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新宿区歌舞伎町風俗店の貸金業者の過去3
「私から言わせりゃあ、皆家族に期待しすぎなんだよ。」
楊さんに言われた言葉で、杏子はいくつも心に残っているものあるが、これはその一つだ。
「皆どこまでいっても、所詮は個の魂。いざこざ、誤解、行き違いなんてあるのが普通なのに、仲良くなきゃいけないって思いこみがすぎるから、自分が無駄に不幸に感じるんでしょ。」
杏子はその言葉に、自分の胸の中に重くのしかかっていた何かが、軽くなるのを感じた日の事を、今でも鮮明に覚えている。
そんな楊さんの家族は?と聞くと
「家族は知らない、生まれたところも知らない。育ったのは中国。でも私は朝鮮族。」
中国に国籍のある朝鮮の人々の事だ。だから中国語も韓国語も話せるのかと納得した。
「寂しかった事は昔。今はこれはこれで自由でいいと思ってる。」
散々お世話になった人だが、杏子は今でも彼の事は何も知らない。
タケルとの一件の後、杏子は桃子と桜子にこれまでの顛末を正直に話した。
さぞや愛想をつかされ、罵倒される覚悟で告白したのだが、二人はおおよその予想は付いていたようで、静かに聞いていた。
「借金の担保に、この家も入れてて…」
「うん、売ればいいよ」
「そうよ、固定資産税だって馬鹿になんないし、売ってさっぱりしよ?」
「ここならすぐ買い手つくっしょ」
二人の言葉に杏子は俯いていた頭を上げる。
「……桜子ちゃんの…大学費用も…なくなっちゃって…」
「あたし、大学行きたいなんて言ったことないよ?!ママが勝手に決めてただけでしょ。あたしは高校卒業したらユーチューブで配信者やりたいの」
桜子の言う、ユーチューブで配信者…というのが何のことかさっぱりわからなかったが、桃子を見ると隣でうんうんと頷いている。
「……ごめんなさい…ホントに…わた…私…」
突然、二人から抱きしめられた。
「……あたしこそごめん、あんな目に合ってる杏子ちゃんを置いて…どうなるかなんてわかってたのに…自分さえよければって…一人で逃げた私は最低だよ…卑怯者だよ!」
桃子が言った。
何言ってるの…高校を出たばっかりで、自分で自立した桃子ちゃんは勇敢だよ…私には勇気がなかっただけだよ…そんな風に考えてたなんて知らなかった…
「あたしなんて…一緒にいて…毎日杏子ちゃんがされてること見てたのに…自分が拗ねて、捻くれることばっかりしてて…あたしが助けてあげられていれば…」
5歳も違う妹なのに…何にも桜子のせいじゃない事なのに…なんて優しいんだろう…それに比べて自分は…常に自分の事しか頭になかった…
「ごめんね…自分の事ばっかりで…私…」
二人が杏子を抱きしめる腕に力が入る。
熱い涙が次から次へと溢れて来た。胸が熱い。
思うと、今まで杏子は妹たちの存在を自分の人生で意識した事がなかった事に気が付いた。
毎日毎日母の顔色を伺い、隙間なく詰め込まれた勉強スケジュールの中では、妹たちを慮る余裕など持てるわけもなく、姉らしい事など一つもしてあげた覚えがない。
だというのに、二人の妹はこんな自分の事をこんなに考えていてくれていたのか…と初めて気が付いたのだった。
ごめん…ごめんね…ありがとう
その夜は三人で抱きしめ合いながら、いつまでも泣いた。
その後、心配していた闇金からの電話は一度だけあったが、言われた通り海に渡された弁護士の名前を出すと
「…あっそ、じゃあお姉さん、もう結構だから、金輪際うちに関らないでね」
と拍子抜けするほどあっさり引き下がった。
よっぽどこの弁護士さんはヤミ金にとって危険人物らしい。
家の売却手続きを進めるのと同時に、引っ越しを考える中で、杏子は就職をしなくてはと焦っていた。
桜子はこれを機に一人暮らしをしたいそうで、杏子は保証人になるためにも、自分の不動産審査に受かるためにもなにがしかの職に就かなければならなかった。
あの親戚たちには頼りたくない。
勿論、どこかの企業の中途採用も考えたが、杏子は歌舞伎町に通っていた時に見て、何故か心に残ったある張り紙を思い出し、再び歌舞伎町に足を運んだ。
それは歌舞伎町の路地の奥、ひっそりと佇む3階建ての雑居ビルの一階にあった。
もとは淡いクリーム色だったと思われる壁は、隣の魚チェーン居酒屋のダクトから出る煙によってか灰色がかってくすんでいる。
通りに面した壁は曇りガラス張りの引き戸になっており、大きく<外国人専門ローン>と書いてあった。社名は無い。
更にそこに紙がセロハンテープで、以前見かけた時と変わらず貼ってあるのを見た時、杏子は自分がここで働くことを切望している事に気づいた。
【事業継承者急募・他 応相談】
「こんにちは~…あの、表の張り紙拝見したんですけど…」
言ってガラガラと音を立てて引き戸を開けると、15畳ほどの事務所の中に、カウンターと応接セットに書類棚、そして壁には様々な国の国旗が貼ってある。
人の気配のなさに耳をそばだてて辺りを伺うと、奥の扉から大柄な白髪の老人がぬっと出てきた。
「あ、あの…初めまして。外の張り紙を…」
「聞こえたよ、ん~…女の子かあ…ま、座って座って」
応接セットのソファを勧め杏子が座ると、奥に一回引っ込んだ老人は冷たい麦茶を持って再び現れ、杏子と向かい合った席に腰かけると、名刺を取出し、杏子に渡した。
社長 マイケル 楊
そこには電話番号も会社名も書いていない、名前のみの簡素な名刺だった。
オールバックにした豊かな白髪と浅黒い肌、老いてなおといった風情の鋭い一重の目つきはアジア人のそれであることは推察されるが、中国人のようにも、ベトナム人のようにも、タイ人のようにも見える容貌である。
履歴書持ってきてる?と聞かれ、リクルートスーツの杏子が慌ててバッグから出した履歴書を眼鏡をかけて、初めは舐るような目つきで見ていたのが、途中から明らかに目を輝かせ、履歴書から目を上げ目の前の杏子を見ると
「東大現役合格なの?!凄いんだねえ!」
と子供のようにはしゃいで言った。
いえいえ、と困惑しながら謙遜する杏子にいやいや、大したもんだよ、勉強たくさんしたんだろうなあ~と重ねてほめそやす。
後日聞いた話だが、楊さんは小学校もまともに出ていなかった。
ので、東大という日本の学位最高峰の名前に大変感激したと。
何でも博識で、多言語を操り、法律にも長けていた彼は、全て独学で勉強したそうで、杏子はその方がよっぽど凄いと思った。
「でも、何でうちに…?東大ならこんなとこ来なくても他に色々あったでしょ。しかもこんな時期に…就職は?希望のところに受からなかったの?」
尋ねながら、見つめる視線は、もう全て見抜いているかのようでもあった。嘘など途端に見抜かれそうな。やはりこの人は只者ではなさそうだ。
そもそも聞かれるではあろう質問だったが、やはり一瞬ひるんだ。
しかし、ここは全て正直に話そうと腹をくくって話し出す。
何せこの面接は従業員募集ではない。跡継ぎの募集なのだ。この面接に懸かっている。
杏子が望むこれからの未来が。
楊さんは時折眉をしかめたり、上げたりしながら杏子の話を聞いていた。
話ながら杏子は、不思議と自分の気持ちが整理されてゆくのを感じていた。
振り返ってみれば、家族の事を誰かに相談や、話すらした事など無かった。精神カウンセラーは、患者の話を聞くことが仕事の大半を占めるというが、確かに聞いてもらうだけ、話すだけでも心は整理され、軽くなる。
楊さんは、杏子の家庭の話には小さく首を振ってあからさまな不快感を表したが、逆にホストに金をつぎ込んだくだりは退屈そうだった。
確かに歌舞伎町には吐いて捨てるほどあるエピソードだ。
「…うちはね、大体察しは付いてるかもしれないけど、留学生や技能実習生、在日外国人に金を貸してる。間違っても闇金じゃないよ、法廷利息で。でもね、そういう連中はなにおかいわんやだ…まともなところで借りられない奴らがわんさか来る。大体紹介で来るから、名刺も宣伝も看板も大層なものは必要ない。彼らのネットワークは凄いからね。」
杏子の話を聞き終わって、楊さんは徐に話し出した。
杏子は静かに頷く。
この事務所を初めて見かけた時から、中に入った時から、李さんの眼光を見た時から、そのような予測は既に立っていた。
「話の通じない連中もたくさんいるよ。言葉って意味じゃないよ?あ、因みに何か国語喋れる?」
「えっ…と英語だけです。しかも実際の会話はほとんどしたことが無くて…」
「私の後継いで、個人金融やるとすると、まず三年間金融の仕事に従事した経験がなきゃいけない。その間に、最低でも中国語、スペイン語、余裕があったら韓国語とベトナム語もマスターして。できるよね?」
因みに楊さんは八か国語を操る人だった。
「は…はい!」
「あと貸金業取扱主任者の資格もいるよ。その間に取れるよね?」
「はい!取ります!」
「修行中はたいして給料高くないけど大丈夫?」
「も、勿論です!」
「…さっきも聞いたけど、そこまでして何でここのこんな仕事?東大なら仕事は人の、国の役に立つ仕事もできるよ?」
自分次第で先の見える仕事が一番したかった、頑張れば稼げそうだと思ったと言った後、杏子は自分でもごく最近自覚した気持ちをとつとつと語り出した。
「あの…うまく…言えないんですけど、私は人の気持ちがわからないところが…あるかなと。自分と…母以外の人が…妹たちですら存在が自分の中で最近まで朧気だったんです…」
自分でも話が見えないなと思い、楊さんを見ると、いいから話せというように、その目は話の先を促していた。
「たくさんの人の人生が見たい…ような、人の感情を知りたいというか…私の根本にそういう欲求があるんです。ジャーナリストになる人に近いような…人を…他人を認識出したのが最近だからかも…しかも表のじゃなくて…もっと本性…」
あと…と続け
「母が用意していた…私に望んでいた人生はごめんです」
きっぱりと言い放った杏子に、楊さんは苦笑しながら「拗らせてんなあ」というと「じゃあ来週から」と告げた。
それから杏子は、くしくも北新宿にある家賃3万5千円風呂なし、トイレ共同の下宿に暮らしながら、楊さんの下で助手兼事務員兼弟子として働いた。
三年後、開業に必要な5000万の純資産を全て楊さんが出資してくれ、更に女性一人じゃ危ないからと自分と関りのあった外国人の顧客は全部整理してくれた状態で会社を杏子に譲り渡してくれた。
杏子の開業と同時に、銀座で働いていた桃子は心配だからと歌舞伎町に転居して来た。
桜子はそもそも歌舞伎町や盛り場でのお悩み相談や事件を取り上げる配信者として歌舞伎町に住んでいたため、3姉妹は歌舞伎町という土地で人生を共にすることになったのだ。
「…ちゃん、杏子ちゃん」
「はい!あ、ご、ごめんなさい、ぼーっとしちゃって」
「じゃあ、マミちゃんはうちで働いてもらうってことで、集金はどうする??週ごとうちに来る?」
「あ、はい、伺います」
「はいはい、宜しくね」
「パールムーンさんにに紹介出来て良かったです。お店、順調そうで何よりです」
「まあ~うちは杏子ちゃんのおかげさまで…だけど、歌舞伎の風俗は最近どこも景気良くないよ」
言いながら店長の源はため息をついた。彼はパールムーンの前に大手の風俗会社に勤めており、業界歴も長く、その道の人脈も広い。齢は50らしいが、人生の半分以上を風俗店に捧げたという。
「やっぱりパパ活ですか?」
「売春だけどね。しかも大人じゃない、最近歌舞伎じゃド素人の小学生売春グループまでいるってんだから…」
源は吐いて捨てるように言った。
「はっきり言ってそんなの、いつどこで何されても文句言えないよ。…って、未成年通り越して子供買ってるような大人がいるのもまたなあ…」
「……」
やっぱりネットがなあ…などと話し続ける源の声を聞きながら、先日桜子から簡単にだが聞いた話が頭をよぎった。
その売春グループや、若しくは個人で売春をしている少女がいるとして…その後ろにはほぼほぼ男がいるだろう。
女を養分としていくら吸い取ってみたとて、咲く花も実る果実も持ち合わせていない男たちが…
杏子は楊さんと働く前に感じたのと同じ予感、どこかで近く、自分がこの件に関わることになるだろうという予感を感じながら、地上に続く階段を上って地上に出た。
この町には、女に限らず男が一花咲かせたいと集まって来る。
しかし、安易に取りやすい所から養分を取ろうとしたものはいずれも枯れるか、もしくは芽すら出ず消えて行く。
花を咲かせるものは、表面は涼しい顔で風に揺られながら、己の根を地中深く、尽きることのない養分を求めて深く深くのばす努力を欠かさなかったものだけなのだ。
金無垢ロレックスの文字盤がダイヤに取り巻かれた腕時計を見ると、丁度7時になっており、杏子は途端に足早になった。
今日はほぼ1ヶ月ぶりにギルティで海に会える。
その後は桃子、桜子と会うことになっており、今日は予定が盛りだくさんだ。
風俗街を後にする杏子の後ろには煌々と照らす街灯や照明に照らされて長い影が伸びていた。
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