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14、
二日酔よりも最悪な目覚めは、ケイトが去った日以来、初めてのことだった。
覚醒の予感がしたときから、強烈な痛みがきみを苛んだ。筋肉や関節が、スモークし過ぎた肉みたく硬く締まっている。動かそうとしても、自分の手足じゃなくなったようにぎこちない。全身が発熱して頭がぼうっとしているのに、ややもすると寒気が足元から頭の天辺まで奔り抜けた。きみは暖かい布団に包まった。胎児のような格好で。朦朧としていく意識の中で、きみは映画のタフガイみたいにはいかないな、とひとりごちる。
*
次に目が覚めたときは、少し気分がよくなっていた。それで初めて、自分がいる場所を見回す余裕が出てきた。
窓のない小さな部屋だった。整頓されている、というよりも物が少ない。きみが横になっている木製のベッドに、同じく木製の古びたワードローブとサイドテーブルがあるだけである。壁はくすんだ灰色の漆喰塗りで、どこか暗鬱な感じがする。
サイドテーブルの上に、水差しとコップがあった。きみは急激に喉の渇きを覚えた。コップに水を注ぎ、一息に飲み干す。意識が大分すっきりとしてきた。きみはソロソロとベッドから抜け出した。自分が見知らぬ部屋着になっているのに気づく。揃えてあったスリッパを履いて慎重に足を動かした。
部屋の隅のワードローブを開くと、きみのくたびれたジャケットとシャツが下がっていた。靴もある。
きみは着ている部屋着をゆっくり脱いで、自分の身体をチェックする。赤や紫や青のアザが、模様のように、だんだらについている。きみは覚悟を決めて、ズボンの左の裾を捲りあげた。
想像していたよりは、酷くなかった。化け物に掴まれたと記憶しているその箇所は、火傷の痕のように醜く爛れていたが、不思議なことに痛みはさほどでもないのだった。
きみはなるたけ痛くないようにしながら自分の服に着替えて、一つだけの木のドアを静かに開けた。蝶番が軋んだ。
出たところは廊下で、幾つかの扉が見えた。きみは全て開けて回った。
きみのいたのと同じような部屋がひとつ。あとはトイレ、洗面所とバス、キッチンと繋がったリヴィング。全体に質素な民家といった感じだ。
最後に開けた扉だけが例外だった。扉を開けると屋外に出た。戸口から続く石畳が、隣に建つもう一つの建物に向かっている。
冬の冷気がきみを包む。ブルッと震えが走った。
いくらきみが不信心でも間違えようがない。隣の建物は聖堂だった。
ということはーー。
きみはあらためて自分のいた建物を眺める。石造りの無骨な立方体のような平屋だ。おそらくこちらは聖職者の起居する司祭館で、つまりここは教会の敷地ということになるようだった。
痛みを気にしながらきみは、石畳を歩く。冬枯れの庭木が、どんよりとした曇り空に、骸骨の手のような黒い指を伸ばしている。
行き当たったのは年代物の扉で、おそらく聖堂の右の袖廊ーー十字型の建物の横棒に当たるーーの入り口になるはずだ。
扉の向こうは、小聖堂になっていた。マリア像が祭壇の上にある。内部はやけに薄暗く、少し黴臭かった。身廊ーー十字型の縦棒ーーに進むと、右手は主祭壇で、左手には信徒席が整然と並んでいた。
きみは手前の信徒席の端に腰かけた。自分がひと続きの夢の中に迷い込んでいるのでは、とまだ疑っていた。教会に来るのは子どものとき、いや、結婚式以来だ。
身廊の壁にはステンドグラスをはめ込んだ、上辺の尖った窓が並んでいた。差し込む陽光が幾何学模様や、御使いや、贈り物を運んでくる王たちを浮かび上がらせていた。
どこかが、おかしかった。胸騒ぎがしてならない。本来ならば、清浄さで充たされているはずの空間に、きみは言い様のない不吉な気配を感じていた。頭蓋骨の内側を爪で引っかかれているように、チリチリチリチリと記憶の奥底で何かが警告音を発しているのだ。
ここはまさかーー。
立ち上がろうとしたとき、それが起こった。突如として強烈な獣臭がきみの鼻を打ったのだった。気づいて天井を見上げたのと、上方から何者かがーー黒い影が落ちてきたのが同時だった。
そいつは宙で身を翻し、きみの背後にドシン、と降り立った。木製の信徒席が軋んだが、想定しているよりも音が少ない。それは相手の尋常でない身軽さを表していると思われた。きみは彫像みたく固まり動けなくなった。
生臭い息とともにGrr-gvubd-rrr……とそいつの唸り声が押し寄せて来る。恐ろしくて振り向けない。勘違いでなければそいつは、昨夜目撃したスファンクスだった。
鉤爪のついたそいつの両腕がニュウっと伸びてくるのが、スローモーションのように見えた。生き延びたと思ったのに、どうやらもうここでお仕舞いみたいだ、と他人事みたく観念する。
剛毛に覆われた腕がきみを掻き抱くように閉じんとした瞬間、鋭い叱咤が飛び込んできた。
「アニュビス! 触らない!」
それは、澄んだ女の声だった。背後の気配がすぐさま消える。と、きみの視界の隅に毛むくじゃらの巨体が頭を垂れ、恭しく跪いた。きみは初めてスファンクスの下肢に蹄を見た。こんな合成獣のような生物は地球上のどこにも存在しないーーあらためてゾッとなった。
*
声の主、左の袖廊から入ってきた女の格好は、ある意味この場に相応しいものーー修道女のそれであった。ゆったりとした筒型衣の腰部分を紐で留め、頭から顎までを覆う頭巾を被っている。
どこかケイトに似た面差しの女性だった。肌はミルクコーヒー色で、弓月のような眉が黒い。その下に大きな巴旦杏のような瞳があった。小作りな顔と背丈は少女のようでもあったが、見た目に似つかわしくない厳かな空気をまとっている。その証拠に彼女が、
「アニュビス、ねぐらへ!」
と命じると、背後の気配が瞬く間に溶けていった。彼女がゆっくりとこちらに近づいてくる。
「ええと、その……」
焦って自分が何を言おうとしているのか分からない。様々な疑問がいちどきに押し寄せ、きみを呑み込み、混乱させた。落ち着け、と自分に言い聞かせる。そうだ、ときみは思い至る。
「まずはお礼を言わなきゃならなかった。助けてくれてありがとうございます」
きみが頭を下げると、黒目がちな彼女の目許が少し緩んだように見えた。
「ご気分はいかがです? 身体はつらくないですか?」
「はい、何とか……。ええと、ここは?」
「ここは司教協議会に属する、サン・ジャン教会です」
きみは悪寒の正体に気づき、ゾクッと総身がそそけだった。サン・ジャン教会は〈血の風車事件〉の現場となった場所だ。ということは……。
袖廊と身廊の交差部の床をきみは、嫌悪感をもって眺める。折しもいま女性が立っている場所だった。あそこにバラバラにされ、並べられたニエマンス司祭の死骸があったのだ。
「では、あなたは?」
「わたくしは、星の智慧派教会のレン修道院に所属する者で、クロエ・ソニエール。シスター・ソニエールと申します」
彼女は威厳を取り戻して言った。取り澄ますと、彼女の声はどこかヒンヤリとした響きになる。
「ええと、僕はバズ・ブライチャート。会社員でーー」
「〈リヴィングストン・リサーチ〉アントワーヌ支局勤務、ですね」
きみの話を、彼女がやんわりと訂正する。
「申し訳ございませんが、寝ている間に調べさせてもらいました」
それともう一つ、と目を丸くしたきみに、彼女が言う。
「ブライチャートさん。あなたに警告しなければなりません。どうかもう〈ビヤーキー〉には近づかないようーー」
彼女はきみに質問する間を与えずに、司祭館へ促した。仕方なくきみは、彼女に従って移動する。去りしなに振り返ったが、さっきのスファンクスは、影も形も見当たらなかった。
*
彼女に断ってから、会社へ電話を入れた。体調が悪いため休みたいと告げる。有給休暇を消化しているようで嫌だったが、実際に身体のあちこちが痛む状態では、仕事に向かう気力は起きなかった。
キッチンと繋がった司祭館のリヴィングは、慎ましやかだった。テーブルとソファ、カウチ、本棚。きみが腰を下ろすと、古びたソファが過重で悲鳴をあげた。
「本来なら、病院にお連れするべきなのですが極秘任務中でして。ご了承願います」
任務、という言葉に引っかかりを感じるがきみは、ひとまずシスター・ソニエールの差し出してきた暖かいミルクティのカップを受け取る。それをすすると、冷えた身体がじんわりと温まってきた。彼女は自分のカップには口をつけず切り出してきた。
「ブライチャートさん、少しお話をお伺いしてよろしいですか?」
「話?」
「ええ。どうしてあなたが〈ビヤーキー〉と接触しようとしたのか」
「ーー何だかまるで取調べみたいですね」
相手はきみの命の恩人、まして、同席するのにやぶさかでない美しい異性なのだが、どうも雲行きが怪しい。ぎこちなくおどけてみせたきみにシスターが柔和に微笑んでみせるが、胡乱な愛想笑いに見えてきた。
「そんな。わたくしにそのような権限はありませんわ。ちょっとお聞きしたいことがあるだけです。そう、お腹は空いていませんか? 朝食を召し上がりながらでは、いかがでしょう?」
普段ならありがたく頂戴するところだが、珍しく空腹感を感じていなかった。出来れば早く家のベッドに入りたい。そしてそのためにはきっと、聴取に応じなければならないのだろうーー。きみは仏頂面で答えた。
「結構です。……どうしてギャング団に接触しようとしたのかと言えば、仕事です。正式な依頼に基づいたものです。会社に確認してもらえれば分かりますよ」
「差し支えなければ、どのような依頼で?」
「……ご存知の通り私どもには守秘義務というものがありますんで」
きみは慎重に答える。
「ですから、私も上司の判断を仰がないことには調査内容をお話しするわけには参りません」
彼女は、さもありなんというように頷いたが、引く気はない様子である。
「もちろん承知しております。ですけどーー」
シスターは天使のような微笑みを見せると、にわかに謳うような調子で話し出す。
「『You have saved our lives. We are eternally grateful.(命の恩人、感謝永遠に)』」
それが、アンが好きだった『トイ・ストーリー』のキャラクターの台詞と気づいてきみは、内心、狼狽えた。どこかケイトに似たシスターが物まねを口にしたので、尚更だった。
確かにきみは彼女に命を救われた。気骨のある探偵ならばあくまで職業倫理を優先したろうが、きみはそうではない。とはいえ、言われるがままというわけにもいくまい。
「ですがーー」
反論しかけたきみは、舌が上手く動かないことに気づく。酔っ払って呂律が回らなくなったみたいだった。舌先が痺れたみたく動かない。言葉が出てこない。いや、舌だけではない。
頭が、脳そのものが、麻痺しているみたいだった。視界がぼやけシスターの声が遠い場所からの聞こえてくるように思える……
……彼女の双眸が朱く鬼灯のように赫いて……ブウウウウウウウウンン……と羽唸りめいた耳鳴りが頭蓋に木霊し……気圧が低くなったような不快感に包まれ……この部屋は何だかひどく息苦しい……
……
……
……
……きみはふと、ぼんやりと彼女を眺めていたことに気づいた。途端にばつが悪くなる。
「……わかりました……お話ししましょう……」
あと僅か数日で探偵稼業ともおさらばだ……かまうものか……と胸の裡で呟くが、きみは己の変心の原因に思い至ることなくバロー事件の概要を話し始める。
*
「……ではブライチャートさんは、彼ら〈ビヤーキー〉が、リュシアン・バロー氏を殺害した犯人だと考えているわけですね」
「分かりません。それを確かめる前に殴られたもので」
そして化け物に遭遇したので、とは口に出さない。
「なるほど。では言い方を変えると、仮に彼らが犯人だとして、どうして彼らはバロー氏を殺害したのでしょう」
「それは……強盗に入ったとき、たまたま居合わせてしまったからでしょう」
話しながらきみは、自分の言葉に違和感を感じていた。この事件には不審な点が幾つかある。ヴィコ刑事が指摘した、侵入のタイミングやその後の行動のちぐはぐさなどだ。たまたまと言ってしまえばそれまでだが、奇妙であることに変わりはない。きみは段々自信がなくなってきた。
「そうですか……わたくしからは以上です。お話を聞かせて頂いて有難う御座いました」
唐突に取調べのーー彼らの言葉ではお話ーーの終わりを告げてシスターが立ち上がった。
「もう帰っていいんですか?」
ええ、とシスターがにっこり微笑む。きみは釈然としない思いで、のろのろと立ち上がる。どうして自分がペラペラと喋ったのか分からない。それにまだ頭がくらくらしている。しかし何だったのだろうか、さっきのあの奇妙な感覚は……。
彼女が後ろから声をかけてきた。
「本日、我々があなたに接触したことはくれぐれも内密に願います。それと」
トーンが低くなった。
「先ほども言いましたが、今後、〈ビヤーキー〉に関する調査は一切、中止願います」
有無を言わせぬ口調だった。きみは振り向いた。
「どういうことです?」
「言葉通りの意味です」
「調査を打ち切れと?」
「あんな目にあって、まだ続けるおつもりですか」
きみは少し考えた。言われてみればそうだ。
「確かに、後は警察の仕事ですね」
あっさりときみは認めた。
「警察へも、当分は漏らさないで頂きたい」
この要求は意外だった。
「どうしてですか。善良な市民の義務に反しますよ」
「善良な市民はGPSなど使いせんよ」
言い返す言葉もないが、答えながらきみの脳裏に昨夜の出来事が想起される。地獄の底から沸いて出てきたような恐るべき化け物ども。左脚が忌まわしい肢に掴まれた感触がまざまざと蘇る。その恐怖ーー。
悪夢のようなそれに耐えかね、つい逆に質問してしまう。
「どうしてシスターは〈ビヤーキー〉ことが知りたいのですか? いえそれよりもーー」
化け物に掴まれた足首が疼く。きみは自分が抑えられなくなる。
「昨夜の騒動、あれいったい何だったんですか? あの……あの化け物たちはいったいーー?」
心外という風に、シスターがきみを軽く睨む。初めて彼女の本心らしきものが垣間見える。
「化け物だなんて。わたくしの可愛い仔犬のことですの?」
シスターの目つきが剣呑になり、にわかに獣臭を嗅いだように思える。きみはそれ以上言葉を継げなくなる。気まずい空気が流れる。
「……ごめんなさい。ブライチャートさんはあくまで巻き込まれた被害者側でしたわね……」
どうしてだかシスターは下手に出る。その企みをきみが識るのは、まだ先になる。
「ある程度なら質問にお答することはできますわ。お時間のいただけるならば、昨夜、ブライチャートさんが見たモノをご説明差し上げますが……よろしいのですか?」
「というと?」
「聞いてしまったら……もう元には戻れないかもしれませんよ?」
物語のありふれた脅し文句のようなその言葉をきみは、初めて恐ろしいと感じる。
きみはまるで罠にかかった獲物のような心持ちで、ゴクリと喉を鳴らした。
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