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新宿区歌舞伎町風俗店の貸金業者の過去2
「なんとお!!!」
「なんとお!!!!!!」
「すってきな!!」
「すっつてきなあ!!!!!」
「あ、姫からあっ!!」
「姫からあ!!!!!!!」
「リシャール!いただきましたああああああ!!」
「いただきましたああああああああああああああ!!!!!!!」
割れるマイクのがなり声と、幾人ものホストの嬌声の中で、杏子の耳にはタケルの甘い声が囁かれる。
「杏子、有難う」
バカラ製の滑らかな曲線を描くボトルを高々と持ち上げて、マイクを渡されたタケルは
「杏子、いつも有難う。今人生で一番幸せです!グレイス!!!さいっこおお!!!!!」と店内いっぱいに聞こえるように叫んだ。
杏子にもマイクが渡され、コールを促される。
「私もお~…幸せれす……」
既に呂律は一時間以上前から廻っておらず、自分の声すら耳に届かないほど酔っていた。
注がれたブランデーを喉に一気に流し込む、喉から胸にかっと熱さが一気に通り抜ける。
お酒お酒お酒
ああ、おかあさん、おさけってたのしいねえ
ふふふふ、いきてたらいっしょにのめたのに…あはははそうかあ……これがおさけかあ……そうだよね、これはやめられないよねえ…ふふふ
そんなことを考えながら、頭をタケルの肩にもたせ掛け、目を閉じる。
ここは歌舞伎町のホストクラブグレイス。
杏子は一か月程前からここに通い、新人ホストのタケルを指名し続けていた。
あの後、保険会社からは母の飲酒が問題となり、結果父の保険金の一部2000万円のみが降りる事となったが、預貯金が3000万円あり、それを合わせれば桜子を大学に入れて、社会人になるまで二人で生活して行くのには充分な金額のはず
……が、杏子は何とそれらを全て指名するタケルにつぎ込んでしまっていた。
父と母の葬儀の後から、いつも頭は虚ろだ。
事後の様々な手続きは、親戚の力を借りながら慌ただしくも速やかに終わり、その後魂が抜けたようになってしまっていた。
よく、喪主や家族は葬儀の後で悲しみがやって来るというが、明らかにそれとは違う感情であることを杏子は自覚している。
答えを求めたくても求められないもどかしさと憤り。
知っていながら誰も止めようとしなかった大人達への不信感。
正当化された事への混乱と悲しみ。
そして何より今までの自分への虚無感が、次から次へと押し寄せては消えていく日々。
桃子も桜子もそんな様子の杏子を心配して、何くれとなく世話を焼いてくれたが、この気持ちを何故かうまく二人に打ち明けたり、相談することが出来なかった。
そんなある日、不動産の事でネットで調べ物をしていた時、広告で出てきたホストクラブに目を奪われた。
煌びやかな装飾と豪奢な店内。日中にはいない、メイクと赤い唇をした男たち…ここなら、全てを忘れられそうな気がする…今思えば、安易な逃避。
そんな思いから初めて訪れたグレイスで、その日が初出勤というタケルに出会い、恋に落ちたのだ。
色白で金髪、揺れるピアスを片耳にだけ付けた彼は、20だという。2歳年下の、始めたばかりのタケルを応援したい、ナンバー入りさせたい。
杏子は毎日のようにグレイスに通い、アルマンド、ルイ13世、リシャール、トラディション、ロマネコンティ、ブラックパール…とタケルに言われるがままに、次々と高級な酒を卸してく。
使おうと思えばいくらでも使えるのがホストクラブ。一日で1000万を超えるの会計の日が何日もあり、結果、遺産は一か月を待たずに無くなった。
すると杏子は、まだ払い込み前の保険金を担保に借金
実家を担保に借金
更にそれ以上の借金をタケルを通じていわゆる闇金から次々と借りた。
毎日泥酔して帰って来る杏子を、桜子も不安に思っていた矢先、杏子の就職が内定していた企業から、採用をと取り消す旨、連絡が入ったのだ。
どうやら闇金が在籍しているかの確認電話をしたことで、不審に思った会社が電話番号を調べたところ、闇金から杏子が金を借りているという状況が推察されたためだという。勿論違ったら、反論、証明してほしいとも言われたが、出来るはずもなく、力なく受話器を置いた。
「てめえ!!いいかげんにしろっつってんだよ!!!」
そこから2か月後。
杏子はタケルに路上で髪を掴まれ、壁に頭を押し付けられている。
深夜、早朝の歌舞伎町でよく見かけていたホストと客のケンカ、というか暴力行為。
それを自分が受ける日が来るなど思ってもいなかった。
あれから闇金への借金を重ね、ホストクラブへの支払いも滞るようになり、店からは既に出禁になっていたが、それでもタケルに会いたく、来てしまったところ、逆上したタケルに暴力を振るわれたのだ。
「どうしてタケル…どうして…」
涙と鼻水で髪が顔に張り付いている。
「てめえ、掛けもろくに払わねえで俺に会いに来ようなんて、ふざけてんのか?!ああ?!」
怒鳴りながら、何度も頭を壁に打ち付けられた。
二人の横を幾人もの人々が行き過ぎるが、誰も警察に通報したり、気に留める風情は無い。
歌舞伎町では日常茶飯事、あまりにもよくある光景だからだ。
「毎日、闇金から電話来て…もうどうしたらいいのか…」
泣きながら、すがるように言う杏子に
「はあ?!てめえ、俺が紹介した伊藤さんとこの支払いも逃げてるらしいな?!よくも俺の顔潰しやがって!!」
「だってあれは…タ、タケルがもうお金ないって言ったら…いいところあるって…知り合いだからって…」
「あんな利息で普通の金貸しなわけねえだろこの馬鹿!それでも東大かよこの無職女!!!」
言ってタケルは鼻で笑う。
どこかで自分の最後の心の支えだった、こんな風になる前の自分の思い出の中で、唯一輝いていた大学の日々、西たちを汚されたようで、絶望的な気持ちになった。
あんなに優しかったのに……全部…全部嘘だったんだ……朝も夜もラインくれて…ずっと一緒だよって…初めて好きになった人だったのに……
その時、一番の衝撃で頭を打ち付けられた。ぐらぐらと頭が揺れ、意識を失いそうになった一瞬、タケルの手が髪から離れた。
いや、正確にははがされたのだ。
急なことに一気に意識が戻り、見るとスーツ姿のホスト風の男が、首根っこを掴んだタケルを、狭い路地に連れ込んでいる。
「タ…タケル…」助けなきゃと立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。
その瞬間、後ろから伸びた腕に支えられた。
「大丈夫?」
長い睫毛、軽く波打った髪が顔にかかって物憂げな雰囲気のその人が、海だった。
スーツにスプリングコートの姿は、やはりタケルと同じホストのそれだったのに、なぜかその優し気な面差しが安心感を感じさせる。
杏子にケガがないか心配そうに伺っていたが、突然ぎょっとした顔をすると急に顔を横に背け
「ちょ、ちょおおっとあ、頭から血、血がででで出てる…」
と、ハンカチを渡して来た。す、すみませんと受け取り、拭うとたらりとした血のシミが付いていた。
「尊…今はタケルってんだって?お前まだ懲りねえで同じことやってんだな、この下衆野郎。」
声が聞こえて路地をはっと見ると、短髪長身の男に肘で首を壁に押さえつけられたタケルが、苦しそうにもがいている。
「お前のやり口はホストじゃねえよ。金貸しで儲けたかったら、はなからそっちでやってくんねえかなあ?なあ、おい」
男に更にきつく締めあげられ、タケルが苦しそうな声を上げる。
助けようと向かう杏子を、海が腕を掴んで止めた。見ると、海が悲しそうな顔で首を横に振り
「行っちゃだめだよ」
と言った。
「ウブなふりして次から次へと姫に借金させまくりやがって…伊藤から紹介料いくら貰ってんだてめえ?いい加減にしねえとうちのバックも黙っちゃいねえぞ?ああ?」
その時、締め上げ続ける腕を、海が掴んだ。
「ちょっと、みつる君、そんなに首絞めてたら何にも答えられないでしょ」
力が緩まったところで腕から抜けたタケルは、ゲホゲホと大きく咳き込む。
「尊君、もう歌舞伎町には来るなって言ったよね?噂でグレイスさんで働いてるって聞いて、みつる君と気にはしてたんだけど…彼女との話は、最初っから聞いてたから、説明は要らない」
海がタケルを見下ろしながらそう言った。タケルはもう涙目だ。
自分より弱い者には徹底的に強気に出て、強いものには逆らわない。初めて愛したと思った男は父親と同類の、典型的な小者で卑怯者だった。
「消えろ。次見かけたらただじゃおかねえぞ」
中条みつるのその言葉を合図に、タケルは全速力で駆け出した。
それが杏子がタケルを見た最後の姿である。
「びっくりさせてごめんね、大丈夫?」
先ほどの強面な雰囲気が途端に消えて、短髪ホストは無邪気な笑顔で杏子を伺った。
渡してきた名刺には ホストクラブの代表という肩書と、中庄 みつると書いてある。
「あいつさ、ああ見えて25なんだけど、19からいろんなところでホストやってたらしくて、前うちでも働いててね、初めてホストやったって言ってお客を掴んでは、自分の繋がってる闇金に借金させて、バックマージン貰ってたんだ」
タケルは年上だったのか。
年齢からして既に嘘をつかれていたことに、最初から騙されていたのだと、頭が妙に冴えてきた。
「闇金って、借りられるとこっちも致命的なんだよ。支払い義務ないからね。結局うちで闇金で借りさせられた子達は、何人かで協力して、弁護士雇ったもんだから合計2000万支払いが飛んだよ。大変だったよねえ、みつる君」
「ふふふ、あの時は俺…死ぬかと思った。2000万…パーって…」
おどけて泣き真似する中庄を、海がよしよしする。
「ばれたらすぐうちを飛んだんだけど、歌舞伎町なんか村社会だからね、また戻って来たらしいって噂聞いて気になってたところを、さっきたまたま通りがかったら見つけて…まあだやってんのかってなったわけ。ごめんね~俺怖かったよねえ~。」
「みつる君止める間もなく掴みかかるんだもん…あー通報されなくて良かった。」
「か弱い女の子が髪引っ張られてんのに、何もしない町の奴らが、ホスト同士のいざこざにクビ突っ込む訳ないじゃん。」
「確かに。ま、とにかくそういう訳だから、闇金は返さなくていいからね。今度闇金から電話あったら、この弁護士さんに相談してるって言えばもうかかってこないから。」
海はそう言って、杏子にその道の専門らしい弁護士の名刺を渡した。
「じゃあね、もう借金してホストクラブ行っちゃだめだよ。」
二人は言って立ち去ろうとする。その時、咄嗟に杏子は海の袖を掴んだ。
「あ、あの……め、名刺を…お、お名前…」
こんなことをした自分に、杏子は自分で驚いていた。
さっき散々傷ついたばかりだというのに、一体どこからこんな勇気が湧いてきたのか…
「……海です。クラブギルティの日本 海と言います…」
杏子の手に名刺を渡して、病院行ってね、と告げ、海と中庄はまばらな人ごみの中去っていった。
ふと気づくと、いつの間にかポケットにハンカチが入ってる。海が貸してくれたものだ。
いつか返しに行こう
闇金以外にも返さないといけない借金はある
仕事を見つけて、借金を全て返したら
変わった自分で胸を張って会いに行ってお礼を言いたい
杏子が海とみつるに再開するまでには、そこから4年の歳月が必要だった。
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