立つそれが影ではなく、倒れている男たちと同じ黒ずくめの衣装に身を包んだ背の高い男だと気づいた。
彼は、じっと、何かを探ろうとするかのように、こちらを見つめる。
「ディル」
まっすぐな視線で、それが自分の名だと他人事のように思い出した。
「これがお前の望んだことか?」
「違う」
「なら、もう一度試すか」
「嫌だ」
否定の言葉ばかりが口からこぼれる。何が起きたかさえ定かではないのに、もう一度、というその言葉に全身が震えるほどの拒絶感を覚えた。
「……ガキが」
だから言っただろう、とごく小さく吐き捨てて、男はディルを軽々と抱き上げた。その拍子に、男の頬にまで血が跳ねる。それでも、彼は気にする風もなかった。
「できもしないことに首を突っ込むからこんなことになるんだ」
静かな声の中に、確かな怒りを感じ取って、ようやく思考がほんの少し明瞭になる。そうだ、自分はこの男を知っている。視線を向けて、掠れる声でまだ馴染みのないその男の名を呼ぶ。
「何だ」
間髪入れない返事に、迷う思考より先に口が勝手に言葉を紡ぐ。
「——たすけて」
鮮やかな金の瞳がこちらを睨むように見下ろしてくる。容易に想像できる拒絶の言葉の代わりに、彼は静かに頷いた。
「だから、最初からそう言えと言っただろうが」
そうしてディルを抱え上げたまま、男たちの死体を気にも止めずに大きく跨いで歩き出す。全身が氷のように冷えているのに、触れられている部分だけが火傷でもしそうに熱い。
そう感じたのも束の間、その意識は闇に溶けていった。
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