29人が本棚に入れています
本棚に追加
/96ページ
ぽつり。
「ほらー、泣いちゃって。やっぱり嬉しくて驚いたんじゃないの?」
言われてやっと気付く。
瞳からは、透明な雫が流れていた。
「はは……なんで、だろうな」
答えは既に己の中にあるというのに。
過去は過去でしかないというのに。
自分を嘲るような乾いた笑みが思わず零れる。
結局、俺には誤魔化す事しか出来なかった。
言い訳なんて幾つでも考えれる──ただ、それらを抜きにしても、俺の中ではまだ話してはならない気がしたのだ。
とりあえず涙を拭う。
丁度吹いた風が、慰めるように頬を撫でた。
「……いや、待てよ」
ぽつり。
言葉を溢した。
何故なら俺の頬を撫でたのは風だけではなかったからだ。
人間には、『見えないもの』を認識する力がある。『雰囲気』や『気配』などという言葉がある事からもそれは分かるだろう。
どうも現人神としての能力は失っているらしいが、それなりの場数で蓄えられたその力……つまるところの第六感はそれを逃さなかった。
まるで鋭利な刃物を突き付けられたような感覚だ。
俺の中で最も馴染み深い、隠す気が全くないそれだ。
殺したいという欲望を垂れ流す、理性のない獣の──殺意だ。
「奏……ッ! 下がってろ」
数人の土を踏む音が聞こえる。
見ればその異様さは、はっきりと分かる。
誰も彼もが、光灯らぬ虚ろな目、血の気がない顔色をしている。特に数人は金属バットで武装し、病的な癖に剣呑な雰囲気を放っている。
これらの特徴が当て嵌まる存在を緋彩はよく知っている。それは──
「……意味が分からねえ。『天使病』……だと……ッ!?」
奏は肩を少し震わせつつも俺の背後に素早く隠れる──悲鳴を上げないあたり、強い精神力だなと思う。
せめて刀が一本でもあれば。
いや、刀なんかなくたって。
「クソッ……! 状況把握は後回しだ」
言葉を吐き捨てて、力強く拳を握りしめる。
「かかって来い。俺が刀がねぇと何も出来ない奴だと思うなよ?」
彼ら『天使病』の罹患者に、この啖呵を理解出来る知能がない事は分かっている。それでも俺は、言葉にする。
恋人の前だから、ではない。
いや、イントネーション的には似ているかもしれない。
例えこれがひと時の、現実のような夢だったとしても──守りたいんだ。だって、夢の中で理想を果たしたいと思うのは、悪い事じゃねぇだろ。
何処か虚しい感情に胸を穿たれた気がするが。
物理的に胸を穿たれる事はないように、まずは殺気に殺気でお返しする。
殺気を感じ取る本能ぐらいはあったらしく、少し怯むような仕草は見せるがそれも束の間。奴らは明らかに人間には出来ない跳躍で迫り来る。
「はぁーッッッ‼︎」
俺はというと。
正面から飛び掛かろうとしていた個体の横腹に、左足を軸にした回し蹴りを撃ち込む。
空中で撃墜される形となったその個体は、低い呻き声を発しながら横に転がっていく。
彼らは身体能力こそ枷の無くなった人間のそれだが、身体の構造……例えば筋肉や骨の強度は変化しない。『天使病』に罹る前のままだ。
だからこそ、格闘技は効きはする。
あくまで、構造上は、だ。
「陽くんッ! 横ッ‼︎」
視界の端で、日光を反射する物体が見え──反射的に身を屈める。そのまま身体をバネのようにしてその物体……つまりは金属バットを持った個体の顎にアッパーを放つ。
さらに。
力が抜けたからだろう、その個体の手から離れた金属バットを奪い取って──
「バットは人を殴るものじゃねぇよ!」
頭部へフルスイングした。ゾンビ映画なら頭は吹き飛ばせたであろう程度の力で振り抜いた。
このように、自分にも当て嵌まる言葉を言い放つ事を俗に人はブーメランと呼ぶ。
物理的な観点からすれば、俺が放ったのは言葉ではないし、ブーメランでもなく金属バットだが。
そして。
バットを握る手に間髪入れずに再び力を込め。
反対から飛び掛かろうとしていた別個体に、斬り返すように再度フルスイングで迎撃。
「このままだとジリ貧だよッ! 逃げようッ!」
何処に。
そんな疑問を口にするより先に身体が動いた──行動の速さなら奏も負けていなかった。俺の返答を聞くより先に身体を動かしていたのだ。
段々と増えていく『天使病』罹患者たちから、俺たちは撤退することを選択した。
最初のコメントを投稿しよう!