第二章 悪夢のカコ

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 ぽつり。   「ほらー、泣いちゃって。やっぱり嬉しくて驚いたんじゃないの?」  言われてやっと気付く。  瞳からは、透明な雫が流れていた。 「はは……なんで、だろうな」  答えは既に己の中にあるというのに。  。  自分を嘲るような乾いた笑みが思わず(こぼ)れる。  結局、俺には誤魔化す事しか出来なかった。  言い訳なんて幾つでも考えれる──ただ、それらを抜きにしても、俺の中では気がしたのだ。  とりあえず涙を拭う。  丁度吹いた風が、慰めるように頬を撫でた。   「……いや、待てよ」  ぽつり。  言葉を(こぼ)した。  何故なら俺の頬を撫でたのは風だけではなかったからだ。   人間には、『見えないもの』を認識する力がある。『雰囲気』や『気配』などという言葉がある事からもそれは分かるだろう。  どうも現人神としての能力は失っているらしいが、それなりの場数で蓄えられたその力……つまるところの第六感はそれを逃さなかった。  まるで鋭利な刃物を突き付けられたような感覚だ。  俺の中で最も馴染み深い、隠す気が全くないそれだ。  殺したいという欲望を垂れ流す、理性のない獣の──殺意だ。 「奏……ッ! 下がってろ」  数人の土を踏む音が聞こえる。  見ればその異様さは、はっきりと分かる。  誰も彼もが、光灯らぬ虚ろな目、血の気がない顔色をしている。特に数人は金属バットで武装し、病的な癖に剣呑な雰囲気を放っている。  これらの特徴が当て嵌まる存在を緋彩はよく知っている。それは── 「……意味が分からねえ。『天使病』……だと……ッ!?」  奏は肩を少し震わせつつも俺の背後に素早く隠れる──悲鳴を上げないあたり、強い精神力だなと思う。  せめて刀が一本でもあれば。  いや、刀なんかなくたって。 「クソッ……! 状況把握は後回しだ」  言葉を吐き捨てて、力強く拳を握りしめる。 「かかって来い。俺が刀がねぇと何も出来ない奴だと思うなよ?」  彼ら『天使病』の罹患者に、この啖呵を理解出来る知能がない事は分かっている。それでも俺は、言葉にする。  恋人(かなで)の前だから、ではない。  いや、イントネーション的には似ているかもしれない。  例えこれがひと時の、現実のような夢だったとしても──守りたいんだ。だって、夢の中で理想を果たしたいと思うのは、悪い事じゃねぇだろ。  何処か虚しい感情に胸を穿たれた気がするが。  物理的に胸を穿たれる事はないように、まずは殺気に殺気でお返しする。  殺気を感じ取る本能ぐらいはあったらしく、少し怯むような仕草は見せるがそれも束の間。奴らは明らかに人間には出来ない跳躍で迫り来る。 「はぁーッッッ‼︎」  俺はというと。  正面から飛び掛かろうとしていた個体の横腹に、左足を軸にした回し蹴りを撃ち込む。  空中で撃墜される形となったその個体は、低い呻き声を発しながら横に転がっていく。  彼らは身体能力こそ枷の無くなった人間のそれだが、身体の構造……例えば筋肉や骨の強度は変化しない。『天使病』に罹る前のままだ。  だからこそ、格闘技は効きはする。  あくまで、構造上は、だ。 「陽くんッ! 横ッ‼︎」  視界の端で、日光を反射する物体が見え──反射的に身を屈める。そのまま身体をバネのようにしてその物体……つまりは金属バットを持った個体の顎にアッパーを放つ。  さらに。  力が抜けたからだろう、その個体の手から離れた金属バットを奪い取って── 「バットは人を殴るものじゃねぇよ!」  頭部へフルスイングした。ゾンビ映画なら頭は吹き飛ばせたであろう程度の力で振り抜いた。  このように、自分にも当て嵌まる言葉を言い放つ事を俗に人はブーメランと呼ぶ。   物理的な観点からすれば、俺が放ったのは言葉ではないし、ブーメランでもなく金属バットだが。  そして。  バットを握る手に間髪入れずに再び力を込め。  反対から飛び掛かろうとしていた別個体に、斬り返すように再度フルスイングで迎撃。 「このままだとジリ貧だよッ! 逃げようッ!」  何処に。  そんな疑問を口にするより先に身体が動いた──行動の速さなら奏も負けていなかった。俺の返答を聞くより先に身体を動かしていたのだ。  段々と増えていく『天使病』罹患者たちから、俺たちは撤退することを選択した。
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