寿産院事件

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寿産院事件

1948年1月12日 午後7時30分頃 早稲田署署員が東京都新宿区菅内弁天町20先を警邏中、自転車に乗った榎木町、葬儀屋某(54)を通りがかりに職務質問を行った。 自転車に積んだ4つのミカン箱に嬰児の死体が一体ずつ入っており、巡査が追及すると、牛込柳町の寿産院に頼まれて死体を運ぶ最中とのこと「今日は遅いから、明日火葬場に持って行くつもりだった」と語るが、更に、これまでにも30体の死体の火葬を頼まれたと供述した。 数の多さを不審に思った同署署長は、指示を出し、遺体の司法解剖を行った結果、3体は餓死、2体は凍死と死因が判明。胃には食べ物の痕跡が何もなかったという。 これにより15日早朝、同産院長 石川ミユキ(52) 夫 石川猛(54)および葬儀屋を逮捕、18日には産婆助手K(25)も共犯として逮捕される。 1943年から某夫妻は、主に未婚の男女の間に生まれた私生児を預かり寿産院で養育し、子供を欲しがるものに斡旋する特殊産院の事業を始めた。 当時は堕胎罪により人工妊娠中絶は厳しく制限されており、私生児を預ける母親は戦争未亡人、ダンサー、女給、娼婦などであったという。 新聞に三行広告を掲載し、養育料として2千円から1万円を受け取ったうえで嬰児を引き取り、更に顔立ちの良さで金額を変えて300円から500円で里親に譲っていた。 これら養育費の横領に加え、配給の粉ミルクや砂糖、死亡した嬰児の葬祭用の清酒を闇市に横流しすることで、事件発覚までに100万円を稼いだ夫妻は、その収入で当時はまだ高価だった電話機を所有。 東京都内や茨木に土地を購入し、さらに発覚直前には自家用車を購入しようとしていたとの事。 預かる子供が増える一方、貰い手は減少してゆくと、嬰児に平常の半分しかミルクを与えず、風呂にも、オムツも替えず、医者には死ぬ間際しか診せないなどの劣悪な環境に置いた。 このように「売れ残り」の大半は栄養失調に陥らせて死亡させ、冬季には保温せず凍死させた。死因は凍死、餓死、窒息死が多く、自然死なのか他殺なのか、不明な点が多かったが、少なくとも消極的な殺人であったとは認められている。 開院以来雇われた十数名の助産婦は、再三改善処置を要求したが、指示通りにすればよいとはねつけられと後の証言がある。 ミユキは新聞の取材に対して「死刑にされても恨みません」と述べる一方で、取り調べにおいては「私は精神誠意やって来た。母親は無理に預けて行ってしまう。死ぬのは当然」とも主張した。 1952年4月28日 東京高裁控訴審においてミユキに懲役4年、猛に懲役2年の判決が言い渡され最高裁は上告を棄却し、判決が確定。 この消極的殺人により、4年間で亡くなった嬰児の数は100人以上に及ぶとされている。
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