202人が本棚に入れています
本棚に追加
新宿区歌舞伎町ホストクラブギルティの元刑事ホストと貸金業者
「じゃあ、一か月ぶりのギルティに乾杯。」
「お、お久しぶりです。」
そう言って海と杏子は、静かに水割りのグラスを合わせた。
それもそのはず、ギルティの店内には、まだ杏子と一組しか客がいない。
時刻は七時を過ぎたばかりで、杏子はセット料金が格安になるオープンからの1時間、いわゆるクイックしか利用しない。
まだ目覚めたばかりの静かな店内も、あと二時間もすれば、男女の嬌声が飛び交ういつもの賑やかさを取り戻すだろう。
「今月忙しそうだったね、ごめんね、うちは全然お客さん紹介出来てなくて…」
「い、いえ、…その方がいいお店…お客さんの無理がないお店ですから。」
「あはは、確かに。うちはみつる君が相変わらずしっかりやってるからね。あ、でも、こないだも入ったばっかりの子がね……」
話す海の横顔に掛かるウェーブした髪と、長い睫毛を見ながら、杏子はうっとりと
……か、かっこいいいい……やっぱり海さん…はあ……疲れが飛ぶなあ…
と、一人心で呟く。
「う~ん……やっぱり、入ったばっかりとかって…勢い…つけたくて、無理しちゃうんですかね。」
「まあ、わかるけどね。でも、それやって飛ばれて被るのも本人だからなあ。俺も新人の頃、100万飛ばれた時は吐くかと思ったよ、遅延損害金も10%入って110万だからね。本当は歌舞伎町全体で、従業員守るためにも掛けの制度は無くした方がいいんだよね」
あ、それじゃ杏子ちゃんの仕事無くなっちゃうか、と笑いかけてきた。
い、いえいえ、そのときは な、何とかします…と慌てて手を振る。
赤くなって慌てる…そんな杏子を見て海は、うっとりと
……か、可愛い……一か月……長かった…結局俺たちは、お客さんが来てくれなきゃ会えないんだもんなあ……
と、一人心で呟いていた。
海が杏子に再開したのは、初めて路上で会った日から4年後の事。
ある日、クイックで海指名の初回客がいると、付け回しに呼ばれ席に着くと、全身シャネルに柔らかそうな茶色のロングヘアーを軽く巻いた美女が座っていた。
「初めまして、日本海です。ご指名有難うございます」
海の名刺を受け取った腕には、金無垢ダイヤのロレックスがはめられている。
一瞬、金の迫力に圧倒されたが、そこは元刑事、すぐに冷静な観察と考察に入った。
金は唸っていそうだが、水商売ではない。よく見るとまだ若いのに、シャネルのツイードジャケットにフレアパンツは年齢より上に見せようとしているように見える。
金のロレックスも彼女たちの今の流行ではない。キャバ嬢の人気ジュエリーは専らハリーウィンストンやグラフだ。
経営者か…その愛人といったところか…まさかヤクザの……と、ここまで考えた時、顔に見覚えがあることに気が付き
「あれ……もしかして……えーー?!あの時の?!尊君の?!」
「お、お久しぶり…です。その節は…あの、本当にお見苦しいところを…あ、い、いや…先ず助けていただいたことのお礼を……」
えーいいよいいよそんなのーってゆうかすごく変わったねーあれからどうしてたのー
思わず矢継ぎ早に質問してしまったが、それほど杏子は激変していのだ。
路上での杏子は、化粧どころか一度も整えたことのなさそうな眉毛をしていて、服も量販店で買ったようなシャツにジーパン、髪は拘りなく伸ばしっぱなしというような野暮ったい外見だった。
それがこれでは、4年の間に何があったのか聞きたくもなるというものであろう。
取り急ぎ、店のボトルで乾杯をした後、「つ、つまらないかもなのですが…」
と、自分のこれまでを海にぽつりぽつりと話し出した。
「……この格好は、女が一人で貸金を始めるなら必要だって…師匠が全部買ってくれたんです…」
楊は杏子が貸金業の資格試験に合格し、いよいよ独立が近くなってきたある日、杏子を伊勢丹に連れて行くと
「本当は路面店の方が品数多いんだけど、ここの方が一気に揃うから。季節前のものも取り寄せてもらってあるから。」
と言って、シャネルで夏冬ジャケット3着づつ、冬用春用コート、パンツ、スカート、インナー、それぞれ季節ごと3枚づつ、ヒール、ローヒール、ブーツ、各種アクセサリー、とどめは金無垢ダイヤロレックスを杏子に買い与えた。
合計金額は勿論7桁。
面食らって、何も言えなくなっている杏子に、楊は言った。
「世間じゃ貸金なんてね、楽して稼いでるって思われがちなんだよ。しかも金を持ってると。そんな女が一人でこの歌舞伎町で商売始めてごらん?俺なら金なんか絶対返さないでとんずらするね。それか脅して逆に金取ったり。」
は、はい…。とやっと頷く。
今までは、ほぼ楊と二人で集金や時に取り立てに行っていたので危ない事はさほど無かったが、それでも不穏な空気になったことは時々あった。
あの時、一人だったら…と思うと楊の言うように確かに不安だ。
「ヤクザが何でヤクザの恰好するかわかる?」
「えっ……、あ、い、威圧…でしょうか」
「惜しい、一般人に絡まれない為さ。もし、ケンカでも売られて負けようものなら組は黙ってはいられない。メンツがあるからね。でも、そんなことになったらこのご時世、警察に目を付けられて終わりさ。そんな厄介を避ける効果があの服装にはあるんだよ。俺たちにかまうな、すむ世界が違うんだ、ってね」
これにもその効果がある
と言って、今買ったばかりのロレックスを、杏子の腕にはめた。重みに、金の迫力にくらっとした。
「こんなものつけてる20代の女貸金なんて、絶対まともじゃないんだよ。相手には、まあ、ヤクザか怪しい企業のバックがあるとでも思っていただけるとありがたいよね」
なるほど、と思った。この服装や装備は、いわば鎧なのだ。本当に杏子の身を守る鎧。
「これは私からのお餞別ね。もうすぐお別れだから」
楊はそれからほどなくして姿を消した。すべての手続きは済んでおり、まるで楊という男が本当にこの世にいたのかと不思議になるほど、痕跡を残さない消え方だった。
そもそも、3年以上一緒にいながら楊の事を杏子はほぼ何も知らない。
そして、杏子は楊を探さなかった。楊に教わった事、してもらった事を振り返ると、やるべきことは先ず、自分がこの町で、歌舞伎町で独り立ちする事が優先だと。
それに不思議と彼は、いつもどこかにいるようにも感じていて、姿は見えなくとも不安になることが無かったのだ。
「……メイクも必死で勉強しました。町で綺麗な女の子見かけたらじーっと見たりして…」
いやいやそこは本とか買おうよ
あ、そ、そうですよね変な節約しちゃった
慌てる杏子に海が笑った。
「いや、本当に見違えちゃったよ…でも、大変だったね。……こんな事俺の立場で言うのもおかしいんだけどね…」
杏子から視線を外し正面を向くと、グラスを置いて腕を組む。
その全てに、夜の男の匂いと色気を感じ、杏子はドキッとした。
「ああなってる女の子をごまんと見てきてるからさ…、ホストと自分以外が世界にいない、見えない状態になってる子。そういう子って、そうさせるホストもホストなんだけど……依存心も高いし自己肯定感が低いから、落ちて行ってそのまま這い上がって来る事が先ず無かったんだよ。俺君のことも、あのホストから離れても他のホストで同じことしてるんじゃないかなって思っちゃってて……」
ごめんね、変な勘ぐりして、失礼だよね と言って杏子の顔を見た。
杏子は自分の胸がジャンプするのを感じた。あの時は全くそれどころではなかったが
海さんて……かっこいい……。
「だから、本当に立ち直ってくれて、わざわざ礼までしに来てくれたなんて…嬉しいよ。有難う。」
「そ、そんな…で、でも、クイックでごめんなさい…本当は高いお酒お礼に入れたいんですけど…今、妹の紹介とかで、お客さんは順調なんですけど…師匠に資金5000万出してもらっていて…私、返したくて…お金あるようでないんです」
いいよいいよそんなのー と手を振る
「てゆうか、これからも頑張るんだね。応援させてよ」
「えっ?」
「頑張る姫を応援したり、元気にさせるのがホストの仕事だよ。杏子ちゃんの応援、したいな」
海さん……プロです!
落ちました!
程なくして、みつるも挨拶で席に着き、海と同じように杏子の変わりように驚きの声を上げた。
杏子ちゃんの独立のお祝いに!とみつるからシャンパンまでプレゼントしてもらい、杏子はかえって恐縮してしまったが、あの時の二人に再開し、礼も出来て、杏子は久しぶりに本当に楽しい時間を過ごすことが出来たのだった。
きっかり1時間、時間が早かったこともあり海とみつるのべたづきで、短いながらも何とも充実した時間を過ごした。
これでお会計は初回という事もあり5000円。
次回からは1万円だが…これなら無理なく通えるかも。
送りに来てくれた海に杏子は
「あの…こ、これからも、来ていいですか…クイックしか…お金ないから…あ、いえ、あるけど…使えないから…クイックしか来れないんですけど…」
「勿論だよ、いつでも待ってるよ」
「で、でも…売り上げにはあんまり貢献できなくて…」
「そんなこと姫が気にすることじゃないでしょ。みつる君…社長ね、凄く嫌いなんだよ、お客さんをそういう気持ちにさせるの。それに、クイックは組数になるから全然有難いよ。俺の売り上げなんか気にしないで、自分が来たいとき、来れるときにいつでも来てね」
実際はこの時、海は既に組数など売り上げに影響されない立場だったのだが、あまりに申し訳なさそうに言う杏子に少しでも気楽に来てもらいたかった。
「じゃ、じゃあ…お小遣い貯めてまた来ます!1時間だけ!クイックで!」
街の人ごみに紛れてゆく杏子の背中を追いながら、海は清々しい気分で一杯な自分を感じる。
杏子が立ち直ってくれていたのが本当に嬉しかったし、わざわざ4年前の出来事の礼をしに来てくれた事も感動したが、何より
応援していきたい、支えてあげたいと思えるお客さんに初めて会った
杏子は個人の貸金という仕事でこれからも大変な事があるだろう。
そんな時は、ここに来て楽しんで行ってもらいたい。話を聞いて時に慰めてもあげたい。
そう、これが本来のホストの仕事じゃないか
タワーをねだり、俺の為に頑張ってと客に無理をさせて金を使わせるのが仕事じゃない。
自分たちの接客に金を払ってもらうのだ。
店内に戻るとみつるが「海ちゃん」と呼び止めてきた
「杏子ちゃん、連絡先ちゃんと聞いた?」
「……忘れちゃった」
「……キミ新人なのかな?」
2週間後
二回目の杏子の来店で無事交換ができた。
最初のコメントを投稿しよう!