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4、
呼び声が聴こえる……いや音というべきだろうか……人間には絶対に発音することは出来ず動物や蟲の鳴き声でもない……いかなる発声器官ならばこのような心をかき乱し不安を煽り耳を塞ぎたくなるような音を発することが出来るのか……嗚呼……また地震だろうか眩暈だろうか……ぐらぐらぐらぐらぐらぐら……揺れるゆれるユレル………………
*
流れてきたのは、心地よいメロディだった。さわさわとそよ風のような音。だがヴォリュームは次第に上がっていき、やがてけたたましい電子音になった。
ドロドロに溶けて床と一体化していたきみはーーあくまで意識の上でだがーー部屋の隅に散ばっている腕をたぐりよせ、キッチンにまで飛び散っていた脚を集める。そろそろと意識が象を成してくる。感覚の戻ってきた腕を伸ばして携帯電話のアラームを止めた。
半ば覚醒しきれていない頭の奥で、小人たちが歌っている。〈朝だ。朝だ。いつもの朝だ。〉そうだ、ときみは答える。いつもの朝だ。二日酔いの。
ベッドから抜け出すのに、どれだけの勇気を振り絞ったらよいだろう、と考えているうちにまたもや意識が溶け出していき、そこで思い出したように再びベルが鳴り響いた。
すぐ隣で人の動く気配がした。アラームが止まる。うっすらと視界に光が射す。目を醒ましかけていて、外界が滲んでいるのだ。きみは瞼を開こうとする。ひどく重たいがその気になればできる。ほら、もうひと息。ぼやけていた世界が焦点を結びだすーー。
真ん前に女の貌があった。
反射的に眸を閉じ、ゆっくり五つ数えてからまた瞼を押し上げる。消えていなかった。幻覚ではなさそうだ。
女が薄く目を開けて、おはよ、と笑った。きみはのろのろと上半身を起こした。向かいの壁をぼんやりと眺める。
白い壁には、南の海の写真が載ったカレンダーがかかっている。どこまでも蒼い珊瑚礁の海。眩しい白砂。のんびりとした日差しが午睡を誘っているようだ。日付を追う。二週間後には、好きなだけ寝ていられる。そう、南の島にだって行けてしまうかもしれない。くすぐったいような気分。それ以上の感慨は湧いてこなかった。昨夜の寂寥感はすっかり薄れていた。そんなもんか。
「それで」
きみの声は掠れていた。
「なんで、ここにいる。キャル」
返事はなかった。きみはベッドから降りる。上掛けの端をつかんで、せーのでひっぺがした。きゃっ、と声をあげてキャルが起き上がった。
「何するのよ」
「それはこっちの科白だ」
自分もキャルも、昨夜の服のままなことに、少しほっとする。
「どうしてこのベッドにいる」
「覚えてないの?」髪をかき上げる。何故か言いよどむ。「自分で誘っておいて?」
キャルが艶っぽい眸できみを覗きこむ。奇妙な間。顔を逸らしたくなった。
「……冗談はそれくらいでーー」
「ちぇ、つまんないの」
キャルはふくれて、ベッドから、のそのそと降りた。
(ーー危ない、危ない。)
何が危ないのかはハッキリしないが、きみは心の中でひとりごちる。
「送ってきてあげたんだから、感謝してよね。すごおく、重かったんだから」
すごおく、を強調して言う。
きみは下戸なのだった。しかし昨夜はつい勢いで、小さなクロネンブルグ(ビール)を空けてしまった。すっかり前後不覚になってしまったきみを、シフト明けのキャルがタクシーに押し込んで、ドライバーと一緒に部屋まで運んできてくれた。きみをベッドに放り込んでから、一休みしているうちに、自分も眠り込んでしまったということらしい。
「大丈夫。なあんにもしてないから」
きみの不安な顔色を読んで、キャルが言った。リモコンでテレビのスイッチを入れる。もう起きなさい、とおふくろみたいに言う。
反論する間もなく、シャワー借りるよ、と奥に消えていく。現実感のないまま、きみは呆然と画面を眺め出した。
ニュース専門局の地方向けチャンネルでは、中年の男性キャスターと若い女性アシスタントが、にこやかにローカル・ニュースを読み上げている。ハイウェイの事故。地元企業の汚職疑惑。激戦の続く市長選の行方。アントワーヌ市では聖誕祭の特別記念公演として、古代劇場で戦前の幻の戯曲を現代風にアレンジしたものを上演する予定です……。
「ねえ」
きみは飛び上がった。ぼうっとしていたらしい。
「この家ってさあ、どうしてどこにも鏡がないの?」
頭をタオルで拭きながら、キャルがきいてきた。そういいながらもすっぴんを気にする風もなく、あっけらかんとした様子。しかしどうみてもXXにしか見えない。
きみはどう答えるか迷った末に、結局、素直に告白した。
「……苦手なんだよ、鏡が」
どういうこと、とキャルが横に座った。きみはさり気なく、距離をとる。
きみが鏡を覗くことができなくなったのは、いつの頃からだろうか。はっきりしたことは言えないが、ケイトがアンを連れてきみの前からいなくなった辺りじゃないかと、きみは考えている。
とにかくきみは、鏡が怖いのだ。とてつもなく。ショウウィンドウや水鏡などは比較的平気で、だから街中を歩けないほどではない。しかし、はっきり姿の映る、いわゆる〈鏡〉だと、もうだめだった。近くにあるだけで心臓が嫌な動悸を打ち始め、やがて息が苦しくなってくる。鏡面のきらめきが視界に入ると、反射的に顔を背けてしまうので、人や物にぶつかることもたまにあった。
医者には鏡恐怖症の一種ではないかと言われ、カウンセリングもしばらく受けていたが、面倒臭くなって、そのうち通うのをやめてしまった。
「平気なの?」
キャルが心配そうに言う。
「ああ、日常生活じゃ、取り立てて不便はしてない。髭剃りのときと、ネクタイを締めるときくらいかな」
きみの下手くそな冗談に、キャルはくすりともしない。
「ねえ、バズ君」
「ん?」
「あなた、やっぱり私と暮らすべきよ」
ありえないね、ときみは胸のうちで呟いた。
*
朝食の食器をシンクに放り込む。キャルは意外に料理が上手いことが判明した。まさに理想の花嫁だ。くどいが、XXだったらだが。
鍵を閉め、エレベーターは使わずに階段で降りる。きみの部屋は三階だ。いくらエレベーターの真ん前の部屋とはいえ、太ったきみを運ぶのは容易ではなかったろう。やはりキャルには感謝しなければならない。
*
第八区の最寄駅で地下鉄に乗り、会社のある第九区のいつもの駅で降りる。境遇が変わって、通い慣れた道が劇的に変化して見えるということもなく、きみはいつも通り会社へ向かった。
休憩室でコーヒーを飲み、一息入れる。マコーレンの指示で、ジュリアン・カルノーの件を、隣のデスクの先輩に引き継ぐ。マザラン支局長が、きみをデスクに呼びつけた。
「聞いたか」
淡々とした口調。
「はい」
「俺は最後まで反対したんだがな」
俺の力不足だ、とポツリと言う。それがおためごかしに聞こえないところは、さすがの人徳といえるかもしれない。
「いえ……ありがとうございます」
他に言えることもなかった。きみは頭を下げると、デスクに戻った。
昨夜、尾行したジュリアン・カルノーの案件を先輩に引き継ぎをしたあと、きみは、ラップトップで、ブリーフィングされたリュシアン・バロー事件を検索してみた。幾つかヒットしたものの、内容はベリルに聞いたのと大差がなかった。
さて、どうするか。
犯人探しなぞ、街場の探偵の出る幕ではない。それは承知の上だが、かといって馘首を宣告された途端に手を抜いたなどと邪推されるのも業腹だ。
きみはため息をついて、会社を後にする。電動三輪車には、乗らないに越したことはなかった。
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