元“剣聖”

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元“剣聖”

 ぶらり、ぶらりと肉が揺れている。  木で組まれた吊木から伸びた紐の下でリズムを刻んで穏やかに揺れているのは……人なのだろう。この有様となって幾日経つのかは判然としないが、腐って虫や鳥の腹に幾らか収まったその姿は性別もわからなくなっていた。  はて、この者達は何某かの罪でも犯してこのような有様となっているのか?  声に出したとしても応えるものとて、この場にはいない。このような処刑じみた真似は理由が何であれ見せしめとしての意味合いが強い。野次馬の幾人かでもいなければ意味もへったくれもありはしない。  その死体が何の意味を持つのか……多少、目端が利く者ならば思い至ったかも知れないが。茫洋とした目で眺めつつ、「死ぬ時はせめて剣で斬られたい」などと考えている男には執行者の意図は伝わらなかった。 ――鉄の時代は終わり、などと良く言えたものだ。   かつて自分に説教をした者達は今、どんな顔をしているだろうか? と思いを巡らせようとして、男は止めた。“剣聖”は確かにその時死んだのだ。死人が恨み言など考えても詮無いことである。  常人を越えた剣技はそのままに、しかして幽鬼として蠢くのが今の男……かつてセイフと呼ばれていた者。故郷で剣を意味する名の誉れも既に失せたと当の本人が信じ込んでいた。  本当の落伍者が見れば噴飯ものの贅沢である。  短めの鎖帷子の音とともに男は歩みを再開した。鎖帷子は男には太いようでブカブカとしているように見えた。特徴がある体つきを隠すためだった。  褐色の肌を隠すため頭部まで覆ったデザインとなっている。  鎖帷子は斬撃には強いが、刺突や打撃には弱い。やや安価で頑丈という利点はあるが……男にとっては十分だった。そもそも彼は防具による防御というものを軽んじているところがある。  既にして死人であると見定めているから……などではない。“剣聖”であった時から攻めも護りも剣で行えば良い、と考えていたのだ。今はもう脱ぎ捨てた鎧も名誉の装飾品に過ぎなかった。 ――剣聖は死んだ。セイフという男はもういない。ならば如何にして敵を見つけるべきか?  剣技院から授与された称号であるために、かつて靴を脱いでいた国と仲違いしたからといって別に剣聖位を剥奪された訳でも無いのだが……どうやら本人にとっては違うらしい。  荒れ地に伸びる街道を行きながら奇妙な考えに男は耽っている。男はどこまでも戦士であり、敵というものがなければ動けない。例え今までと全く違う生活、穏やかなそれを送ることになっても敵を見つけて生きていくのだ。  ……街道、といえば聞こえは良いが実態は人という動物が利用する獣道じみたものだ。このような道は昨今珍しくなかった。  魔王が討たれたことにより勢力圏を大きく減退、はっきりと言えば壊滅した現在ではどの国家にも属しない非国籍地帯が増えていた。  魔が食い込んだ地域が解放されたは良いものの、その全てが魅力的とは言えないものだ。結果として通り道とだけ利用されている地帯は多くなる。奇特な農民がいて、更にその農民が勤勉で、努力に努力を重ねたのであれば雑穀ぐらいは実るかも知れないが……期待するのは間違いだ。 ――農業。いやダメだ。作物のことなど知らん。  少しばかり脳裏をよぎった未来図を打ち切って、再び歩きながら呻き始める。  完全なる専業戦士は比較的豊かな大陸中央よりもむしろ辺境に多く、南方蛮族もその例に漏れない。戦士の家系である元“剣聖”はどう足掻いても大地を相手に戦えない。  出身地から考えれば発想に農の字が出ただけでも相当な変化であり、同胞が聞いたのであれば何らかの病でも疑われたことだろう。確かにセイフという名の男は死んでいるようだが……味方と敵に塗り分けて考える思考がその前途を狭めた。当人がどう思っていようとも過去は何らかの形で付いてくるのだ。  折れた大曲刀の柄を手のひらで擦る長身。善良な人が見れば殺意の予備動作にも見える物騒な動作だが、これは彼流の不安の現れである。
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