第一章 色褪せたセカイ

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 正常に動作しないことを『バグった』と呼ぶのだから、世界が正常に終了せず稼働しているこの異様な状況には相応しい表現だと緋彩は納得する。  木製のベンチに座って足を組み、愉快そうに微笑む男の言葉は彼にとって真偽不明の代物だ。  しかし、緋彩は言葉の節々に経験した人だけの重みや深みといったものを感じていて、蒼月もまた目を丸くしつつも事実と認識していた。 「んで、そのバグった原因が、おそらくはあの名道って狂人だ。人かどうかも分からないけどな」  緋彩は、同じ言葉は話すものの──それは現人神(ひいろ)の性質上で自動翻訳されるので当たり前だが、対話が成立しない男のことを思い浮かべて吐き捨てる。 「……でも不思議。私たちは観測者じゃないの?」  蒼月は顎に手を当てて言葉を溢す。  だって全てが色褪せてしまったこんな世界でも私たちが『観測者』で見えているじゃないかと。  あれ、言われてみれば。  滅びた世界で納得していただけに、緋彩は自らが思考停止していたことに気付く。問いに関心した男は軽い拍手をしながら椅子から立ち上がる。 「端的に言えば写真だよ、枠の中に眠る切り抜かれた現実──あれと、それを見る者の関係さ」 「見てるだけ、見れてるだけってことか?」  今度はより激しく男は手を叩いた。  風すらない静寂な街に淡白な拍手が響く。 「その理解で問題ない。現人神は強い神秘性を持つためにワンランク上の視野を持つ。そもそもその神様の視点を無意識に持てるからこそ他世界や他次元に干渉することやさせることができるんだ」 「視覚的な問題でも資格的な問題でもないと?」 「その言い方、面白いねえ──その通り。逆にここまで問題ないのが世界にとっては異常だ。故に僕らは観測者ではなく傍観者、観測者とは現地で生まれ育ち、その未来を見届ける者のことを指すのさ」  傍観者、その言葉に緋彩は唇を噛む。  神様は傍観者──過去に思いを馳せて遠い目をする彼をよそに、右手を胸に当てお辞儀をした。 「とりあえず。補助説明はこれにて閉幕だ。君たちは君たちの目的を達成すると良いさ。ただ──」  顔を上げて、男は一拍置く。  まるでバグった世界の終わった空気を堪能でもするかのように深く息を吸って、はあと息を吐く。 「僕としたことが、君に伝え忘れていた」 「え、俺に? 事前情報の伝え忘れ?」  しまったーと大袈裟に手で顔を隠す男に、緋彩は直後軽い気持ちで聞いたことを後悔する。 「現人神は次元を越えれる傍観者。でも、代償はあってね。こうした観測者のいない世界に召喚されて、原因解決せずに外に出ようとすると消滅する」 「はッ──あぁあ!?」  寝耳に水で、緋彩は顔を歪めて声を荒げる。  つまり、この世界に送られた時点で緋彩には原因解決の選択肢しかなかったと告げられたのだ。 「お前……そういう重要なことはな……」 「どうしてここで騒ぎ立てるんだい? 言っても言わなくても支障がないと思ったのは、君が生きたい目をしていなかったからじゃないか」  男に音もなく近寄られ顎に手を添えられ、人生初の顎クイをされた緋彩は言葉を呑むしかなかった。  男のアメジストのような深紫の目が緋彩を不気味に覗き見る。目の奥の奥──自分の深層まで見られている気がして緋彩は体中の鳥肌が立つ。 「あ、そうだった。僕の名前は──」  顎に優しく添えられた手が離れたことで、金縛りにあっていた緋彩の身体は自由を取り戻した。 「く、依頼主(クライアント)だろ……?」  実は至って簡素な答えしか存在しないことを知っていた緋彩が、気持ち悪さに歪んだ表情のまま呆れ半分にその男の言葉の続きを言った。 「ご名答、いずれキミたちは知ることになる。それなら今紹介したって意味はなく無駄ですらある」  ああ、でも、と。 「このままだと隣の子に疑われてしまうから、そうだね『パンドラ』……とでも名乗っておこう」    力の籠った眼差しが未だに(パンドラ)を射抜いていた。それは蒼月に未だ残る警戒心の表れであって、故に男はそれを少しでも解くために名乗ったのだ。 「これ以上の詮索は要らない。初めに言ったはずさ、あくまで補助説明に過ぎないと。だから──」  別れを告げようとして男は止まる。  静寂(しじま)を切り裂く、軽快な携帯電話の着信音に。 「おっとすまない。……ああ、もうすぐだよ。だから、準備運動の一つでもしておくと良い」  そもそも音がまともに存在していないこの世界において、少し距離を取ったところで、反応は丸聞こえ。しかし緋彩にはさっぱり分からない。 「──という訳で、僕は帰るとするさ」 (今時、携帯電話(ガラケー)……?)  長方形の端末、俗に言うスマホが普及していた世界出身として緋彩は首を傾げた。世界ごとの文明の差はあるかもしれないにしても──唸る彼の行き着いた答えは『お洒落のため』だった。  正体がそれこそ深淵のように見えない男。  彼は、不思議な目を向ける緋彩を一瞥すると、再度丁寧にお辞儀をしつつ、別れを宣言する。 「ああ、またな……で良いか?」 「もちろんさ。『縁』というものは、いつだってどんなものの側にも等しく平等にあるのだから」  そして彼は最後に約束だからと、何処から取り出したのか、紙パック(イチゴオレ)を蒼月に渡して。 「それは。それは使うべき時に使うものだよ。それでは、二人とも……ご機嫌よう」  この街のモノクロ、その(かげ)に沈んでいくように、あるいは初めからそれは幻影であったかのように跡形もなく消え去る──否、消えて去った。 「……約束は守るのなら、良い人と思う。ちゃんと約束のイチゴオレは貰ったし。えっへん」  紙パックで出来たイチゴオレ。  泥一つもなく、埃も血も付いていない。  まるで自販機から買いたての包装で、唯一の違和感と言えば汗をかいていないところだろうか。 (偶然か……お前も好きなんだな、それ) 「……緋彩?」 「すまねぇ、感傷に浸ってただけだ」  世界を彩る芸術家──即ち基本的な『色』をはじめとした『音』や『人』のいないこの世界では例に漏れずイチゴオレのパッケージにも色は無い。  いや、そうして色が無いからこそ、緋彩はそこに着色された包装と過去の面影を見ていた。 「そういえば、名前しかまだ聞いてなかったな」  情報がまだ少ないというのもあったが、瞳を揺らして心配そうにする蒼月が気になって、安心してもらうために緋彩は話を変えることにした。  そう彼は配慮したのだが。 「……確かに。なら、えーと、バストサイ──」 「ちげえよ! 誰が胸のサイズを聞いた!? 文脈を捉えろよ! お前は行間に生きてンのか!?」 「……緋彩が男だから、必要な情報かなって」 「名前の次に胸のサイズ聞くような思考が性欲と直結してる男は早々いねぇよ、下手なナンパでもな」  一部コミュニケーション感覚がズレているとこの瞬間まで気付けず盛大に溜め息を吐く緋彩だった。
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