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新宿区歌舞伎町風俗店の貸金業者の過去
「えっ…こんな下着初めてなんだけど…」
イタリア製高級下着、ぺルラの下着とシルクキャミソールを付けた嬢は目を丸くして、その滑らかな手触りを何度も確かめるように生地を撫ぜている。
因みにこのセットで軽く10万は超える一品。
その様子を見て杏子は満足そうにうんうんと満足そうに頷く。
ここは新宿歌舞伎町のとあるビルの地下1Fにある風俗店「パールムーン」
内装は淡い紫と燻しがかった金を基調に、店名に因んだ月のオブジェと多肉植物などでアクセントを効かせた、何とも優しくスタイリッシュに仕上がっている内装は、働く嬢達に大変好評である。
杏子が満足顔なのもそのはず、実はこの店の内装、コンセプトには杏子の意見が多分に反映されているのだ。
同じ女性として不本意とはいえ、やはり支払いに困った女性達には、水商売や風俗店を斡旋せざるを得ないのだが、そこで精神を病んでしまい、薬物に手を出した挙句支払い能力をなくしてしまうという事がしばしばあった。
完全に防ぐ事は個人では何とも難しい問題だったが、ある日、何度か女性を紹介していた「パールムーン」のオーナーが、店の内装を変えようと思うのだが、女性の意見を聞けないかと、店に来ていた杏子に相談を持ち掛けたのがきっかけだった。
働く女性たちがテンションを上げられる、清潔感とムーディーな室内。
更にぺらぺらのほつれた安物から、超高級下着をつけることによって、自信をつけることに繋げることに成功。
そして最終兵器として杏子が考えたのは、全盛期のボブ・サップを想わせる巨漢のナイジェリア人店員3名を、交代で常に店に勤務させることだった。
風俗店では勿論本番行為は禁止だが、やはり密室でもある為度々強要されそうになったり、嬢への暴行もあるのが実体である。
店が常に嬢を守る姿勢でいるのは勿論大事だが、結局のところ表に出れない職業と相手が鷹をくくって違反行為をしても開き直ってくることも度々あり、そんなことが続けば、嬢が安心して働けない環境のストレスからやはり精神を病みかねない。
そもそも、ホストに貢いで借金を重ねるような女性の大半は、一見さばけた風に割り切って風俗勤めをにしていても、内心は未熟で弱く、繊細な神経の持ち主も多い。
そこで杏子はその安心感の担保として、屈強な外国人を自ら街でリクルートしたのだ。
昨今、歌舞伎町はナイジェリア人も増えてきており、ぼったくりバーの客引きや違法薬物の売買、更に数年前は某暴力団組長と揉め事を起こし、暴力団構成員とナイジェリア人の大乱闘が歌舞伎町のど真ん中で繰り広げられるという事件も記憶に新しい。
しかし、何も好き好んでそんな危ない仕事に手を出している訳もなく、正業に就きたい、安全な仕事がしたいものが実は大半だ。
杏子は何人かのナイジェリア人に声をかけ、永住権の確認や逮捕歴の有無を確認した後、条件に見合った3名を、破格の給料で雇う事をオーナーに提案した。
入り口から、圧倒的な力の差を感じさせる巨漢かつ、スーツのワイシャツのボタンが今にも弾けそうな体躯の大男を見た客は、先ず違反行為を起こそう等という気は失せ、嬢はこの上ない安心感を得られる。
破格の給料は彼らに、正業の方が得だと感じさせ、例えば店内で違法薬物の売買等をさせないために必要だった。
ここでいらん欲をだし、プラスの商売をして万が一ばれてクビになるより、このまま続ける方が自分にとって得だと考えれば、例え仲間に商売を持ち掛けられても断るだろう。
安全で嬢にとっていい環境の店は、いい嬢が集まるし長続きする。
更にその嬢目当てでお客が来て売上も上がるので結果全員ウィンウィンだ。
「初めて杏子ちゃんに外国人を…しかもナイジェリア人を雇わないかって言われたときはびっくりしたけど、お陰で店の売り上げも上がったし、有名風ドルの子もどんどん移籍してきてくれるし、何より病んで辞めてく子が圧倒的に減ったよ。」
と言ってはばからないオーナーは今や杏子に頭が上がらない。
「オーナーが信じて任せて下さったからですよ」
そう言って謙遜するが、内心自分が東大卒であったから、こんなにすんなり従ったのだろうなとも思っていた。
中卒で裸一貫頑張って来たらしいオーナーは、普段付き合いのない東大卒の貸金業者である若い杏子に初めから感心する事ひとしおだった。
紆余曲折、色々あったが、出ていて損はなかった。
東大ではなかったら自分の人生は今とは全く違うものだったかもしれないと、杏子は常々実感している。
杏子は3人姉妹の長女として杉並区で生まれた。
両親は財務省官僚の父と、当時でも珍しく見合い結婚した母。
これは後に母方の親戚から聞いたことだが、短大卒の母は、度々婚家で学歴を馬鹿にされていたらしい。だから娘には自分と同じ思いをさせたくなく…とは思わず、その親戚の鼻を折る道具として、母は娘を使う事にしたのだ。
杏子はものごころ付いた頃から友達と遊んだ記憶がない。
母は幼稚園が終わると、すぐに幼児英会話や数字のお教室に連れて行き、終わった後も家での復習があるので、友達と遊ぶ時間を作ることは出来なかった。
更に不幸なことに、当時の杏子は極端に物覚えや要領が悪く、何度教えられても同じ問題を間違えたりと、成績を上げるのにはかなりの努力を有した。
しかし、これは幼児期に母親から与えられた家庭環境によるものだったとも考えられる。
母は、間違えたり、テストの点数が下がった時など、これも幼いころから杏子罵詈雑言を浴びせ、ヒステリックに怒鳴り散らした。
食事を与えず部屋に閉じ込め、トイレ以外部屋から出さずに勉強させる。
時には塾のテスト前に運動会や、行事を休ませ、家庭教師とずっと勉強漬けにさせるなど、その行動は今思うと異常なものだった。
こんな環境では、間違った答えを出してはいけないという緊張感や、家庭でも安らげない事から来るストレスから、記憶力や判断力は著しく低下してゆく。
そんな娘への妻の仕打ちを、夫である父は見て見ぬふりをしていた。いや、正確にはほぼ家にいなかったので見ていなかった。
たまに帰ってきてもほとんど会話もなく、いてもいなくても変わらないような存在だったが、唯一、杏子が東大を現役で合格した時の親戚の祝いの集まりでは、親戚たちからの謝辞に、嬉しそうに満面の笑みでグラスを傾けていたのを覚えている。
その隣で母は恨みを通りこして、呪いがましい目つきをしていた。母とすればお前が何をしたと言いたかったのだろう。
因みに、この母の異常なスパルタ教育は下の二人に向けられることは無かった。
一歳下の桃子は、杏子への母の対応を見て、すこぶる反抗的になり、幼いころから一切といっていいほど母のいう事に従わず、母も途中でこの子はどうあがいても思い道りにはならないと諦め、放任していた。
18歳の高校卒業と同時に、友達と暮らすと言って家を出て行ってしまい、次に会ったのは両親の通夜である。
5歳下の3女の桜子は、視覚と脳に特殊な能力があったらしく、幼いころからまともに勉強をしているのは見たこともないのに、常に成績は満点トップ。
聞くと本人曰く見たものをそのまま覚えているから、それを書いているだけだという。
両親が研究所のようなところで桜子を見てもらったところ、世界に一定数存在する特殊能力の持ち主であると言われたとの事だった。
これならば塾に行かせたり、勉強を強要する必要もなく、桜子はのびのび友達と遊んだり、部活に精を出していた。
しかし、長じるにつれ、桃子同様母の杏子に対する言動に不信感を抱き、これも反抗的になってきた。
となれば自然と、母にとっては気が弱く、自分のいう事を聞く杏子に更に当たりが強くなってゆく。
一度ヒステリーを起こすと、手当たり次第に杏子に物を投げつけ、「この馬鹿!なんでこんな点数取ってくるのよ!!私にどれだけ恥をかかせるつもり!!」と、酷いときは一晩中罵ってくる。
今思えば、母はいつのころからか精神を病んでいたのだろう。
ともあれ、東大に入ったことで、杏子の世界は一遍した。
母は東大に杏子を入学させた途端、何かやり切ったと思ったのか、すっかり大人しくなった。腑抜けたと言ってもいいかもしれない。
キャンパスで杏子は、今まで友達、人付き合いをしたことが無かったせいか、最初はまともに話すことも出来ず、特に男性と話すときはどもってしまった。
服も全くあか抜けておらず、髪も伸ばしっぱなしのものを後ろでくくっただけ。かといって、アニメに詳しいオタクという訳でもない。
後にアナウンサーを目指せるレベルのお洒落で美人の同級生たちからは陰でかなり笑われていたと思う。
しかし、そんな杏子に何くれとなく話しかけてくるものがいた。
それが西だった。
一つ上の学年の西とは、同じゼミで隣に座ったのがきっかけで、その後もキャンパスで合えば自然に挨拶や世間話をするようになった。
彼は当時から長身かつ、美形で、女生徒の中では1、2を争う人気ものだったが、本人は一切愛想がなく、それは杏子に接する時も同様で、話しかけては来るのだが、楽しいのか楽しくないのか、反応が平坦で非常にわかりにくい。
男子生徒とも比較的そうなのだが、女子と話すときは更に顕著で、常に真顔で「おお」「へ~」「ほうほうほう」「そうかそうか」といったような、当時はどこか心ここにあらずといった話しぶりであった。
後に本人から聞いた話によると
「俺、小、中、高って男子の一貫校だったんだよ。しかもあんまり外部生徒もあんまり来ないような。だから、まったく新しい人間関係って作るの久しぶり過ぎてさ…硬かったよな~あの頃。女はもう…とにかく女女してるのは一切無理で…お前?なんか最初話した時、俺よりすんげえ挙動不審でさ…その後あの子大丈夫かな、あんなんでちゃんとやれてんのかなって心配で…親心?が芽生えたんだろうなあ」
どうやら頼りない杏子の様子は西の父性を刺激したらしい。
しかも、本人は全く自慢のような事はしなかったが、話の端々から、かなりいいところのおぼっちゃまのような気がした。
とはいえ、本来の西の魅力のなせる技か、友達は多く、常に何人かの友達と連れ立っていたが、次第にその輪の中に杏子も入っていた。
初めて酒を飲んだのも、高原旅行や海、スキーに行ったのも西の仲間たちとで、相変わらずあか抜けない杏子だったが、西のおかげでいつの間にか馴染み、男女問わず仲良くなり、楽しい大学生活を送れたと思っている。
先に西が卒業して、警察官になると聞き、何とも西らしいと思った。性格にぴったりだと。決まった時には、大学の仲間でお祝いもした。
しかし翌年、杏子も業界最大手の教育システム関連会社に入社が内定した頃、両親が交通事故で亡くなった。
山梨県で入院していた、父方の叔父の見舞い帰りの事だった。
後ろから煽られた末に、ハンドルを切りそこなったのだという。運転は母が行っていた。
しかし、その後見たドライブレコーダーでは、先ず母の運転がおぼつかなく、その後煽られたのをきっかけに、ハンドルを大きく切りそこなっているようだった。
不審に思った警察は解剖の結果、母の体内から基準値をはるかに超えるアルコールが検出されたと、杏子に告げた。
葬儀は父方の親戚が仕切ったが、その場で聞いた二つの話が杏子の人生を大きく狂わせることとなる。
通夜振舞いの席で、酒に酔った父の弟が
「義姉さんは、アル中だったからなあ。もう一時もやめられなかったんだろ」
と、ビールを瓶から注ぎながら言い、更に
「そもそもあれだろ、きっかけも兄さんがあの水商売の女といつまでも別れないから…結局女に買ってやったマンションにいりびたって…」
そう言ったところで、その場にいた全員からの視線に気づくと
「あ、あれ…おれ、てっきり知ってるもんかと…ほら、杏子ちゃん達ももういい大人だし…」と明らかに狼狽しだした。
頭を何かで殴られたような衝撃の中で、杏子は愕然としていた。
知っている訳がない
父が家にいなかったのは官僚の仕事が多忙で家に帰る時間もないからだと
母が私を怒鳴るのも罵るのも私が勉強できないからだと
みずしょうばい
おんな
まんしょん
あるちゅう
いずれも知っている言葉なのに理解できない、心が拒絶している。
その時、桃子と桜子の怒鳴り声が聞こえた
「何よそれ?!」
「お父さんが?!」
「おじいちゃんもおばあちゃんも…みんな知ってたの?!」
親戚は母方も父方も二人から視線を外した。
どうやら両家の親戚間では周知の事実だったようだ。
真実を追求しようと、桃子と桜子の怒声は続いている。
それ以上何も言わないで欲しかった。
詳しい説明など聞きたくなどなかった。
もし、そのままだとしたら、夫の浮気のストレスを酒と子供への虐待で母は紛らせていたことになってしまう
……と、すれば自分は……自分への数々の仕打ちは……
ただのその八つ当たりの対象だったことになるではないか…
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて
「黙りなさいっ!!」
無意識に自分が声を上げたのかと、杏子は一瞬驚いたが、声の主は父方の祖母だった。
喪服の襟元から痩せた首を伸ばし、父とそっくりの酷薄そうな薄い唇が大きく開く。
そして言い放った
「男が愛人の一人や二人作って何が悪いっていうの!」
杏子は頭の奥がすう と冷めてゆくのを感じた。
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