タブロイド

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7、  女がひとりなのを確認して、声をかけた。 「あら、さっきの新聞記者さん」  女は愛想良く返事をしてきた。フリーライターを名乗ったはずだが……まあいいか。 「いいところでお会いできました」  きみは〈眼鏡さん〉ーー名前は、アデール・マルローと言ったーーをすぐ近所のカフェへ誘った。夕方になって、気温がどんどん下がっていた。晩の買い物をしていた〈眼鏡さん〉も、鼻の頭が少し赤くなっている。暖かいお茶は魅力的だろう。 「実は、聞き忘れていたことがありましてね」  公園からとんぼ返りしたきみは、目をつけたショッピング・マーケットに張り込んだ。近所で手頃な買い物場所はここに違いない、とヤマを張ったのだが、首尾よくアデール・マルローを捕まえることが出来たのは幸運だった。 「遠慮なさらずに、お好きなものを注文してください」  メニューを差し出す。マルローは、フルーツと生クリームの乗った甘いタルト(タルト・シュクレ)とエスプレッソを注文した。 「先程、お尋ねしたときに、不審な車の話をしておられましたよね。そこのところを詳しくお聞かせ願いたいんです」 「ああ、あれ」  マルローは、てっぺんのクリームをすくって口に運んでから、私が言ったってバラさないでね、と小声になった。 「あの日、私、事件の少し前に例の無人店舗(U・S)に行ったんですよ」 「へえ……ええ!?」 「ううん、私はなんにも見てないの」といかにも残念そうに言う。「でもね、その時、クラーセンさん家の前を通りかかったら……お宅の真ん前に青い車が止まってたのよ」 「それは、クラーセンさんの家のお車ではないんですか」  それのどこが秘密の話なのだ。  アデール・マルローは、やけに柄の長い気どったフォークを振ってみせた。 「あそこは旦那さんが単身赴任なさってて、車はないはずなの。奥さんは運転できないし」  なるほど、確かにそれは不審だ。 「で、私、これは犯人に違いないって思って喋りそうになったんだけど……」  ザクザクとタルトを崩している。どうやら喋りにくい事らしい。ーーしかしタルト好きなきみには、ちょっと勿体ない食べ方に映る。 「教えてください。犯人逮捕に繋がるかもしれないんです」  きみは先を促した。 「別に不審じゃないんですって」 「は?」 「車の持ち主は分かってるのよ」 「と、いいますと」  私もさっき聞いたんですけど、とマルローは説明を始めた。車はこの地区を担当している保険外交員のものだということだった。マルローも一度、話したことがある、ハンサムな顔立ちの青年らしい。でもどうして保険屋が深夜、住宅地をうろついているのか。  珍しく勘が働いた。 「ひょっとしてクラーセンさん……その方と?」  そうらしいのよ、とマルローは身を乗り出した。砂場の少女の母ーーテレサ・クラーセンの不倫は、あの辺りの主婦たちの間では、公然の秘密だったらしい。 「私、最近、引っ越してきたばかりだから、よく知らなかったのよね」  マルローは肩を竦めた。 「その話、警察には」 「してないわよ。そんなことしたら、ホワンさんになに言われるか分かったもんじゃないわ」  ホワンというのは、例のリーダー格の女らしい。 「あの人ったら、自分の身の周りに、不倫や強盗が存在するなんて信じたくないみたいだから。あの人、昔、何の仕事してたか分かる?」  きみは直感で答えた。 「ひょっとして、先生?」  マルローはにんまりと笑った。今日は冴えている。 「正解。先生ってすぐ分かるのよねえ。どうしてかしら」  それはきっと、きみも彼女もいい生徒ではなかったからだろう。動物が天敵を見分けるようなものだ。 「ねえ、もう一個頼んでもいい?」  マルローが、メニューを真剣に見つめながら言った。本当に遠慮なく追加する。きみは仕方なく頷いた。 *  今度は呼鈴を押すなり、すぐに扉が開いた。  開けたのは、ジェーンと名乗ったあの少女だった。 「やあ、さっきはどうも。お母さんはいるかい?」  しゃがんで目線を合わせ、きみは出来るだけ丁寧に言った。それにしても他人の家ながら無用心だ。自分がアンと暮らしていたら、絶対こんなことはさせない。ジェーンは相変わらず口は開かずに、きみを中へと促した。上がってよいやら躊躇したものの、きみは思い切って少女の後について行った。  立派なリヴィングだった。上等そうな茶色い革のソファーが、低いテーブルを挟んで向かい合っている。重厚な暖炉。壁の戸棚には、高価そうな置物が並んでいる。そのソファーの足元にテレサ・クラーセンがうつ伏せに横になっていった。  きみは慌てて近寄っていった。ぷん、とアルコールが臭った。迷ったが、思いきって手で身体を揺する。テレサが薄く目を開けた。どうやら酔っ払っているだけのようだった。 「お水を頂戴」  命令口調で言われた。リヴィングと繋がっているキッチンで、コップに水を注いだ。  グラスをテーブルに置き、彼女を持ち上げる。何とかソファーに凭れさせかけた。彼女はグラスを両手で持ち上げると、美味そうに水を飲み干した。乱れた髪が額に貼りつき、妙に痛々しい。ジェーンは母親の醜態には慣れっこのようで、キッチンテーブルの上にスケッチブックを広げている。  テレサ・クラーセンが、ふうっと息をついてコップを差し出す。きみはそれを受け取った。改めてみると、テレサ・クラーセンは第一印象よりも若そうだった。ジェーン位の歳の子がいるのだから、当然なのかもしれない。だが全身を覆う、倦み疲れたような雰囲気が、彼女を実際の年齢よりもずっと老けさせていた。 「……あんた誰?」  焦点の定まらない目でテレサが言う。 「昼間、お伺いしたライターです。あの、大丈夫ですか?」  ダイジョーブ、ダイジョーブ、とまったく説得力のない声で、テレサはうけおった。  訊いても無駄かな、と内心、諦めつつも、きみは質問した。 「さっきも聞いたんですがね。ひと月前の夜、あなた、ほんとになにも見たり聞いたりしなかったんですか?」 「しつっこいわねえ」  案の定、返答は素っ気なかった。テレサは立ち上がろうと上半身を起こしかけたが、気持ちが悪くなったらしく、またソファに蹲った。 「なーにも知らないわよう」 「それでは」  きみはキッチンをちらり、と見てから言った。 「アルベールさんは何時くらいまでここにいたのですか?」  その名前を聞いた途端、テレサの動きが止まった。変わって、う、う、う、という唸り声が漏れ出した。きみは心配になって覗き込んだ。 「どうしました?」  きみの手が不意に掴れた。細い腕からとは信じられないくらいの力で、引っ張られた。ちょっ、ちょっと、と声を挙げる。バランスを崩す。彼女の腕がきみの身体に巻きつく。唸り声が湿っていく。すぐにそれが嗚咽に変わった。 *  テレサ・クラーセンは堰を切ったようにしゃべり続けた。  単身赴任先で夫に愛人が出来た話に始まり、息子を庇って自分を悪者扱いする義理の母への愚痴、仲間外れにされた近所の奥様連中への恨み言、自分だけでなく子どもまでが、いじめにあっていること、そんな中で唯一やさしく接してくれた外交員のアルベールに惹かれたこと……。 「でも、もうあの人、来ないの」  放心したようにテレサが言う。  件の強盗事件をきっかけに、アルベールはこの家にぱったりと来なくなったのだという。携帯電話に連絡を入れても、煩そうに出るだけ。  元々向こうにしても、単なる火遊びのつもりだったのだろう。そろそろ離れていこうかという時期に事件があったものだから、頃合だと、男のほうから彼女に説得を始めたらしい。  ーーいい機会だ、このまま続けていても二人は幸せになれない。だから別れよう。  それがおためごかしの科白だということは、もちろん分かっていた。けれども受容れるしかなかった。何故ならある面、真実を言い当ててもいたから。ポツリ、ポツリと呟くような口調で、彼女が言った。 「あの晩のことは、よく覚えてる。あの人はちょうど十一時過ぎに、この家を出て行った。それっきりもう……」  両手で顔を覆う。時刻を間違えようがなかった。何故ならそれが、アルベールとの最後の瞬間だったのだから。  きみは言われるままにソファを立って、もう一杯水を汲みにいった。キッチンテーブルのジェーンが、スケッチブックに何かぐりぐりと色鉛筆で描きつけている。本人と思われる女の子の絵と、少し大きい女の人の絵。片方は母親に違いない。二人は笑い、周りには花がたくさん描かれている。  パタン、とジェーンがスケッチブックを閉じた。じろり、ときみを睨む。覗いているのが気に食わなかったのだろう。椅子から降りると、スケッチブックを持ったまま、どこか別の部屋へ行ってしまった。  水を持っていくと、テレサは寝入っていた。傍にコップを置いて、クラーセン家を出た。   *  携帯電話で検索し、件のセールスマンの営業所を確認した。第三区のパルスエット通りに面した、前面が上から下までガラス張りのビルだった。しばらく考えてから、思い切ってドアをくぐった。右手の、半円形のカウンターに収まった受付の女性に、頭を下げられた。 「営業のアルベールさんをお願いしたいんですが」 「アルベールで御座いますね。少々お待ちください。恐れ入りますが、お名前を頂戴してよろしいですか」 「クラーセンです」  爽やかな営業用スマイルで、受付が答えた。彼女が受話器相手にテキパキと受け答えをしている間、ぐるりとエントランスを見回す。あちこちに観葉植物の鉢が置いてあって、目を休ませるようになっている。パーティションの奥には簡単な応接セットが設えてあるようだった。  エレベーターの扉が開き、昼の連続ドラマ(ソープオペラ)でよく見る俳優に似た、甘いマスクの青年が出てきた。銀縁の眼鏡が知的な印象を演出している。テレサ・クラーセンでなくても、洒落たバーで声を掛けられたら、女の子ならイチコロというタイプだ。  青年はきみを見つけると、ひくりと顔を歪ませた。きみが口を開きかけると、「外に行きましょう、外に」と慌しくきみを連れ出した。  第一印象で相手を判断してはいけない、とはマザラン支局長の弁だ。人と話すとき人間は、意識的無意識的問わず、仮面を被りがちである。探偵はその表裏両方を見なければならない。だが、きみは心の中で確信していた。こいつはろくでもない奴に違いない、と。決して外見(アパランス)に対するひがみではなく。  近所の目立たないカフェに着くなり、アルベールはテーブルに頭を付けた。 「申し訳御座いません」  まったく顔を上げようとしない。とりあえず平謝りしておいて、この場をやり過ごそうという魂胆がみえみえだ。面白そうだからそのままにしておいてもよかったが、そうもいくまい。 「頭を上げてください。アルベールさん」  しかし、アルベールはピクリとも動かない。きみはため息をついた。 「実は……私はクラーセン氏本人ではありません」  がばっ、と身体を起こして、不安そうな顔で見つめる。 「私はこういうものです」  きみは自分の名刺を出した。 「探……偵?」  アルベールの顔に一層、影が差す。 「ついでに言って置きますと、私のクライアントもクラーセン氏ではありません。お伺いしたのは別の件です。クラーセンさんの名前を使った事は謝りますよ」  それでもアルベールは、疑わしそうな眼差しのままだ。 「ひと月前の十一月七日の夜、クラーセンさん宅の裏の無人店舗(U・S)で、強盗事件があったのをご存知ですか。あなた、その晩、クラーセン宅にいらっしゃったでしょう」 「ぼっ、僕がやったっていうんですか」  勢いよくアルベールが立ち上がった。きみは少しウンザリしてきた。どうやら見てくれほど賢くはないようだ。 「そんなことは言っていません」  座ってください、と嗜める。まわりの客が、何事かと目を向けている。 「私としましては、事件当夜、あなたが犯人に関する何かを目撃していないか、お聞きしたいだけです。あなたがあの家を出られた時刻はちょうど、犯行があった時間と重なります。あなたがどうしてその場所にいたのかは、興味がありませんよ」 「……」 「どんなことでも構いません。思い出していただけませんか」  アルベールの瞳が泳いだ。明らかにーー何かを目撃したのだ、この男は。だが、アルベールの返答は予想外だった。 「……そんな場所には行ってません」 「は?」 「だってそうでしょ。僕の車が停めてあったとおっしゃいますが、証拠でもあるんですか」  こいつ、意外にしぶとい。というか往生際が悪い。 「ですが、あなたはクラーセンさんと、その、関係を持っているんでしょ?」 「ですから、証拠を見せてくださいよ」段々、ふてぶてしくなってきた。「確かに営業でクラーセンさんのお宅には何度かお邪魔しました。でもそれだけですよ。第一、僕には婚約者(フィアンセ)がいるんですよ」 「婚約者(フィアンセ)?」 「ええ、うちの会社の支店長の娘さんです。来年の春には式を挙げる予定なんです」  と、いうことはテレサ・クラーセンとは、最初っから遊びだったということか。 「ですがテレサさんは……」 「どうしてそんなことを言ったのか、理解に苦しみますね。彼女もご主人と離れてしまって随分寂しいみたいですから、妄想と現実が区別つかなくなっちゃったんじゃないですか」  そこまで言うか。さすがのきみも腹が立ってきた。 「ではさっき、クラーセンと名乗ったときは、どうしてあんなに慌てたんです。どうしてここへ来るなり、申し訳御座いません、なんて頭を下げたんです」  うっ、と詰まる。わざとらしく腕時計を覗く。 「すみません。仕事があるんで、社に戻らせていただきます」  アルベールは慌しく席を立った。それと、と付け加えた。 「これ以上、僕に付きまとったり、妙な噂を広めたりしたら、訴えますからそのつもりでいて下さいよ」  きみは呆然とそれを見送った。
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