第一章 色褪せたセカイ

9/12
前へ
/100ページ
次へ
 歩きながら情報収集という緋彩の計画は初手から崩れ去った。緋彩は引き()った顔で足を止める。  丁度石畳の正方形のマスに足が止まって、彼は思わず感圧式の罠にかかった気分になった。 「俺が聞きたいのは、お前が置かれた状況の話だ」  どうやら一部コミュニケーションがズレているらしい蒼月に、初めからこう伝えれば良かったんだと緋彩は溜め息を吐いて明確に目的を伝える。 「……私、良い物件だと思うのに。あ、でも知りたかったらいつでも聞いて、スリーサイ──」 「スリーサイズの押し売りをするンじゃねぇ」  どんなスーパーだよ。  女性はスリーサイズを積極的に伝える生き物ではないという一般論はどこへいったのやら。アピールするならもっとあるだろうと彼は頭を掻く。 「……え、それよりも深い乙女の秘密を聞きたいの? 初対面なのに? わーお、せっきょくてき」  間違えた、訂正しよう。とても(スーパー)噛み合わないの意味合いでスーパーだったかと緋彩は呆れつつも。 「何故浅い方だと思えねえんだよ、深海探査機かお前は。それに、初対面じゃねえだ──」  ろ、と言い切ろうとして。  初対面じゃない、と否定しようとして。 「──いや、初対面だよな」 「……? そうだけど」  ハッと気付く、気付かされる。  自分でもなぜ口走ろうとしていたのか分からず、戸惑う緋彩は首を傾げる蒼月から目を逸らした。  なかば条件反射だったツッコミ。  口が思考より先に動いたツッコミ。  。緋彩の記憶が。  名道との戦闘の最中で、蒼月は『ダーリン』と口にした。それと合わせると筋の通る話が存在する。しかしそれは同時に筋が通らない話なのだ。  だって──彼女はもうこの世にいない。  緋彩を『ダーリン』と茶化して呼んで、彼とそんなやり取りをした恋人(かのじょ)は既に死んでいるから。 「懐かしいことを思い出しただけだな……」  心臓がギュッと痛んだ気がして、胸を軽く押さえながら苦笑いする緋彩に──蒼月はあえて心配の言葉を呑み込んで、話を戻すことにした。 「……なら、私の置かれてる現状の話?」 「ああ。どーしてンなところにいるのか」 「……私はこの惑星(ほし)出身なのは間違いない。でも、ごめんなさい。誰からいつ産まれたのかとか、どう育ったのかとか、記憶が抜けてて存在しない」 「記憶がないってことか」  俗に言う記憶喪失だと彼女は申告する。  世界がこんな有様だから、緋彩は簡単に情報が分かるわけがないと踏んでいた。そもそも生物が死滅した世界で一人生きているのが違和感だと。 (なるほど、分かるのは名前だけ……か)  例えば強い衝撃で頭を打った、だとか。  例えば嫌な記憶に対する思い出したくないという無意識的な拒絶と防衛の反応、だとか。  原因が外部にも内部にも存在し得るそれだと蒼月は告げている。要するに彼女は、深くて暗い海の底に記憶を探す探査機のようなものだった。 「……数少ない私の記憶はここから始まっている」  蒼月は小首を傾げ思い出しながら、ぽつぽつと滴る小雨のように言葉を溢して静かに語り始める。 「……私は名道の部屋らしき場所で目を覚ました」  初めは記憶の混濁は寝ぼけているからで、あるいは頭でも打ったからだと思った。だから、蒼月は彼と話せば何か分かるだろうと踏んだ。 「それでも、何も思い出せなかったのか?」  首を縦に小さく、こくりと。 「……彼には『この僕は君の恋人だ』なんて言われたけれど、信用はしなかった。ううん──」 と彼女は言った。 「まあ、胡散臭いとは思うよな」  その真偽は別として、自分の知らない関係性を突然言われて容易く信じる人間は少ないだろう。同意した緋彩に、彼女は首を横に小さく、ふるふると。 「ん? そういう意味じゃねぇのか?」 「……えっと、原因は私にも不明。でも、私は彼から逃げないといけない──そんな気がした」  単に生理的に無理だとか、雰囲気が苦手だとかそういう相性の類ではなく、蒼月にとってそれは義務的、というよりは使命的だった。  何も分からない彼女が『いけない気がした』と表現するくらいには確固たる意思があったのだ。 「……だから逃げた。あの『偽恋人変態マッドサイエンティストーカー』は追手を使ってきたけれど」  追手を使ってきた。追手を遣ってきた。  この色褪せた世界で、逃走劇は突如として始まった。どこまで逃げたら良いだとか、いつまで逃げたら良いだとか、全てが不明の逃走劇が。 「……空を飛べて武器を出せたのが幸いしたらしい。そんなに逃げ回るのには苦労しなかった」    本人は自然と呼吸のようにできたみたいな言い方をしているけれど、緋彩は一般的な人間にそういったことが不可能であると知っている。  同時に思い当たる節もあった。  彼も身体の内に宿す『神性』だ。 (自覚がない、あるいは記憶喪失の現人神?)  端的に言えば人と神の中間である現人神には、翼がなくとも空を自由自在に駆け回る能力のようなもの、『神性』が共通して備わっている。 「それって──」    だから緋彩は彼女が記憶を思い出す足がかりになればと聞こうとした。しかし彼は聞き留まる。  パシャッ。一眼レフのカメラのように。  疑問を口にしようとして顔を上げた緋彩の、炎のような緋色の瞳が一回瞬きをして──その時不意に、見てしまった、視えてしまった。    緋彩が無意識かつ条件反射的に発動した、あらゆる生物の精神構造を見抜く『感精の義眼(センセーションアイ)』は、蒼月の異形な精神構造を見抜いてしまったのだ。
/100ページ

最初のコメントを投稿しよう!

29人が本棚に入れています
本棚に追加