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6月 エカイユ、血の匂い 3
あれから1ヶ月ほど経っただろうか。エカイユに僕は入所することになり、コークと同じ部屋が割り当てられた。
はじめて部屋に入った時は驚いた。壁と天井一面ポスター、ポスター、ポスター。すごいだろ、と得意げにコークは言う。あこがれのミュージシャンのポスターを集めていたらこうなったらしい。ロックンロールというのだろうか、ギターの響く音楽がラジカセから流れていた。
それからは毎日たのしかった。授業をサボって街へと出て映画を見た。暑い日には透き通る川で水遊びをした。遠くの街まで歩いて冒険した。夜更かしをして夜通し語り合った。カセットテープ屋に行ってふたり並んで試聴した。日曜日にはパーラーでアイスクリームを食べた。
他の少年たちの前では僕はうまく話せないし、うまく笑うことすらできなかった。言葉が口から上手く出てこなくては、冗談を真面目に受け取っては、笑われた。考えすぎてしまうのだ。だけど、コークの前ではそんな心配はいらなかった。コークはじっと僕の言葉が出てくるまでいつも待ってくれたし、僕の言ったことはいつも真剣に受け取ってくれた。乱暴な口調の中に僕へのやさしさが見えた。まるで本当の兄弟のように僕たちは通じあっていたように思う。
ある夕方のことだった。ふと、ラジカセからいままで聞いたことのない音楽が流れた。言葉の意味はわからないけれど、呼びかけるように、励ますように歌うその歌に僕は心惹かれた。
「この曲いいな」
何気なく僕がそう言うと、コークはなにか真剣な顔をしてしばらく考えこんで、そして言った。
「ジュード…お前の名前」
ジュード。突然告げられた名前を繰り返す。
ジュード。心地よい響きが僕の胸を満たす。
「ジュード。今日からお前はジュードだ」
コークが笑って手を差し伸べる。僕も笑ってその手を握る。そういえば、いつの間にかあんなに骨ばっていた僕の手は子供らしいふっくらとしたものに変わっていた。夕日が僕たちの頬を染める。まぶしいひかりのなかで、コークがつけてくれた名前といっしょに、これからはどこへでも行ける。そんな気がした。
誕生日、正しくはコークが僕を見つけた日。6月16日には他の少年たちと同じように毎年パーティが開かれた。いままで誕生日なんて祝ってもらったことがなかったから、うれしくて、あの頃の僕は毎年楽しみにしていた。
誕生日が来ないといいと思い始めたのはいつからだったろう。
はじめて発作が起こったのは、もういつだったか覚えていない。コークと出会った頃から頭の中で母さんに話しかける癖があったから、それがいけなかったのかもしれない。僕を責める母さんの声。最初は気のせいだと、考えすぎだと思った。でも声は徐々に大きく、激しくなり、その口調も乱暴になっていった。
なんでお前が生きてるんだ。そう声は言っていた。だんだんと発作の頻度が上がるにつれて、僕は一日中部屋に引きこもり、ベッドの上で過ごすようになった。眠ってしまえば楽になれると思った。でも、夢の中でも母さんが、記憶が、消えない血の匂いが、僕を責めるのだった。起きていても眠っていても逃げ場はなかった。そんな状態で生きているのはとてもくるしいものだった。殺してくれ、とさえ願う夜も少なくなかった。
ツルギは生気を失っていく僕を心配していろいろな医者に連れて行き、毎日聖典を読み聞かせた。そうして、もらった薬を飲んでも一時しのぎで根本的な解決にはならなかった。どれだけ祈ろうと、声は突然襲ってきて、悪夢は毎晩僕を苦しめるのに変わりはなかった。
コークは変わらず僕のそばにいて、出かけなくなった僕に合わせて部屋で過ごすようになった。そして、話さなくなった僕に合わせるように、口数もすくなくなってしまった。それがとても申し訳なくて、消えてしまいたいとすら思った。あの頃の明るく活発だったコークを奪ってしまったと。だから、コークに自由にしていいんだと伝えるのだけど、まずは自分のことだけ考えろと返ってくるだけだった。
その夜も悪夢を見た。
父親がなにか叫びながら、僕を殴る。蹴りあげる。僕はうずくまったままそれを耐えている。鈍い痛みが絶えず走る。いたいよ、やめて。声にならない叫びが漏れる。
母さん、助けて。
目の前に白い手が差し伸べられて、僕は手を伸ばす。母さん。でも、なにかがおかしい。どろり、なにかが流れ落ちて床の上にどんどん広がってゆく。見上げると母さんのぽっかり空いた目から、鼻から、口から、そのどろどろは流れ落ちているのだった。やがてどろどろは僕の口にも入り込んできて、むせかえるような鉄の味がした。それが黒い血だと気づいたときにはもう息ができなくなって、
叫び声。自分の声で目が覚めた。静まり返った暗い部屋。コークのいびきだけが聞こえる。背中を汗が伝い落ちる。手が震えている。
流しに向かう。割れた鏡と目が合う。そうだ、僕が壊したんだった。破片はコークが片付けてくれたのだろう、床に置かれたちりとりの中に集められて、蛍光灯のひかりを浴びて淡くかがやいていた。
水を飲み干し、息を整える。なんだか、このまま眠るのがこわかった。さっき見た夢の感触を思い出して、ぶるりと身震いする。
外に出よう。思い立って、靴を持って音を立てないようにして部屋を出る。エカイユではなにか特別な事情がない限り、深夜の外出は認められていない。けれど、ここをこっそり抜け出す方法は知っていた。
靴を履きグラウンドに出て、フェンスに沿って歩く。さくさくという僕の足音だけが響いている。あ、見つけた。ちょうど人ひとり入れるくらいのフェンスの穴がそこにあった。上からまたフェンスを重ねて塞いであるが、ごく細いワイヤーで留めているだけなので簡単に取り外せるだろう。
眠れない夜はこうしてこの抜け穴から外に出て、みんながまだ眠っている明け方までに戻るというのを何度か僕はやっていて、もう慣れたものだった。すぐに補修されたフェンスを取り外すことができて、穴から路地へと抜ける。
夜道はしんと静まり返っていて、街頭だけがぼんやりと白く瞬いていた。エカイユがあるのは街のはずれだから、この時間は誰もいないのだ。好都合だった。街の中心に行けば酒場と酔っ払い、眠らない人々であふれているだろう。
見上げると星がちかちかと瞬いていた。つめたく澄み切った空気を吸い込んで、僕は行くあてもなく歩き出す。
僕はこのまま生きていてもいいんだろうか。
そんな考えが頭をよぎる。いつの間にか、かがやいていた日々は消え、僕の手元に残っているのはすこしずつ落ちていく毎日と、ゆっくりとおかしくなっていく頭だった。
『くるしみの中にいるものはとにかくひかりを信じなさい。生きることは痛みを伴う。とこしえの痛みの中でこそつよくかがやくひかりがある。目を開きそのひかりを見なさい。さすれば道は開かれん』
聖典に書かれた言葉を思い出す。僕にとってのひかりとはなんだろう。この罰はいつまで続くのだろう。
廃墟になったアパートの前まで来て、ふと、路地裏で影がうごめいているのが見えて足を止めた。
黒くうごめく影。だんだんと人の形をしてそれはこちらに近づいてくるように見えた。心臓がばくばくと脈打つ。僕は思わず後ずさりする。
「誰?」
やがて、花のような可憐な声が響いて、そこに現れたのは見たこともないくらいにうつくしい少女だった。僕と同じ歳ぐらいだろうか。こぼれ落ちそうに大きな琥珀色の陰った瞳。筋の通ったちいさな鼻。赤い唇。細く長い手足が黒いワンピースからのびている。顎のあたりで切り揃えた白金色の髪が街灯のひかりを浴びてつややかに輝いていた。
その姿を見て、僕は息を飲んだ。彼女があまりにうつくしかったからではない。彼女の細く白い腕とうつくしい顔にはべったりと青い何かがこびりついていたからだ。
呆然と立ちつくす僕に彼女は微笑んだ。天使とも悪魔とも見える微笑みだった。人ではないなにかが取り付いているような、そんな妖艶な笑みだった。そして子供のように無邪気な声で僕にこう言った。
「ねえ、私を手伝わない?」
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