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汀は沈黙を以って答えると、右手の指を全て伸ばし、人差し指の一節だけを直角に折った。
苦手の印。
この人差し指の一節だけを折ることは難しく、素人が行えば中指まで曲がってしまう。しかし、印契が正しく作れなければ呪術としての効果はないと言われている。
汀は苦手の印を泉太に向けると、秘言を唱える。
「此の手は我が手にあらず 常世に居坐す久斯の神少彦名命の苦手なり 苦手を以て咒へば如何なる災も消へずといふことなし……」
これは医療の神・少彦名神が伝えた術・苦手の法であった。
少彦名神はこの苦手の法をもって軽い病はもちろんのこと難治とされる病を癒し、この法をもって悪しき獣、害をなす虫を祓除し、あるいは滅尽したという。
和子の腕の中で泉太が、淡雪のように消えていくのが分かった。それでも和子は最後の瞬間まで子を抱きしめようとし続けた。
――そして、泉太は消えた。
和子は子の名を呼びながら、腕が空を切ることになっても自らの肩を抱き続けていた。
涙を雨のように溢しながら。
「お子さんの願いが叶った段階で、送りました。呪いが血縁に広がることはありません」
嗚咽を漏らす和子に、汀は言葉をかけ続けた。
「ですが、日花さん。あの子を直接、家に迎え入れた以上、これで貴方はもう……」
「はい。覚悟の上です。
ただ、私を連れて行っても、あの子は残った姉の所まで行くかも知れません。知子は結婚し子供もいます。男の子です。孫は、今年小学生になりました。
泉太は小学生になる前に亡くなっただけに、その姿を見ることができて満足しています。
欲を言えば、その子が成人し結婚するまで見守りたかったのですが、いつまでも泉太を一人にさせておくのは不憫で仕方がなかったんです」
和子は両手の指先を使い目頭を押さえていた。
「もう。あの子を一人にはさせません。ありがとうございました」
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