6月 エカイユ、血の匂い

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6月 エカイユ、血の匂い

 ろうそくが倒れて燃えて、ぐちゃぐちゃになったバースデイケーキ。脳裏に浮かぶそのイメージとともに錠剤を噛み砕く。  西日射す、でも暗い部屋で天井のポスターを眺めながら、頭のなかに繰り返す響く声を聞いている。気が狂いそうだ。いや、もう狂っているのかもしれないと思うと、すこし笑みがこぼれた。ポスターの中の男も僕を笑っているように見える。部屋の全てが、置かれたラジカセ、枯れた観葉植物、擦り切れたカーテン、全てが僕を笑っている。廊下から言い争う声が聞こえる。  今日は僕の16回目の誕生日。  はじめは上手くいっていたはずだった。誕生日なんてこなければいいと思っていたことを除けば。それでも祝ってもらえるのは、うれしかった、はずだった。 「「ジュード!おめでとう!」」  クラッカーから色とりどりの紙吹雪が舞う。 笑顔で拍手を贈るみんなに僕は笑みを浮かべる。笑うのは得意じゃないから、うまく笑えていたかはわからない。  みな思い思いに酒を飲み、大声で笑い合い、音楽を流し、踊る、雑踏の中のように騒がしい部屋。窓には手作りのカラフルなガーランドがゆれている。 「ジュードもやっと16歳かあ」  コークが感慨深げにそう言うと、隣にいたギムが悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。 「コークより年上に見えるけどな」 「うるせえ」  たしかにコークは今年19歳になるけれど、顔も姿も昔のままだ。僕より20センチほどちいさい身体に、赤く染めた短い髪。出会った頃は僕の方が小さかったのに、いつの間にか追い越していた。  小突き合いながら笑い合うふたりをぼんやり眺めているときだった、最初の声が聞こえたのは。 『お前のせいだ、お前のせいだ、お前の』  ひどくねっとりとしたその声は頭をあっという間に支配して、背中を冷や汗が伝う。胸がばくばくと脈打って、息が苦しい。耳を塞ごうにも声がするのは頭の中で、どうしようもなかった。  酒の置かれたテーブルに行って目に付いたボトルをグラスに注いで何度も飲み干す。手がひどく震えている。  なんとか息を整えながら、コークのそばに戻る。 「ジュード、顔色悪いけど、大丈夫か?」  コークは僕の様子がおかしいのに気づいたようで、でもそれに大丈夫と返す。せっかく誕生日会を開いてもらっているのに邪魔をしたくなかったのもあるけれど、酒が回れば声も止むだろうと思ったからだ。  たわいない話に相槌を打ちながら、意識を声から逸らす。予想通り、アルコールが回って頭がぼんやりしてきた頃、 声は聞こえなくなっていた。  ほっと胸を撫で下ろすと、ツルギがバースデイケーキを手にやって来るのが見えた。 「ほら、ジュード!今年もツルギお手製ケーキだ!」 コークが目を輝かせて、僕の手を引く。  おおきなおおきな二段重ねのケーキ。てっぺんにはチョコレートアイスクリームと苺が飾られている。僕の好きなアイスクリーム。 「今年もジュードのために頑張って作ったんだぞ」  ツルギは得意げにそう言いながら、ろうそくを刺して、火をつける。  ハッピーバースデーの歌をみんなが歌うのに合わせて、僕がろうそくを吹き消そうとしたその時だった。 『お前だけがしあわせになるなんてお前だけが『わたしを『した癖に!『お前のせいだお前のせいだお前のせいだお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前のせいお前の』  叫びにも似たような声が頭の中に壊れそうなほどおおきく響く。カシャン、と音がして手に持っていたグラスが落ちて割れる。身体ががたがたと震えて、ひゅーひゅーと呼吸が乱れる。息ができない。苦しい。 「ジュード!?」  その場にうずくまった僕の背中をコークがさする。ぼろぼろと涙がこぼれ、赤い絨毯に黒いシミを作っていった。声にならない叫び声が嗚咽とともにこぼれる。 罰だ、と思った。これは罰だ。 「誰か医務室行って薬取ってきて」 「なんだよ…」「…またジュードの発作かよ」  ツルギが指示を出す声が聞こえて、みんながざわめき、呆れる声が聞こえて、それから、それから、あとは何もわからなくなってしまった。  遠くなる頭に浮かぶのは、ろうそくが倒れてぐちゃぐちゃになったバースデイケーキのイメージだった。崩れたケーキの中から赤いなにか、血だ。血が流れている。僕の目の前でケーキはどんどん燃えて、血に塗れて腐り落ちていく。  それを笑って見ている、女の人、少女といってもおかしくない齢の、赤い血に染まった女の人が笑っている。  母さんは僕をゆるさない。  ベッドに運ばれて、錠剤を口に入れられて、そうしていま天井を見ている。  今まで、こんな発作は何度もあった。きっかけははっきりとはわからない。コークと話しているとき、眠りの隙間に立っているとき、外でアイスクリームを食べているとき。ふとした瞬間に僕を責める声は聞こえるのだった。  これはどこかでしあわせになりたいと願っている僕への罰なんだと、そう気づいていた。  気がつくと、部屋はもう日が落ちて真っ暗になっていた。廊下ではまだ言い争う声が聞こえる。耳を澄ますが、それがツルギとコークの声であることしかわからなかった。  ふらふらする頭を抱え、ベッドから起き上がり、流しに向かう。顔を洗うためだ。  つめたい水で顔を洗い、ふと鏡を見ると、僕が、死んだ目をした僕が映っていた。 お前のせいだ。お前のせいで。  目の前が赤く染まって、気がつけばガシャンと音がして鏡が割れていた。ぱらぱらと破片が落ちる。にぎりしめた拳からなまぬるい液体が流れ落ちる感覚がした。  粉々に壊れた鏡の中の僕は尚も遠い目をして、でもかすかに笑っているようにも見えた。母さん。声を出さずに呼びかける。もう聞こえない声に。 僕はしあわせにならないよ。
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